投稿者: Mitsuhiro

休みの収穫

 短い冬休みだったがこの期間に解決したことがいくつかある。それは少し考えればよかったことばかりだ。日常生活に追われると見逃してしまうことがたくさんあることを痛感している。

 どうしても解決できなかったスマホアプリの使用上の問題点が解決できた。よく探すと解決法が書いてあった。同じような行き詰まりを感じている人は少なくないはずだ。もう少し分かりやすく示してほしい。多忙を極めるとヘルプ記事を探すことも難しくなる。

 長らく使えなかった機械の復活ができた。ちょっとした作業で直せたのだ。これもネットで取扱説明書を探し、(本物は行方不明)読み直すことで解決したのだ。結果的にはそれだけなのだがこれも仕事に追われるとできなかった。

 何冊かの本を読んだ。私の場合、一つに集中することが難しい性格にあると自覚している。何か別のことを持ちかけられると、思考が中断してそれ以上進めなくなる。休みはマイペースなので本が読めた。特に近隣の図書館はいい。不要な音楽すらない。

 散歩も少しできた。2つ先の駅までの散歩だ。都会の電車なので2つ先と言っても大した距離ではない。かつてならジョギングで片道程度の距離だが歩くのもいい。町の様子をいろいろ知ることができた。

 いいことばかりではなかったが休息とちょっとした充電ができたことはよしとしよう。この余裕を明日からも保てるのか。ひょっとしたらそれがこれからの成功の鍵なのかもしれない。

アナログスマートウォッチ

 私が使っているスマートウオッチはAppleでもGoogleでもない。CITIZEN時計なのだ。しかも充電の必要がないソーラー式だ。Eco-Drive Riiverという変な名前だ。

 この時計はいわゆるスマートウォッチの部類に入るが、アップルウォッチのように多機能ではない。できるのはスマートフォンと連携して秒単位の時計合わせや、位置情報の記録、万歩計、さらには自分で作ったプログラムを3種登録できる。

 2019年ごろに発売され、当時は話題になったが今はほとんど顧みられない。それはスマートという割にはできることが限られているからだ。今のスマートウォッチがほぼカバーしているバイタル情報の記録や、決済機能などはない。メール着信をリアルタイムで知らせる機能もない。その意味ではあまりスマートではない。

 ただ、すべての情報を3つの針と補助針の4つで済ませようとするアナログ感や短針と言いながら、長針と同じ長さであるという不思議さや、機能ボタンを押すと一斉に4つの針が動き出す機械としての動きなどが面白い。おそらく多くの人には使いにくさしか感じられないだろう。私のようなアナログ人間にはこの一生懸命針が動く姿が面白く愛おしく感じるのだ。

 何よりもいいのはエコドライブで充電が要らないことだろう。これはかなり助かる。一方でスマートフォンと連携するとBluetoothで常時接続することになり、スマホの方で結構電池消耗がある。といっても私のスマホの場合は一日一回の充電で乗り切れる。もともと毎日、充電しているので特に困ってはいない。

 このスマートウォッチの設計がいかにも日本的なのが気に入っている。一生懸命デジタルの技術を追求しましたが、結局表現はアナログですという中途半端さも魅力だ。まだ売っているのだろうか。私はお勧めしたい。ただし機械好きの人でないと喜ばないかもしれない。

賞味期限間近

 近隣の書店の一角に食料などを売るコーナーができた。賞味期限が近い商品を売ることで、食品ロスを減らす活動だという。見ると、お菓子やお茶、インスタント食品などが並んでいる。賞味期限を確かめると1~3か月後というものがあったが多くは6か月くらいはあるものだった。それらが数割引きで売られている。

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 賞味期限ということにこだわる人は一日でも過ぎたら食べられないように考える。私のような大雑把な人は数か月過ぎても大丈夫だと思って現に食べてしまう。それで食中毒になったことは一度もない。

