投稿者: Mitsuhiro

画像生成

 人工知能を活用した自動画像生成ツールがある。静止画のレベルならば写真と見紛うほどの質の画像が瞬く間に完成する。恐らく既存の人気画像の要素を取り込んでいるのだから、それを合成した生成画像が満足感の高いものになるのは必然なのかもしれない。

 言葉に関心があるものとしてこのシステムには非常に興味深い要素がある。それは作画の指示を言葉によって行うことである。例えば、若い、男、爽やか、カジュアルな服といったようにフレーズを並べる。またそうであってほしくない要素も指定する。例えば不潔、悪党、入墨などだ。これらの要素を除いて作画するのだ。

 絵画が言語によって指定されるのは人間の認知行動の本質に触れているのかもしれない。実際の絵画は画家の長い時間をかけての修練が不可欠だ。だが、何を描こうかと思う出発点は言葉なのかも知れない。

 ならば優れた絵を描こうとするならば操れる言葉の種類が豊富である必要がある、これが少ないと類型的で単純な絵しか生まれない。人間の認知行動や表現行動を可視化したものと思われる。

 いい絵を描けるように、つまり多彩な表現や行動ができるように使える語彙を増やすことが大切だ。これは生徒に対する分かりやすいメッセージになる。

やり方はそれぞれ

 あることを成し遂げるのにやり方はそれぞれだ。私たちはつい最短ルートを他者にも勧めてしまう傾向にあるが、場合によっては好ましくない。その方法が本当に正しいのかは分からない。その人にあっているのかも分からない。

 結果ばかりを求めるのが昨今の風潮だが、結果に至る過程も大事だ。どのように考え、何を求めたのか。その軌跡を重要視したい。そしてそれは人により異なる。結果的に他の人が考えた方法と同じになるにしても、試行錯誤した経験が実は貴重なのだ。

 こういう考えを具現化するためには、失敗体験を容認する余裕が不可欠だ。いまの自分の周りにその余裕が必ずしもあるとは言えない。せめて他人に対して、多様なやり方を許容し、尊重する態度を持ちたい。

しゃべりすぎ

 授業の反省はいろいろあるが、しゃべりすぎたときは特に気をつけたい。説明しきると教員としては満足するが、生徒側の立場では意味が異なる。

 自分の知っていることと知らないことでは、同じ分量でも理解にかかる熱量が違う。知らないことを並べられたらどうだろう。それを処理するのにはかなりの労力を要することになる。このことを考えるべきだ。

 しゃべりすぎないこと。伝える目的を考えることが肝要だ。いつもそう思いながら忘れる。このブログにこんな話題を時々書くのは、私が反省しても実践できない証だ。自戒のためにもその都度書くことにする。

ツツジ

 躑躅は万葉集にはすでに歌われている。桜の後に続く花は赤や白、その中間色や混ぜ合わせたような彩りまで様々だ。庭木として植えられることが多いので桜より身近だ。花の奥の蜜を吸ったり、花飾りを作って遊んだりした。

 今朝駅の近くに植えられたツツジが一部開花しているのを見つけた。もう少し前から咲いていたはずだが気づかなかったのだろう。一度気がつくとあちこちですでに花の面積を広げつつあることに気づいた。葉桜の後に出番が来たと言っているかのようだ。

 近縁のサツキやシャクナゲなどもこのあとに続くのだろう。花のリレーがどのように展開されるのか楽しみである。

新クラス

 クラス替えのことを覚えているだろうか。最近は変える側の方ばかりなので生徒の思いを忘れつつある。

 後から思えば同じ学校で別の組になったからといって大きな変化はない。かえって変化があっていい。でも生徒の頃は一大事だった。狭い世界に住んでいたと思う。

 そのように思えるにはその後の様々な経験が裏打ちされなくてはならない。先を急いではなるまい。まずはクラス替えに悩む生徒諸君に寄り添うことにしよう。

夜桜

桜に月

 数日前、近くの公園は桜の盛りを迎えていた。すでに散り始めた枝もある。見上げると月が出ていて、その光に桜花の彩りが一層引き立つ。

 恐らくこの光景は数日の後にはなくなる。桜は偶然を痛感させる。実はすべてのものが一度限りでありながら、似たものを見たり聞いたりすることで永遠に繰り返されているような気になってしまう。

