すでに骨董品の域にある車に乗っている私にとって、電気自動車はいつも気になっている。環境問題の解決策というが製造から廃棄まで考えて本当にガソリン駆動よりいいのか知りたい。
それよりも現状ではあまりに高価であることや、充電設備の不安が購入意欲を妨げる。日産等が発売した軽車両型の電気自動車は何とか手の届く価格になりそうだ。買えるとしたらこれだろう。今のところ充電できるスポットは少ない。これが増えた頃に検討してみよう。
それまで自分で運転しようという意欲が続いていればだが。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro

コロナによる経済停滞がさまざま問題を起こしている。経済的な基盤の弱い企業が少しずつなくなっていき、街の様子が変わりつつある。そうでなくても低成長と人口減少、少子高齢化などの難問がある中で、地元の経済圏を支えることの意味が問われている。
以前、長崎を訪問した時、地元の起業家から地域経済の危機をうかがったことがある。市内にある多くの企業は県外の支社であり、その収益の多くは県外に流出してしまう。お土産として買われていくものの中にも実は県外で生産されているものもあり、製造過程から地元経済圏への恩恵は少ない。最近は中国企業の進出もあって国外への流出も顕著だ。これはコロナウイルス流行前のことだったので、事情は変わっているかもしれないが本質的な問題は変わっていないだろう。
その起業家は地元で作り、地元の店で売ることが大切だと繰り返していた。そのために小さな企業を立ち上げ、地元の人を雇い、観光客に本当の地元の商品を届けるのだと言っていた。大切な視点だと痛感した。もっと言えば地元の人でも欲しいと思うものを作らなくてはならない。
チェーン店のものを買うのにすっかり慣れた私たちは、旅行先でも自分の街でも見慣れたブランドの店を選びがちだ。飲食店でいえばそこそこ安く、味の最低限の保証はあり、値段がいくらであるか見当がつく。そういう店を選びがちだ。しかし、これでは地元に落ちるカネは限定的なものになる。個人の商店が作るちょっとだけ高いがそこにしかないものを評価する考え方がいる。
収入の増えない日本人にとって少しでも安い店を探すことは仕方がないことだ。しかし、安さを追求するあまり地元の経済を瘦せさせてしまったならば、様々な不利益は結果的にわが身に降りかかることになる。地元の社会は地元で支えるという考え方が見直されなくてはならない。

What does the fox say? を繰り返す奇妙な歌に合わせて踊るきつねダンスは北海道日本ハムファイターズのイニング間のアトラクションとして行われ話題になっている。ナンセンスだが乗りのいい曲と簡単だが印象的な振り付けで楽しい、ところで本当に狐は何て鳴くんだ?
日本人はほとんどの人はこの問いに困らない。コンコンと鳴くと子ども頃に教えられるからだ。イソップ物語では悪役が多いが、童話の世界では可愛らしいキャクターにもなる。伝統的には憑依する霊的動物であり、稲荷社には霊獣として祀られる。調理の世界ではきつね色は常套だ。でも本当にキツネを見たことのある人はどのくらいいるのだろう。
万葉集に、「さし鍋に湯沸かせ子ども櫟津の桧橋より来む狐に浴むさむ」という歌がある。恐らく宴席でそこら中にあるものをなるべく多く詠み込んで歌うという芸として披露されたものだ。湯をなぜ狐に浴びせるのかは分からない。この歌来む(こむ)に狐の鳴き声まで詠み込まれているという説もある。どうだろう。
姿を見たことがないのだから、まして鳴き声を知るわけがない。調べてみるとコンではなくコンコンコンが単位のようだ。人の声のように鳴くこともある。もっと複雑なのだ。
ファイターズのお姉さんたちが踊る歌の中でもキツネはさまざまに鳴いている。これは嘘ではないらしい。
ジェンダーレス水着なるものが発表された。性別に関係なく着られるデザインであり、肌の露出度は少ない。生物学上の性と心のそれが一致していない人にとっては朗報だろう。
こどもの頃からなぜ水泳となると男女の格好が大きく異なるのか不思議だった。私の場合性的不一致はないので違和感は習慣に吸収されてしまった。多くの人は同じだろう。てもよく考えてみればなぜ男子は上半身裸なのだろうか。それが改めて疑問になることがある。

おそらく多くの日本人は逆の考え方をする。女子には乳房を隠さなくてはならないという決まりがあるから上半身にも水着をつけるのだ。男子にはそれがないからつけないと。さらにはデリケートな部分を保護するために身につけるのだと。
それらはすべて正しいように思える。第一トップレスの女性がいたらとんでもないことになると考えてしまう。でもよく考えてみると男の上半身もそれほど頑丈とは思えない。また、女性が上半身裸の民族も世界には多数あるようだ。日本でも近代以前は普通に混浴がなされていたという。わずかに残る海女の記録でも上半身の着用はない。
性別によって何をどのように身につけるのかは文化的な問題なのだということになる。日本は近代化によって欧州文化を取り入れ、性差の文化も取り入れたために水着の価値観もそれに倣うことになったのだ。
新たに性的マイノリティーの存在が世間に認知され、人権に配慮すべきであるという考えが定着すると、別の文化が生まれる可能性がある。ジェンダーレス水着の試作品の写真を見てつくづくそう思う。結局何を身につけるか、身につけてはならないのかは文化的問題である。生物学上の問題を人間が変えることは難しいが、文化ならば少しは工夫できる。


私の世代では6月6日に雨が降るのは納得がいく。雨の特異日という訳ではないだろう。もっと単純な理由である。
棒が一本あったとさ、から始まる絵描き歌は今でも歌われているのだろうか。かわいいコックさんの両手の部分を描くときのくだりが、6月6日に雨ザーザー降ってきて、であった。コックさんの左手は6ではなく反転しているのだが、そういうものだと飲み込んだ。
この歌を絵描き歌として実際に歌ってから数十年の歳月が過ぎた。にもかかわらず私は始めから終わりまで歌うことができ、コックさんを何人でも描ける。まさに長期記憶の最たるものだ。学生時代研究した万葉集の歌で暗唱できるものは少ない。球体の体積を算出する公式はものすごく単純で短いのに覚えられない。
そう考えるとコックさんは偉大だ。記憶というものを考えるときにこのことは覚えていた方がよさそうだ。覚えられればだが。

楽器には様々な興味がある。こどもの頃から笛を吹くのが好きだった。中学生になってギターを始めた。どれも上手くはないが時々思い出したように再開したくなる。楽器を演奏し始めると暫く時間が経つのを忘れてしまう。この魅力はなんだろう。
世界の楽器の中には木や石、動物の骨や貝殻などをそのまま使うものがある。叩いたり擦ったり、息を吹き込んで音を出す。音階ははじめはなかった。叩くのものの素材によって音色が違うことが音階の発見に繋がったのかもしれない。
楽器の工夫が次々になされ、同じような音波を再現できる技術が生まれると音楽は公的なものになっていった。それを記号化して時空の拘束から逃れると音楽はコミュニケーションになっていった。
楽器の魅力はそんな根源に関係するのかもしれない。音に対する素朴な感動と、その感動が他者と共有できるという事実の喜びが理屈なしに文字通り響きわたる。誰かに聞かせることを考えていなくても、演奏するときは聞き手を仮想している。誰かに聞いてもらいたいという欲望がどこかにある。
楽器はその欲求を刺激し、しばしば成功に導く。演奏の旨さは関係ない。こう考えると楽器はコミュニケーションの道具ということになる。