投稿者: Mitsuhiro

想像力

 ありもしないこと、常識を破ることを考えるのは無意味だと考える向きもある。それよりは実効性があるもの、効率性の高いものを目指すべきだというのが時代の流れだ。なにしろ無駄なく近道をすることばかりを求めすぎる。

 確かにそれは大切なことだろう。無駄なことを繰り返すより、意味のあることを集中的にやった方がいいのは当たり前だ。ただ、それだけではない。無駄、無意味は実はそうではないこともあることを思い至らなくてはなるまい。既定の仕事に関しては人工知能の発達により自動化されていくはずだ。ならば、これからは想像力のほうに注力した方がいい。

 大切なのは想像力だと思う。その意味で文学や芸術といった領域は復権すべきではないか。作り話ができるのが人間の特権ならばそれを使うことが必要なのではないか。

ボタンクサギの季節

ボタンクサギ

 この季節になるとボタンクサギの花が咲き始める。ボタンクサギは牡丹に似た臭い木という意味らしく、見た目はなかなかだが近寄ると独特の悪臭が漂う。ただこの臭いは昆虫類には芳香らしく多くの虫が集まってくる。

 臭覚上の難点はあるものの、花のおもしろさから園芸品種として売られてもいるようだ。病害虫にも強くかなりの繁殖力があるようだ。隣家の庭で数年前に一輪見つけたものが、いつの間にかこの季節は一画を占拠するほどになっている。調べてみると地下茎で増えていく種類らしい。育てるのは簡単だが、絶やすのは骨が折れるとか。

 見た目の美しさと、それを打ち消す悪習、たくましい増殖力、植物にも様々な個性があることを改めて痛感する。

危険な作業

 たとえば放射線が多くて生命に差し支えるような場所にAIを搭載したロボットを送り込んて作業させることは容易に想像可能だ。人的被害がでないのだから理想的な解決策のように考えられる。

 外部からは観測し得ない状況にあり、通信もままならないとしたなら、現場のAIは自律的なプログラムによって任務を継続することになる。それが致命的な爆発に至る可能性があるとしたとき、私たちは人工知能に命運を委ねることができるのだろうか。

 これはSFの話ではない。人生の重要な選択をどれだけ機械に任せられるのかはあらゆる場面で問われることになるはずだ。人間よりはるかに精度が高い判断をする人工知能だが、それに究極の選択を任せられるのかは哲学的問題に属するだろう。

七月

 今日から7月だ。今年も半分が終わり、後半に入ったことになる。新しいことを始めるきっかけを作った前半だが、実はまだ何も成果は出ていない。

 焦りは禁物だが、いつまでものんびりできるわけでもない。最近はいろいろな場面で身体的な限界を感じている。まだできると思えることができないことも多い。油断せぬようにこうした節目は必要なのだろう。

 下半期は何らかの形を残すことが求められる。誰にも求められてはいないが、自らの課題として人に言える成果を残したい。

風景画

 きれいな風景を描いた作品はそれだけで価値があるように思える。そこがどこであろうと作品の評価には関係ないはずだ。実際はそうではない。どこの風景で何を描いているのかは作品の鑑賞にかなり影響を与える。

 富嶽百景は相手が富士山であるから、東海道名所図会は名所を描くから価値が上がる。絵画となったから名所となる例もあるが、その前に画家は名所を描こうとしたのだ。地名の価値はその意味で大きい。

 私たちが何かを見るとき、そこに審美的な行動が伴うときには、どうも対象そのもの以外の情報も関与する。風景画も地名があることで価値が上がる。極端なことを言えば、名もなきものを取り上げるのは難しく、名のあるものだけを見ているともいえる。

学問とは楽しむもの

 高名な科学者の話を伺う機会を得た。後世まで称えられるべき発見をした方である。その方のお話は身近なところから疑問点を見つけ、それを追究することの重要性を説くものだった。大変参考になった。

 詳細な話はいろいろあったが、専門的なことになると分からない。ただ、その大学者が論語などの古典を引いて学問とは楽しむものであり、そこに至らないうちは本物ではないとおっしゃっていたのが印象的だった。綿密な科学の研究をしている人は、逆に人間的な感性というものを身につけるらしい。学びの基本を思い出すきっかけを与えていただいた。

 宿題を出し、試験を課し、点数の悪いものを注意する。そういう教育の仕方は一般的だ。試験に合格しなければ意味がないとでもいうような教育の仕方を私自身もいつの間にか毎日の仕事としてしまっている。でも、思えば私が学生だった頃、何かの役に立つこと目指して学習していただろうか。褒められたり、賞金が出るから学問をしていたのではない。単純に学ぶことが面白く、知ることで新しい世界が見えるような感覚になることが楽しかったのではないか。そういう大切な感動というものを最近は失っている気がする。

 ならば、学ぶことの楽しさをどのように伝えればいいだろう。今はそれを考えるべきだ。

傘レンタル

 駅で傘を貸すサービスが始まっている。サブスクリプションの方式で借りっぱなしでもいいようだ。安いビニール傘が雨のたびにうち捨てられているのを見ると心が痛むがこれはその解決策の一つにはなるだろう。ランニングコストがどうなのかなど気になることが多い。注目しておきたい。

都議選

 7月4日に行われる都議会議員選挙に向けての街頭演説が盛んになっている。私の住む地域では都知事の関係する政党の立候補者はいない。東京の選挙は国政にも通じるというが実はちょっと特殊だ。多党分裂で何が政策なのかも把握が難しい。そもそも志ある人なのか、単なる売名行為なのかも怪しい人もいる。

 コロナとオリンピックの特殊な事情がある今回の選挙だが、それほど盛り上がらない。都民の期待はあまり高くない。しかし、いい加減に見過ごしておいて後でひどい目に会うものも嫌だ。やることはやっておかなくてはなるまい。

空騒ぎ

 感染者が職場で出たということで一時混乱した。結果的に測定の間違いであることが分かりなんでもなかったのだが、簡易検査の段階では黄信号が灯ったのである。

 最終的には笑い話になったのだが、これで業務が止まったことは確かだ。私としては余裕のある一日を過ごすことができたのでむしろ感謝している。思うに一人の健康がここまで集団を動かすという事態は現在特有の問題である。変だが個人の存在が大きく感じられていることになる。

 こうした騒動はこれからも何度もありそうだ。恐らく数年後には本当の笑い話になるだろう。いや、そうしなければならない。

吉川英治

 吉川英治記念館を10年ぶりに再訪した。青梅市に移管され運営されていた。雨が降ったあとで、かえって庭園の緑が映えていた。

 大衆小説の大家として成功したこの作家は幼少期から青年期にかけては恵まれておらず、最初の結婚も破綻するなど前半生は苦難の連続だったようだ。加えて関東大震災に第二次世界大戦終結までの混乱があった。

 その中で、たたき上げの文筆活動が成功し流行作家になった。後半生は交友関係にも恵まれていたらしく、様々な人々との交流があったようだ。展示されていた吉川英治に宛てた様々な人々の書簡の多くは親しみの伺える内容であり、そこに人柄が浮かび上がる。

 吉川英治の作品の多くが分かりやすく人間味に溢れているのも、そのような人柄によるものかも知れないと察したのである。