
これからしばらくは気温が上がるらしい。4月並みという予想も出ている。季節が変わるときには、行きつ戻りつの時期がある。その波のひとつなのだろう。
心配なのは花粉の飛散だ。最近は対策薬でかなり症状は抑えられるのだが、いつ始めればよいのかは毎年悩む。今年もその時期になったということである。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
黒部市に住んでいたいた頃、あるスーパーの卵の値段で驚いたことがある。1パック1円と言うのだ。条件があって他の買い物を500円以上することだった。低過ぎるハードルなので何度もお世話になった。
卵は価格の優等生と呼ばれ、時代を越えて値上がりしないものの代表だ。かつては卵は高価で寿司屋に行くと玉から注文した人もいたという。卵は生食だけではなく、様々な料理に活用されている。それが安定的な流通を支え、価格が変動しにくい理由であったのだろう。
ところが現在、鶏卵の価格が上昇している。円安や飼料の価格高騰の影響もあるが主因は鳥インフルエンザの蔓延である。予防策はなく発見されると鶏舎単位て殺処分になってしまうという。
人間の病も一向に収まらないが、動物の疫病にも困ったことである。対処策を見つけたひとはきっと世界中から感謝されるに違いない。
1円パックに喜んでいた昔は懐かしい。ただ、もう少し食べ物に敬意を払い、畜産業の発展に繋がる消費行動を取るべきではなかったかと考えてもいる。
色彩感覚の不思議を試す例として、同じ色でも周囲の色によって違って見えるということがよく取り上げられる。私たちの感覚は相対的であり、どう見えるのかはその場に揃った条件の組み合わせで決まるらしい。
皮膚感覚もそうだ。何もしていないときにぶつかられると痛みを強く感じる。しかし、サッカーなどの接触のあるスポーツをしたあとだと同じ衝突がまったく気にならない。寒い日が続いたあとの小春日和はとても暖かいが、気温自体はそう高くない。
嗅覚も周囲の環境で大きく変わる。その場にい続けると臭いは感じなくなるし、芳香と悪臭の成分は変わらないときもあるだろう。
私たちの感覚がいかに組み合わせで形成されているかを思うとき、自分の感覚が決して万物の尺度ではないと知る。不安にも繋がるが自信にもなるだろう。
AIの発展は著しいものがある。音声入力に感動していたら、今度は自動文章作成能力まで獲得していた。これからの人間は何をすればいいのだろうか。
定型的な文章の作成ならば、機械に代替できることは予想がついていた。国語の時間に生徒に教える作文の授業は大体型で教えるものである。たとえば、第一段落は自分の言いたいことを疑問文にして問題提起の形にする。第二段落では一般的によく言われている事例を扱い、通説を確認する。第三段落ではそれを超える自説の良さを訴える。第四段落は第一段落の疑問に答え、言いたいことを明確に言う。こんな指導をしている。
この指導である程度格好がいい文章になる。うっかりすると名文のように思ってしまうことさえある。この思考の型は理解しやすいからだろう。
しかし、型はあるが内容はないという文章になりがちだ。それでいいのかと言われればやはりおかしいと言うしかない。でも、このあたりまでの作文であればコンピューターが達成してしまうようだ。
私たちがやらなくてはならないのはその上と言うことになる。今のところAIは意味の世界までは踏み込めておらず、統計的に可能性の高い組み合わせを提示しているに過ぎない。ならば、人間がこの意味の世界で生き残るべきなのだろう。
意味もしくは価値を創出することは機械が苦手な分野である。ならば私たちは積極的に価値の創出に力を注ぐべきだろう。それこそがこれからの作文術ということになる。
人と違う行動をする人は注目を浴びやすい。他人に迷惑を及ぼす場合は言語道断だが、そうでなければ見逃すことも必要だ。それが多様性を保証するのだから。
異端を礼讃するつもりは全くないオリジナリティと独善は紙一重であり、後者である確率の方が高い。だが、自らと異なる行動は許容できないという姿勢はやめた方が良いいい。新しい考え方とか、革新的な方法とかはしばしば型破りだ。革命的な時代の過渡期ではそれが無意識のうちに許容されるが、安定期には異端視されやすい。
変わり者に対してどれだけ懐が深いのかは文化の成熟度に関わる大問題なのだろう。独創的に生きることが住みにくいことは宿命的に仕方がない、ただ、それをどれだけ許容できるのかで未来は変わってくる気がする。
コロナウイルス対策で成人式が取りやめになったり、リモート形式になった現在22歳の人たちのために式を用意した自治体があるという。粋な計らいというものだろう。
この式の報道てインタビューを受けた人は、大学を卒業し故郷を離れることが決まっている。その前に会えてよかった、とか、次に数十年後に会えるといいと答えていた。地方の現実が垣間見えた。
少子高齢化が進行しつつあるこの国にとって若い世代の存在は不可欠だ。その少ない人材が高校や大学を卒業したあと故郷を離れてしまう。そのうちのかなりの人数が戻らず、若者の人口分布が極端に偏在することになる。
リモートワークが定着し、様々な情報共有がかつてより遥かに柔軟に取り組める環境が完成した現在、都市に企業が集中するメリットは少なくなっている。まずは産業界の分散が必要ではないか。
22歳の出会いが結局別れの前日の儀式になっているようではならないと考えた。
子どもの声がうるさいからというクレームで公園が廃止されたというニュースがあった。その後の報道をたどるとどうもこれは極端な伝え方であったようで、クレーマーと言われた人の言い分も理解できない所はないし、行政の在り方にも問題があったようだ。そもそも、公園としての使用期限がもともと決まっていたらしい。
公園が単なる共有地としてあるのなら、それをどのように使用するのかということについて考え直さなくてはならない。子どもの遊び場という意味以上のさまざまな役割がある。国土交通省都市局公園緑地景観課によると、良好な都市環境の保全ため、災害時の避難場所、延焼防止、などの災害対策、市民の活動、憩いの場、賑わい創出や観光拠点として地域活性化の役割などを挙げている。公園といっても数坪の狭いものから広大な敷地があるもの、なにもない場所から歴史的な遺跡等を有するものまでいろいろあるので一概には言えない。公共の場所ということだけが共通する。
都市の中の公園に限れば、交流もしくは相互扶助という側面を今後活用してくべきだろう。少子高齢化社会のなかで従来の社会システムが機能しなくなりつつある。それを補うのは地縁による助け合いということなる。その拠点の一つが公園だろう。以前公民館のことを考えたことがあったが、それよりも簡単にできるのが公園の利用だ。屋外や簡易テントなどでできる交流のきっかけを地域行政は提供し、それを行う団体を支援するべきではないだろうか。
公園が魅力的な場所になるならば、冒頭で触れたような厄介な空間という扱いではなくなる。
アルツハイマーの症状を緩和する新薬がアメリカで承認された。日本の企業のエーザイが開発に絡んでいるとのことで期待されている。
ここからは妄想だ。新薬の価格はかなり高価で、今のところ誰でも使えるわけではない。日本の場合は保険の対象になる可能性はあるが全額は出ない。するとこの薬は富裕層に独占され、それ以外は恩恵に与れないことになる。
すると、天命を全うし、健康年齢を活用できるのは限られた集団のみということになる。この妄想はおかしい。罪深くさえある。しかし、もし事実ならば未来はどうなるのだろうか。
新薬がもたらす新世界の幻想はこれまでもSFの世界では常套的な構想だが、それが近い将来に現実になるかもしれない。妄想だが。