記憶はときに曖昧になり、脱落したり変容したりする。過去を正確に再現することは難しい。時間が経てば経つほど、事実は分からなくなる。
ただ、私たちの思考や行動がこれまでの経験に裏打ちされているのは紛れもない事実だ。その基準となるものが揺れ動くものであることが不思議なのである。
文字や映像に残せば少しはましになる。でもそれをどのように受け取るのかはどんどん変わってしまう。結局はつぎはぎの記憶と印象を組み合わせて私たちは今を生きていくしかない。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
記憶はときに曖昧になり、脱落したり変容したりする。過去を正確に再現することは難しい。時間が経てば経つほど、事実は分からなくなる。
ただ、私たちの思考や行動がこれまでの経験に裏打ちされているのは紛れもない事実だ。その基準となるものが揺れ動くものであることが不思議なのである。
文字や映像に残せば少しはましになる。でもそれをどのように受け取るのかはどんどん変わってしまう。結局はつぎはぎの記憶と印象を組み合わせて私たちは今を生きていくしかない。
作業時間の短縮を呼びかける人たちの中には、明らかに心的な余裕をなくしている人がいる。作業時間を減らせば効率が上がるというのは事実だが、それで終わってしまえば自分を機械に調和させたというだけの話だ。
大事なのはその後である。機械的な仕事は効率化してより曖昧で複雑なことに関する考察をする時間を持たなくてはなるまい。作業効率はそのための手段に過ぎない。となると、そのより高次の思考にも機械的な発想を持ち込まないか心配になる。
決められたことを処理する仕事と、未知の分野を開拓する仕事は性格が異なる。試行錯誤の上で無駄になることが数多く出てしまう。まさに失敗の山からわずかな成功を見いだすことが寛容だ。
時間短縮恐怖症の人々にこの忍耐力を持っていただかなくてはやはりイノベーションは起きず、徒労感のみが残ることになりそうだ。
年賀状を出す人は年々減っているように思う。昨年は喪中であったため、賀状を出せない寂しさを味わったが、そもそも出す必要があるのかと自問自答を始めている。
賀状だけでつながっている人は多い。そういう人とのつながりは淡いものであるが、実は心の支えになっていることもある。賀状を書いたり、その人からもらったりすることは、かつての自分に立ち戻ることができるささやかな一瞬でもある。人との関係は大きく変わってしまっていて、それを取り戻すことはできない。しかし、当時を思い出すことだけはできる。
ソーシャルメディアでの連絡は常に現在の人間関係を意識させられるが、手紙はあくまで自分の思いを乗せることができる点で「ともだち」とは異なる。その意味では年賀状を交換する意味は失われていないのかもしれない。
これまでもよく述べられて来たことだが、生産性の確保や向上のために人事面にも流動性を高めるべきだという議論がある。終身雇用を前提とする制度が諸悪の根源のような言い回しだ。人事の硬直が仕事の保守的傾向を強調しがちであることは容易に推測できる。
ただ、ならば能力主義なり、業績主義だけでよいかというとそうでもないのではないか。経験が蓄積されることも必要であり、職能を磨き上げてきたことが日本企業の強みになっていた。それがいま効率主義によって揺らぎつつある。「働かないおじさん(おばさん)」の話はよくでる。解雇が難しい日本の雇用形態では仕事と個人の能力がミスマッチする可能性が高く、その結果として働いていないように見える社員を一定数生み出してしまう。でも、それは経験をもつ社員をうまくいかせていない現実の裏返しでもある。経験に応じてふさわしい仕事にシフトしていける日本の雇用体系を活かしきっていないのだ。
私は終身雇用体系の利点をいかしつつも、新しい雇用形態を目指すべきだと考える。イノベーションには新しい考えが必要だと言うが、私は多様性の方が大切だと信じている。優秀な若手はもちろん欠かせない。しかし、経験豊富な人材もいなければ本当の新機軸は得られないのではないか。
社会情勢が不安定になると極端に走ることは歴史が教えてくれる。能力主義がいいと考え、たまたま成功例が出ると、それに一気に追随する事態になるかもしれない。だが、日本型企業を他国に勝るものにするならば、テクノロジーと伝統・習慣が適度に調和したシステムへと成長させる必要があると感じるのである。