 そもそも賞味期限とは何か。農林水産省のサイトには「袋や容器を開けないままで、書かれた保存方法を守って保存していた場合に、この「年月日」まで、「品質が変わらずにおいしく食べられる期限」のこと。」と説明されている。同じページには消費期限という分類もあり、「袋や容器を開けないままで、書かれた保存方法を守って保存していた場合に、この「年月日」まで、「安全に食べられる期限」のこと。」とあり、こちらの方は安全性が言及されている。つまり賞味期限はメーカーが味に対して責任を取る起源であり、食べられるか否かの基準ではないことになる。しかし、味の保証をしないものをメーカーや小売店が扱うことはできないため、消費期限は通常は表記されず、賞味期限が近付けば店頭から取り除かれる。

 中には賞味期限切れをセールスポイントとして商品を売る店舗もある。格安の値段で売られる商品はフードロスを大義名分とし、メーカーからは在庫処分の方法として、消費者からは割り切って安価で求めることができる手段として商売が成り立っているそうである。ネットで同じようなことをするサイトもある。

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 こうした試みはいろいろなことを変えていく突破口になりそうだ。もったいない文化を世界に発信しながら、食品廃棄率の高い矛盾を解消するためにもこうした方法に注目していきたい。使えるものは使うことは日本人の伝統的な思考方法に通底するから普及するのは容易なはずだ。

毛筆体験

 冬休みの宿題に書初めの提出という課題が出される小学校もあると聞く。ご家庭としてはいい迷惑だろう。新年早々に子供が墨で家や服を汚す。明らかに下手な字を書く子供にがっかりする。あまりにもいい加減な方法で書いてそのまま出そうとするのにも、まじめな親ならば何か言いたくなるはずだ。習字なんて時代遅れのものをなぜやる必要があるんだ。そう思う人も多いはずだ。宿題として容認できるか否かは考えないことにして、私はそれでも毛筆体験は必要だと思う。

 筆で字を書くためにはいろいろな準備がいる。普段使っている筆記用具とは異なり、持ち方も扱いも特殊だ。だからいつもとは違う脳の使い方をする。これだけでも意味がある。普段しないことをすることは大事だと脳学者の大半は異口同音に述べている。

 さらに書こうと思っても思い通りにかけない。よく分からないが墨の濃度や筆先や半紙の材質などにより、結果は異なる。変数があまりにも多いので書いてみないと分からないという偶然性が高い。それも大切な要素だ。規格製品を使うことに慣れている私たちには、世界で一つだけという実感を覚えることが減っている。お手本をまねして書いても、自分の作品はそこにしかない。そしてそれが貴重だ。字がうまいとか下手とか言う前に、自分が書いた唯一無二の文字があるということに意味がある。

 どれか一枚を選ぶというとき、その基準は何か。自分で一番うまくいったと思う作品をどのように選ぶのかも興味深い。文字とはどのようなものなのかはその人なりの理想に従っている。だから何を選ぶかは自分を考えることに近い。

 いろいろな意味で毛筆体験は大切だと思う。子供の宿題ではなく、すべての人がやるべきだ。どんな字でもいい。自分にとっての理想が文字化されて、しかも理想の字形になったとすれば、本当の意味がある。

 かくいう私は筆ペンでくらいしか書く機会はない。本当は心を落ち着け墨をすり、そのほのかな香りを感じたい。今は無理だが、いずれそういう生活ができる環境を設けたいとも考える。筆ペンでもいまは毛筆に近いものもある。とりあえずはそこからだ。

正月営業

 近隣の店舗のほとんどか営業している。正月は休むのが本当ではないだろうか。おせち料理などは休業期間の保存食としての役割があったように思う。いまはそんな緊張感がない。助かるがこれでいいのかとも思ってしまう。感謝には堪えないが、何か違うのではと考えてしまうのだ。

