投稿者: Mitsuhiro

欧州は暖冬

 東京は乾燥して寒い日が続いている。北海道や日本海側の一部では例年以上の積雪があり、死傷者まで出ているという。

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 その一方で欧州各地は記録的な暖冬で雪が降らずに困惑する地域もあるらしい。ウクライナ情勢からエネルギー供給に不安がある状況においては暖冬を幸運と見る向きもある。ただこれが人為的要因による気候変動の現象なのではないかと考える人も多く、大いなる脅威とされている。

 西洋の思想の根源には自然は人間が制御しうるものという考え方がある。その手段として科学があり、それに基づいた技術が制御を実現するのだ。そういう背景のある人々にとって制御不可能な気候変動の現実はあってはならないことで、さらに高次の技術が必要だと考える。最近はその傾向が顕著になっている。

 雪がなければ冬の観光やスポーツ関連の産業が打撃を受ける。それだけではなく、水資源の変化は農業や畜産業に影響し、内水面漁業のみならず、海洋にも何らかの関係を及ぼす。短期的な変動ならば振り子のように揺り戻しがあるはずで、バランスが取れると期待できるが、もし振り切って止まった状態ならば、と考えてしまうのだ。

 昨年末はアメリカで大寒波の報道があり、日本でも大雪の被害が断続的に続いている。これらが一連のものなのか。いわゆる気候変動と関係があるのかについては短絡はできない。ただ、ここ数年異常気象が国内外で報告され続けていることには注意が必要だと言える。

山手線

 渋谷駅再開発に伴う工事のため、今日は山手線の大崎から池袋の間が全日運休している。渋谷、新宿、池袋の主要駅を含む区間であるため、土曜とはいってもかなりの影響が出るに違いない。

 山手線は地元では「やまてせん」とも呼ばれている。山の手の意味が分からなくなった時代から読みが怪しくなったのだろう。東京の土地の格を言うときにこの環状線の外か内かで区別する考え方がある。これは根強い一種の固定観念だ。

 一周するのに約1時間弱かかるはずだ。誰もそれは気にしない。一周通して乗る人などいないからだ。私は学生時代それをしてしまったことがある。と言っても意識がなかったので正確なところは分からない。一周以上したことは確かで、なぜか大崎駅で起こされ、もう今日の運行はすべて終わったと言われた。幸いその時は比較的近くに住んでいたので深夜の行進は遭難せずに終えることができた。これを片手では足りない回数繰り返した。自慢することではない。

 山手線などのことを国電と読んだり、ごく短い期間だがE電と呼んだことを知っている世代はもう多くはないのかもしれない。翁さびてももっと先輩からは緑でなかった頃の山手線を知らないくせになどと言われそうだ。

 東京のことを知らない方には何のことか分からないだろう。地元民に取っては東京の電車のナンバーワンであり、いろいろな思いを乗せた鉄道なのだ。それが今日止まったということには意味があるのだ。

疲労時の判断

 疲れているとき大きな間違いをおかしやすい。そういう経験をいくつも重ねてきた。その理由は何か。

 冷静になれなかったからという考え方は間違っていない。確かに疲れた頭で適切な判断をすることは難しく、それが失敗に繋がると言えそうだ。だがそれだけではあるまい。自分では落ち着いていたはずなのにと思うこともある。

 記憶の一部が阻害されるからという別解を考えている。ある程度の披露が蓄積すると、記憶の蓄積量が減り、目の前のことしか判断する材料がなくなる。普段なら過去の経験から、止めた方がいいと判断する選択肢を選ぶ可能性が高まるのではないだろうか。

 私たちが何かを考えるとき、常に目前の対象とともに過去の経験との照合を続け、最適解を探している。それが疲労時にはできなくなるのではないか。

 ならば重大な決断は疲労時に行うべきではない。時間のおいて再考すべきだ。どうしても決めなくてはならない時は、疲労する前に日常的判断のルールを決めておき、それに従うというやり方にするのがよい。

 経験的印象に過ぎないが記憶が体力に左右されるという事実は間違っていないはずだ。

家でアート

 グーグルのサービスの中でもっともいいと思うのはアート・アンド・カルチャーのサービスだ。スマホのアプリにはAR(拡張現実)で美術作品がカメラのファインダーにほぼ実物大で現れるというサービスがある。これがなかなか面白い。自分の部屋が展示室になるのだ。これは面白いのでお勧めしたい。

散歩

 近隣を散歩すると新たな発見がたくさんある。いつもは歩いていない道にあえて踏み込むとさまざまな気づきが生まれる。

 私の住んでいる所は県境や市境が複雑に入り組んでいるので、少し歩けば他県に行ける。また、さらに歩けばほかの市にも行ける場所だ。県や市が変わったからといって何があるというわけではないが、それだけで何か一種の旅人になったような気になれる。

 車で通りすぎると気づかないことがたくさんある。道の起伏に関しては車ではほとんど分からない。結構な坂道だったり、実は緩やかな下りであったりする。歩いてみて分かる。地形はその場に立ってみないと分からない。

 神社や仏閣、それに小祠の類を見つけるのも散歩の楽しさの一つである。しかも、それに拝礼していく人を見つけると、日本人は無宗教だという指摘が当たらないことを確認できる。一神教的な尺度では宗教心は測れない。そしてそれらのパワースポットが残されているがゆえに保たれている小さな未開発地帯がある。自然ではなく、聖地として整え続けられてきた場所というのが正しいのだろう。

 散歩の楽しみはいろいろある。どうしてこれを続けないのだろう。この面白さを覚えていられていられないのはなぜか。日常生活がすぐに塗りつぶしてしまう楽しみを時々思い出したい。