 今日の夜桜は今宵限りだ。ただ夜桜なるものは来年もこの場所であるだろうし、この場所でなくても似たようなものはある。一回性か普遍性かそんなことも考えさせる。

 ただ言えることはこの日の夜桜はよかった。これまでの中でもかなりいい部類だということだ。

読書促進

 最近の子どもは本を読まないと嘆く人は多い。でも、そういう大人も読書量が少ない。最後に読み終わった本は何ですかと問われても即答できる人は少ない。

 国語の教員としてはなんとか読書量を増やしてほしいと考える。読書量を増やす策はあるかとよく問われるが、いつも答えているのは自分が本を読んでいる姿を見せるということだ。恐らくそれしかない。

 可能ならばその内容を子どもに話したり、子どもの読んでいる本を自分でも読んでみて感想を語り合うとなおいい。自分は読まないくせに子どもに要求しても効果は限定的だ。読書する楽しみを感じさせることが最善の読書促進の方法だ。

自然音との調和

 現在、使用中の国語の教科書には坂本龍一氏のエッセイが掲載されている。音楽とはなにかを語りながら、人の生き方に迫る名文だ。

 我々が音楽と称しているものの大半は調律された音階と、規則的なリズムとで構成されており、それが評価基準になっている。でも、それは極めて人為的な不自然なものであるというのだ。

 実際の音は極めて多彩で偶然性に溢れている。それにこそ魅力がある。これはなんでも他人の基準に合わせることが正しいとする現代人の価値基準と対立するがそれ故に魅力的なものの見方である。

 流麗なメロディーメーカーの意見として玩味すべき文章だ。逝去の報に接し残念でならない。

転換

 良くないと思った日は、思い切って考え方を変えるべきだ。この日の不調は次の好調のための材料なのだ。決して短期的に考えることのないように。転換が大事だ。それができるのが人間というもののいい加減さなのだ。

シナリオのような出題

 国語の最近の問題には教員や生徒が話し合いをしているかのような選択肢を並べ、この中で的を射ているものはどれかといった出題がある。インタラクティブな授業を再現したかのような見え方をするが、実は形を変えた読解の設問である。この形式の出題で一層はっきりしたことがある。

 文章読解問題の解答は根拠を求めて、それに適合するものを正解とする。そうでなければ読解問題など成り立たない。ある文章を読んで何が書いてあるのかを答えよというとき、こうも読めるああも読めるでは評価ができないからだ。だから、ここにこう書いてあるからこの時点では正解だ、としか実は言えない。それが国語の問題というものなのである。実に表面的だが、最近はこの表面的な読みも怪しい人が多いので国語の時間が必要になる。

 より現実的なことを言えば、数ページ分の文章の中で、筆者の言いたいことを把握することは無理だ。筆者の考えはそんなに単純ではないし、もし単純なものならばわざわざ本にするまでもない。でも出題文の大半は出版された書籍の一部の引用だ。そこで何が言えるかといえば、国語の問題は結局、人の文章を使いながらも出題者が答えさせたい答えを論理の方法によって答えさせるものであるということなのだろう。

 でも、この方法は制限がある。他人の文章に何が書いてあるのかを問うには、「Aとは何か」か「Bといっているのはなぜか」(=その理由を筆者はどう説明しているのか)、さらに「この文章(実はその一部)で筆者は何が言いたいのかをまとめよ」くらいの出題しかできない。事実、国立大学の二次試験は大体この型に当てはまってしまう。そこで生まれたのが、別の文章と組み合わせて比較させるという出題である。Xという文章にはこう書いてあるが、Yにはこうある。その違いは何かと答えさせると別の問いができる。そして掟破りがシナリオ型出題だ。これは他人の文章を借りてくることなく、出題者が勝手に作った文章で自分の答えさせたい解答を選ばせることができる。他人の文章の読解という枠を破ってしまった。出題者が私の答えさせたいことはなんだか見抜いてみよと言っていることになる。

 その結果、国語の問題というのは要するに出題者が答えさせたいことは何かを見抜き、それに答えるものという当たり前のことを確認させることに至った。よく入試シーズンに問題文として引用された作家なり文筆家が、自分の文章を引用した問題が解けなかったということが話題になる。これは何の問題もないのだ。答えさせたいのは筆者の考えではない。あくまで引用された部分の中で辻褄が合っている(と出題者が考えた)ことを答えることに過ぎないのだから。