循環型社会

 いわゆる鎖国状態であった江戸時代は資源が限られていたために循環型の社会になっていたという。あらゆるものが再利用され、それが何度も繰り返されていたらしい。大量生産大量廃棄を前提とする現代の価値観とは対極にあるものだったことになる。再考する価値がある。

 SDGsは現代の循環社会志向の考えだが、江戸時代の循環型社会とは根本的な違いがある。そもそもSDGsは持続可能な「開発目標」であり、開発という視点を強調する。持続することを目標に停滞するのではなく、あくまで開発が目標だ。そのためには環境保護をうたいながらもより豊か便利な社会を求める目標が設定されている。海をきれいにするために、プラスチックを使うのはやめようとは言わない。ごみを分別しよう、エコバッグを使おうというが、よく考えれば実効性はさほどない。EV(電気自動車)に変えようというが、発電エネルギーには化石燃料を使う。環境を守るためにいっそのこと流通システムを止めようとは言わない。

 江戸時代の循環型社会が成り立っていたことにはいくつかの条件がある。まず資源自体が限られていたという現実である。国土にあるもので何とかしなくてはならない。列島国家の性質上、他国から資源を輸入したり、暴力的に強奪したりする可能性が少ない。とにかくやるしかないという状況があったのだ。他国に侵略する悪知恵と技術は近代国家になって欧米から学んだものだった。

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 島国、さらに山岳や河川によって分断されやすい地勢や災害の多さも循環社会を成立させてきた。国土の大半が森林であり、台風や雪害の危険性があり、加えて地震も多い状況にあっては、生活を維持するための最低限の工夫が常に意識されてきたのだと言える。

 固定的な社会、つまり封建社会のシステムも持続型社会を支えていたという事実を忘れてはならない。社会的な変動が極めて少ない社会では持続型な社会システムは維持しやすい。人々の自由が社会的に制限され、その前提で生きているからこそ、循環社会が当然のように受け入れられてきたのだ。これはあまり強調されないが大切な事実である。逆に言うと江戸時代風の循環型社会を目指せば経済的な成長は期待できない。成長しないことで現状維持を果たしていたということも言えるかもしれない。だから、江戸時代に学べ、江戸に戻れという短絡は危険だ。近代的自我を確立してしまった私たちにはあまりにも窮屈で、それだけで窒息してしまいそうな社会であったことを忘れてはなるまい。

 これからの持続的社会はどのようにあるべきだろうか。SDGsの理想はそれはそれでいい。どう実現するかだ。またこの目標の裏側にある利権獲得の動きを暴き、流されないことが大切だと思う。循環を支えるシステムへの支援を考えなくてはならない。リユースにかかるコストは実は安くない。中古品は安価だという思い込みがあるが、そうでもないらしい。再利用品を積極的に使うということが消費者の立場でできることだろう。

 これには価値観の転換が必要だ。古いものを積極的に利用し、修理、修繕、改良の技術を個人のレベルで高めることが必要になってくる。壊れたものを直せる可能性が高まれば捨てられる可能性は減る。また企業も完成品を売ることばかりではなく、部品、修理用のパーツなども売る方法を展開するとよい。初めはコストがかかるかもしれないが、結果的には会社としての持続可能性を高めるだろう。

 いわゆる商品のサブスクリプション、リースなども発展させていくべきだろう。安物を個人で買いそろえてすぐに捨てる時代から、ある程度の品質と耐久性をもった商品を共有する方法への転換は持続可能社会の流通モデルとなりそうだ。

 このほかにもいろいろな方法がある。それをまずは自分で実践することで実験してみよう。などと考えている。

数え年

 日本でもかつては数え年という方法で年齢が計算されていた。明治時代になり1873年に満年齢の方法が導入され、1902年には数え年の方法は法律上からは除外された。その後も慣例的に数え年は使われ続け、現在でも年祝いや厄年といった伝統的な年齢通過儀礼では数え年が優先されることもある。でも、ほとんどの人は数え年の存在を知らず、起算方法も知らない。生まれた瞬間に人は1歳であり、元旦を迎えるごとに1加算される。だから12月生まれの人は、生後1か月もかからずに2歳になる。

