投稿者: Mitsuhiro

台風

 台風が接近するという予報が出た。まだ正確な予報ではないようだがら予報円の中に我が生活圏が入っていた。梅雨の後半は大雨の被害が出やすい。何事もないことを祈りたい。

椿の実

 通勤途中の道端に椿の実がなっているのを見つけた。小さな林檎のような色をしている。ただもっと球形の可愛らしいのものであった。

 中にある種子からは椿油が取れるらしい。子どものころ伊豆大島に行った。土産物屋で母が買ったのは椿油だったことからその存在を知るようになった。もっとも子どもたちにとっては椿の種を何かでコーティングして作ったキーホルダーの方が気になったものだった。

 椿など庭木としてはありきたりのもので、花はいつも注目してきた。それなのに実の存在を知り、まじまじと見入ったのは初めてだ。見逃していることのなんと多いことか。恐らく他にも目の前にありながら見えていないものはたくさんあるのだろう。

デザイン

 同じものでも色が異なるだけで気分が変わることがある。図案や造形が加わればもっと効果が大きい。私は結構見た目で左右されている。

 ならば身の回りにあるものにデザインを施してみよう。といっても画才はないので既成のものを貼り付けるだけである。シールもいいが色紙を貼るだけでも変わる。毎日使っているノートに千代紙を貼れば親しみが湧いて手に取る回数が増える。それだけで効率が上がるとは言えないが何かに変化が起きることは確かだ。

 散財しなくてもデザインの魔法はかけられそうだ。いろいろ試してみたい。

抽象画

 抽象的な絵画は苦手だった。単なる色の羅列のように見える絵はよく分からないし、題名をみても無題とあったりするとお手上げだ。笑ってしまったり、時にはイライラすることもあった。

 ところが先日、件の絵画に対したとき不思議な思いになった。脳の何かに作用したのかめまいのようなものを感じたのだ。そこにいろいろな幻影が浮かんだものもある。

 抽象的絵画の中には意図的に描かれたものが多いようだが、中には画家が実際にそのように見えたものを具現化したものもあるということだ。ならばこれは脳の深い層にあるものの見え方と関係を持っているのかもしれない。そう思うからそう見えるだけかもしれないが。

 美術館に行くことが脳の深部に触れることに繋がることは以前から気づいていたが、それを痛感するようになっている。

財産の使い道

 美術館の大半は財団の運営によるものだ。財を成した経営者が社会還元という名目で美術品を買い、それを美術館という形で一般に開放する。それはそれでありがたい。もし芸術が一部の権力者や財産家に独占されていたとしたならば、世の中は面白くないものになるだろう。

 財産の使い道はいろいろあるが社会還元という視点は欠かせないと思う。私には分けるべき財はないので、せめてささやかなボランティア活動でもしてみようと思う。もう少しで退職の時が来るだろうが、大切なのはその後だ。世の中のために何ができるのかを考えてみたい。

 もし私に財産があるとしたら、そういう思いになれることくらいだろう。

軽薄な知の活動

 本を処分するときに様々な痛みを感じることはなかなか理解されなくなっている気がする。たまにしか読まないものに容積を譲り渡すのは愚かだとさえいう人もいる。そして反論がどんどんしにくくなる。

 書籍もデータベース化されると物体としての本の価値は消滅するかのように思える。しかし本当にそうだろうか。書棚の前に立ち背表紙のタイトルに関心を惹かれることには意味がないのだろうか。いつか読まれることを待っている本に私は大きな意義を感じている。

 おかしいのだろうか。

剪定

 実家の垣根の剪定を少しだけやってきた。椿やみかん、笹などが伸びすぎている中には棘のある蔓草もあって厄介だった。ほとんど手つかずになったのが寂しい。家は主とともに姿を変えてしまう。

激しい雨

 午前中に短時間であったがかなり激しい雨が降った。梅雨時の降り方ではない。雷雨の通り過ぎるのは真夏の天気のようだった。考えてみれば梅雨のような曇天が長く続き、かといえば真夏のような陽気になったこともあった。

 このような雨は異常気象の現象なのだろうか。短絡はできないが、今夏も一筋縄ではいかないようだ。

 マスクをはずせない2回目の夏となるが、穏やかであってほしい。

 葛は万葉集に秋の七種に数えられたのが縁で秋の季語である。ただ、強い生命力で斜面を覆い尽くすような繁殖力が目を引くのは今頃の季節であり、梅雨空の救いにもなっている。

 古典和歌の時代から観察し続けられてきた葛は、様々な表現方法があるがそれ以外のものがないかと探したくなる吸収力がある。蔓草のちなみで言えばその歴史にぶら下がり、さらなる蔓を伸ばしたいと思うのだ。

 毎日見る緑にも様々な魅力がある。

答えはない

 答えがすぐに出ない問題に対して向き合う余裕は大切である。最近は何でも即決即答が良いことのようにいうが、その類のものは実はどうでもいいことなのかもしれない。

 定説のない大問題や、根本的原理に関わる問題はすぐに解決できるとは限らない。できたと思っても別の可能性が立ち上がることもある。時間をかけてしかも不断の関心を持ち続けることでようやく端緒にたどり着く。そんな問題もある。

 私がかつて目指していたのはそういう問題だったはずだ。立ち位置を見直してみたい。