高校の向かいのパン屋でよく買ったのがあんバタだった。コッペパンのようなものにバターをぬり、その上に粒あんを入れただけのシンプルなものであった。部活の帰りなどに買ったものだった。カロリーとか糖質だとかを気にすることがなかったころ故、ひと頃は毎日のように食べ、その他の3食も普通にしていた。
あんバタは最近はいろいろなところで見かける。中にはマーガリンで代用したものもある。本当のところは分からないが、高校時代に食べたそれに及ぶものはない。
背筋を伸ばすことは簡単にできることだと思ってきた。どうもそうでもないらしい。
背筋を曲げたままでいるのはデスクワークの多い私の悪癖であり、さらには積極性がかける行動が体現したものと考えていた。恐らくそういう面はある。つまり背筋が伸びないのは、習慣と態度の影響であるとみなしてきたのだ。
どうもそれだけではないようだ。歳を重ねてくると自然に背筋が曲がってしまっていることに気づく。背筋を始めとした筋肉が衰えてきているのだろう。伸ばせば伸びるというものではなく、伸ばそうと努めなくてはならないものになった。
そのためには運動なりストレッチなりを続ける必要がある。やらねばならないことが増えていると考えるべきだ。
TOYOTAが電気自動車にシフトすることを予感させる発表をした。昨今の流れからしてそうせざるを得なかったのだろう。大切なのは簡単で安全なことだろう。
電気自動車に関してはいろいろな不安がある。その一つが充電設備の充実だろう。かなり増えてきたとはいえ、いざ自分が持つとなると不安だ。マンション住民などは自宅での充電ができない。近い将来駐車場はコンセント装備が当たり前になるかもしれない。
満タンにガソリンを入れることが習慣化している私たちは、恐らく充電にもそれを求めるだろう。しかし本当に必要な電力をAIなどで割り出し、必要分だけ行うこともやらなくてはならない。
それと同時に自動運転に繋がる運転の簡易化を図るべきだろう。この方面で日本企業は特に注力すべきだろう。高齢者がハイブリッド車で起こす事故は多い。感覚が違うらしい。ならば車両の方がドライバーを助けなくてはならない。
先日、インターネットを通して外国のラジオを聞いていたら、懐かしいメロディが聞こえてきた。でも曲名が思い出せない。最近はメロディも検索できるサービスがあるが、そこまでの必要性も感じず焦燥たる思いで過ごしていた。
すると、突然メロディの訳詞が思い出すときが来た。「小鳥ならば君のもとに飛ばんを」だったかと。これはどうも不確かなもののようだが確かそのように覚えていた。ここからは検索できる。この曲はドイツのもので日本では夜汽車と訳されており、望郷の思いである。だが、ドイツ語の直訳は私の記憶のものに近く、離れた恋人への思いを歌ったラブ・ソングである。訳詞の際の変更は子どもに歌わせるためだったのだろうか。
隔離を余儀なくされている人々にとっては心に響く。まさにいまの世情にあった曲だと思った。
漢字検定協会の今年の漢字が発表された。「金」なのだそうだ。オリンピックがあった年であり、給付金制度をめぐって議論があった年であるからうべなるかなということだろう。
でも、私たちは金には別の意味も感じる。いっこうに上がらない所得もまた金である。恐らく政府なり財界なりの失策が健在化しているのだろう。責任追及も大事だが、それよりも今そこにある危機を乗り越えなければなるまい。そのためには国や自治体に頼らず自己開拓で稼ぐしかない。その覚悟をくれた年でもある。
金は最後の頼れる資産という人もいるが、昨今の相場は下がるばかりだ。貴金属もよいがいまは明日への安心感がほしい。来年の漢字が幸になることを祈らずにはいられない。
最近、以前とは同じようにできないことを思い知らされる場面が増えている。もっと頑張れたことができない。自分を甘やかしているわけではないが、できないことが増えてしまっているのはしかたがない。
ただそれでもあきらめるつもりは全くない。これまでのように時間をかけてじっくりやるというのは体力や気力の制約があって難しい。やるなら短期決戦だ。そして、完璧を求めず量産することだ。これは俳句を作るのに似ている。たくさん作ってたくさん捨てよ。俳句の師の教えである。句作のみならず、これからの仕事の大半はこの戦略で行こうと思う。
今大切なのはなんでもできるとは思わないことだ。今できることを今できる範囲でやるしかない。それが凡人の戦略であり、唯一できることなのだろう。私はこの方法は他の方にもお勧めしたいと思っている。完成品を求め過ぎないことが大事なのではないか。中途半端でも発表し続けることでスキルが保たれ、上達もしていくのではないかと考えている。今できることを今やるということだ。