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 韓国では数え年による年齢の言い方が普通であった。国際化の影響で今年の6月からは満年齢で統一することにしたそうだ。とはいえ、日本同様に生活に根付いた部分ではこれからも使われ続けるのだろう。韓国では年齢が敬語の使用にも大きくかかわるため、韓国人との会話ではまず年齢を知ることが大切だという。数え方が違うので、干支を尋ねたり、西暦で確認したりする必要があったというが、これからはその心配はなくなるかもしれない。

 元旦に一斉に皆が歳を取るという考えは実はそれはそれで面白い。正月のめでたさがまるで異なる。太陽暦の1月1日は厳冬期であり、寒波に襲われることも多い。春の気配はほとんどない。その中で何がめでたいのかといえば、西暦年が一つ加算されたこと以外は実は何も変わらない。かつての先祖が感じていた元旦と現在のそれとはまったく感覚が異なるといえるだろう。

 個人の誕生日の意識も変わった。古典文学や、史書に登場する人物の誕生日に関する記事はとても少ない。異類譚などでは誕生時のエピソードを書くことはあっても、誕生日の祝いに関する記事はない。誕生日を祝う習慣が存在しなかったのだろう。数え年にとっては個人の誕生日は重要ではないからだ。満年齢になって誕生日を祝う習慣が輸入された。個人の人生が意識され始めたということになるのかもしれない。

譬え話の力

 古典文学に接していると、誰でも気づく違和感がある。日本の古文でも中国の古典漢文でも同じだが、譬え話が多くその内容と結論の間に隙間があるように感じることである。

 現代の文章は大抵の場合、まず問題提起がなされ、その問いに答えるように説明が続く。ここに具体例が入る。譬え話もここに含まれる。そして最後に提起された問題の答えが示される。ところが、古典の場合はいきなり譬え話から始まる。何が目的なのか示されないまま、話が始まるのである。最後の数行で短く結論をいう。読者はここまで読んでそれまでの話が何を言わんとしていたのかが分かるという仕組みだ。

 具体例と意見の結びつきは必ずしも理解可能とは限らない。かなり無理があるものもある。譬え話がうまく機能しているか分からない。極端な例を出して主張に誘導しているものもある。古典を読むことでその内容から学ぶことは多いが、逆に古典文学の段階ではできなかったことは何かを稽えることもできるのだ。

 最近、一部の人々の表現に古典文学的な論理展開をして煙に巻くものがあると感じている。いきなり極端な譬え話をして、聞き手を混乱させ、結論部で自説を強引に述べて納得させようとする。多くの人がそれに誤魔化されてしまう。古典を読んでいれば短絡する可能性は減るかもしれない。

予祝として

 新年にあたって大ぶろしきを広げておこう。いろいろな人が言っている。言葉にすればそれが事実を引き寄せると。本当はどうなのか分からない。日本の民俗のなかには予祝儀礼というのがある。雪深い地方でまだ地面が真っ白い中で田植え祭りをし、収穫のまねごとをし、豊作になったと演技する。それによって稔の神が感化され、本当にその秋の収穫が約束されるというのだ。科学的にも呪術的にもどうも大ぶろしきは大切らしい。

 いつも書いているが新しいことを始めたいと思っている。関心があることは教員の支援システムを作るための準備だ。教員不足の地域が増えてきたり、人材不足のための教員のスキルの低下がされてきている。若い世代の教員が自分の仕事に専念し、より高いスキルを獲得できるような仕組みを考えていかなくてはならない。それを学習していく初めの年にする。