異次元

 首相の年頭所感表明に異次元という言葉が何度か使われた。この言葉は日銀総裁の金融緩和策に関して使われてきたのであまり印象がよくない。無理やりやって効果はあまりないという先入観ができている。首相の言いたいことはもちろんこの意味ではなかろう。ただ単なる誇張表現ならば無意味だ。

 次元という考えはそれを特定するための座標軸との関係で語られる。私たちの生活する世界は縦と横と高さの3次元でできていると言われる。よく聞く2次元とはそこから高さが失われた世界であり平面的なものである。漫画の登場人物を2次元の人物というが、実際には紙にもインクにも厚みがあり、本当は3次元だ。

 異次元という言葉には異世界と同義で使われる例もある。同じ3次元でも全く状況が異なる平行世界である。そのもどきをメタバースで実現しようとしている。これは先の異次元とは大分趣きが違う。現実逃避の意味合いも内包するのがこの意味の異次元だ。

 首相が仰りたかったのはそのどちらでもない。いままでとはまったく別の価値観、思考法で考えるということだろう。言うことは容易いが果たしてそんなにうまい話はあるのだろうか。少子化対策と言いつつ、結局は補助金をばら撒くだけならまったく同次元だ。具体的に何をして、それにどのような実効性が期待できるのかをリーダーは示さなくてならない。

 現代の日本人は陳腐な誇張表現に慣れて鈍感になっている。どうせ口先だけだろうとも思う。口説の人が横溢する中で本当の手応えを求めている。内閣の人事のゴタゴタを解決して真のリーダーシップを示してほしい。増税の可能性を表明した度胸は認める。やるべきことをやっていただければ評価する国民は多いはずだ。選挙前の人気取りならばいらない。

惑星

 このところ夜空を見ると月の他に火星、木星が輝いている。すぐに沈んでしまうが土星も見える。夕刻には金星、そして私の住まいの近くでは無理だが低く水星も出ているらしい。冬の恒星は明るいものが多く、随分賑やかだ。しばし凍えるのを忘れて仰ぎ見てしまった。

セールスポイント

 採用試験の際に人格をみようとするのが日本のあり方だと思う。学歴フィルターである程度判断し、細かい能力は問わない。人柄をみようとする。この方法は今後は減っていくのかもしれない。

 ジョブ型の雇用にとって、協調性や親和性は重要ではない。仕事ができるかどうかが問われ、結果が出なければ解雇される。こういう社会を識者は推奨しているように思う。かなり極論したが要はそういうことだろう。

 企業が家族のような存在だと言われた時代が終わり、スポーツチームのように流動性の高い組織になる。会社に適した人は高い報酬が受けられる。存在感を示さないと地位を保てないのだ。

 そういう労働観に徐々に転換することをこれからの若い人たちは覚悟したほうがいい。この場合、必要なのは個人で生き抜く力だ。スキルはあったほうがいい。そのために学ぶことは止められない。

 それに加えて自己を売り込む表現力も必要だ。ただ資格を持っているだけなら、代替の人材はいくらでもいるということになるはずだ。大切なのは自分の可能性をある種のストーリーで説明できる能力なのだろう。セールスポイントはこれとこれとこれでそれらを結びつけるとこんなことができるといったように。

 そこで手前味噌になるがやはり国語の能力は欠かせない。STEAMばかり強調されているが大前提の表現力がなくては何もできまい。学生諸君には時流に乗って上辺でものをいう「知識人」に惑わされないようにしていただきたい。

北千住

 北千住は幼年期に過ごした町だ。ほとんど記憶の限界にある。信憑性は怪しいが、三輪の自動車が走り蕎麦屋が驚くほど積み上げた桶を自転車で配達していた。たびたびあった縁日での調子のいい口上に合わせて、風船売が衆目を集めていた。

 家の目の前にあった大きなお屋敷が実は高名な作曲家のものであったこと。どういうわけかその中に上がり込んでお茶か何かをいただいたこと。その家の犬に噛まれたこと。隣の同級生がやけにいいやつだったこと。ありとあらゆる流行病にかかったこと。ローラースケートでころんで脱臼したこと。どこかの病院のドアに指を挟んで泣いたこと。床屋に入ろうとしたら大きな猫がいて入れなかったこと。近くの川が汚染されていて泡だらけだったことなど断片的に思い出す。このうちいくつかもしくは全部は後世誇張されているものかもしれない。記憶は怪しい。

 北千住はいまは通過駅だ。今はどうなっているのだろう。私の過ごした時代のような未完成で清濁併せ呑むような街ではなさそうだ。北千住が理想の町と考える若者はいるはずだ。私も方向性は全く違うが暮らしたい町である。

ブレインフォグ

 ブレインフォグなる用語をこれまで聞いたことがなかった。脳の霧といえは詩的な表現だが、実態はなまやさしくない。要するに脳の障害なのだ。

 この言葉が注目されているのはコロナウイルス罹患後の後遺症とされているからである。症状としては集中できない。呆然としてしまうということらしい。アメリカでは罹患者の2割程度がこの症状を訴えているらしい。

 実は私も昨年陽性判定を受けた者である。脳の霧はどうかといえば、罹患の随分前から五里霧中であった。霧というより靄とでもいうもので、きつめのフィルターで視界が遮られている。それが私の日常であり、コロナウイルスとは無関係だ。

 私の場合は何というかある種の覚悟ができた。どんなに慎ましく過ごしていても罹るときは罹る。ならば恐れずにやりたいことを優先すべきではないかと。破れかぶれだか、いまを生きる知恵ではある。

 ブレインフォグに怯んではならない。視界不良なら新しい何かに出会う機会も増える。絶好の機会ではないか。そう考えることで何かが変わる。

 やはりコロナにおかされたのかもしれない。