 コンピューターを使う年にしたい。何をいまさらといわれそうだが、はっきり言ってこれまでは使うのではなく使われてきた。よく訳も分からないうちに便利だというものに触れ、実はそれほど必要でもない情報に振りまわされてニュースや動画サイト、さらにはソーシャルメディアに接してきた。これからは自分にとって必要なものは何かを考え、受信だけではなく発信の手段にしていこうと考えている。このブログの位置づけは、今まで通り雑記的に思い付きを書いていくものだが、このほかにもいろいろな作品を作成し公開していく。

 皆さんの考えかたにも触れていきたい。WordPressでリンクしていただいている方のブログは常に読ませていただいている。自分にはない考え方をしているブログやサイトは特に注目していく。今の関心は日本の文化がどのように捉えられ、世界的に理解されるようにしていけばよいかというころだ。自分でモノを作っている方、音楽や絵画の芸術活動をしている方、地域の美しさや問題点を写真や文章で紹介している方の発言には特に注目している。

 仕事の効率化も課題だ。退勤制限時間より1時間以上前に帰ることを目標にしたい。この目標自体が情けないがまずはここからだ。その一時間で別のことを学ぶ。あるいは論文なりブログなりを書く。

 ほかにもいろいろな風呂敷を広げたいが公開するのはここまでにする。後は手帳の裏に書いていこう。そして実現したら得意げにここに書き連ねることにする。皆さんは私が大噓つきではないかを見守っていただきたい。

2022年のおさらい(10月~12月)

 10月1日に数多くの食料品が値上げした。原材料費の高騰に加え、歴史的な円安が影響していたのだ。20日には1ドルが150円台まで下がり、32年ぶりの円安ドル高となった。海外の旅行者にとってはバーゲンセールのようなものかもしれない。問題は日本人の賃金が一向に上がらないことだ。

 24日、山際大志郎経済再生相が辞任した。実質上の更迭だった。世界平和統一家庭連合との関係を追及され、あいまいな答弁を続けたことが原因だった。なお岸田内閣はこの後、葉梨康弘法相、寺田稔総務相が11月に辞任し、辞任ドミノといわれた。押し詰まった12月27日には秋葉賢也復興相も辞表を提出し、ドミノは終わらないようだ。日本の政治家の質はこの程度なのだろうか。そして、代替するリーダーがいないのだろうか。

 この月あたりから北朝鮮が何度もミサイル発射をしている。何が目的なのかよくわからないが、独裁政権が何をもたらすのかを考えさせる材料にはなる。

 11月に入ると一気に寒さがつのり紅葉があちらこちらでみられた。

 カタールで行われたFIFAワールドカップで日本代表がドイツに逆転勝利したのは大きな話題になった。圧倒的に攻め込まれながら少ないチャンスで得点をするという戦略だった。選手交代とシステム変更という森保監督の戦術も評価された。試合外では選手によるロッカーの掃除やサポーターによる客席の清掃が大きく取り上げられた。今回はその後、スペインにも勝ち、予選リーグを1位通過という快挙であり、決勝トーナメントもクロアチアにPK戦までもつれ込む大健闘だった。

 そして12月。10日に世界平和統一家庭連合の被害者を救済するための法案が国会で可決した。安倍元首相の狙撃事件後、国葬を終えた後、閣僚やそのほかの政治家のこの団体への関与が相次いで指摘され、安倍氏を悼むという気分は吹き飛ばされてしまった。

 今年の漢字は「戦」となった。ウクライナ戦争が終わらないまま一年が終わってしまいそうなのが残念でならない。

 記録的な大雪が降ったところもある。その原因が耳慣れない気象用語で解説されるようになった。とにかく被害が出ないことを祈る。本格的な降雪の季節はこれからだ。

 振り返ってみると今年もいろいろなこはとがあった。まずはマスクが取れる日々が早く来ることを祈る。そして戦争が終わることを切望する。もういい加減に世界のことを考えてほしい。

 私はというと、いろいろなところでデクレッシェンドが感じられるが、決して進歩はやめない。最後まで悪あがきをしたいと考えている。その成果は時々ここにも書いておこうと考えている。