季節風に乗って黄砂が飛来しているそうだ。そういえば今朝は少し霞んでいる気がする。今後少しずつ増えていく予報が出ている。
黄砂は粒子が大変細かいために空中を長く浮遊し、雨や雪をもたらす雲が脊梁山脈で枯れた後も風に乗り続けるようだ。砂塵と呼ぶにはあまりに微細でしかも大量なのが特徴だ。
産業への被害はさることながら、一部健康被害も齎す。厄介な現象であるが、地球が一続きのものであることを思い出させてくれるものでもある。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
思うにいまの世の中はあらゆることに因果関係を求めすぎて、人々の自然な行為を受け生けられなくしているような気がしてならない。偶然の振る舞い。そこにほの見える善意もしくは悪意は切り捨てられて見えなくなっている。
何かの事態を目撃して、行動するときの精神構造は必ずしも合理的ではない。その人がよいと考えることをただ実行するだけのことだ。そこに理屈はない。あったとしても後付けである。
私はわざとらしい善意に感心しない。意図せず動いてしまう人の振る舞いにこそ、心の美を感じるのだ。それは意図的なものとは限らない。あたかも知らぬふりをしているかのように見えるほど、自然で偶然のように感じられるものなのだ。
近年、こうした善意は対価のないものとして避けられている気がする。評価されない行為はその善悪に関わらず無意味なものと考えられやすい。でも、何でも商品化される世間の風潮に背を向けることも必要だ。そして、それにことごとしい賞賛は要らない。当たり前のように他者のためになる何かをする。そんな人生を送りたい。
それを理想主義者、夢想家と難ずる人もいるはずだ。その指摘は間違っていない現実離れした何かを追いたいのはいまの私にとっては切実な欲求なのだ。
予報によれば関東は21日くらいから著しい低温傾向になるという。日本海側ではその前日くらいから雪になり、所によってはかなりの積雪もあるかもしれないという。この時期にはよくあることだが、問題はその程度である。生活に支障が起きるほどの天災にならないことを祈る。
北陸に住んでいた頃は、この時期は結構スリリングだった。道路には融雪装置が付いているので、よほどのことがない限り大丈夫なのだが、問題は車庫から公道までのアプローチである。距離は大してないのだが、降り出すと除雪してもすぐにまた雪が塞いでしまう。私のような雪国ネイティブでない者にとって、手の抜きどころが分からず、無駄な力仕事が重なって疲労してしまうのである。
関東に転居してこの苦労はなくなったが、代わりに異常な乾燥と他人からのウイルス感染の可能性の多さに常に曝されている。どうも体力が逓減しつつある現状において、少しの油断もできない。冬は嫌いな季節ではないが、緊張感を要求されることにおいては他季とは違う。
今年の新成人はコロナ禍のためにいろいろなことを犠牲にしてきたようだ。さまざまな行事が感染予防の名目で中止になり、距離をとることばかり強制された。その結果、密なる関わりを阻害され、本質に迫る何かを失ったかもしれない。
君たちが失ったことは大きい。間違えないでほしいのは、人は情報の多寡のみで規定されるものではないということだ。情報にはそれに付帯する生の要素があり、それらは近くにいないと分からない。スクリーンに表示されない極めてアナログな要素こそが実は大切だったりするのだ。それは必ずしも電送されない。
コロナ禍に多感な時期を送った人たちにはこれからでも密な繋がりを持つ機会を持ってもらいたい。その多くは上手くいかない。理屈に合わないことの方が多いかもしれない。しかし、それがリアルな社会であり、私たちは理屈通りにはならない世界で生きていることを分かつてほしい。
ますます少子化していく日本社会の中で生きていくのは大変かもしれない。社会保障の問題は恐らく年配者で何とかある程度解決する時代が来るかもしれない。ただ、あなた方自体の生き方は自分で拓くしかない。この後に起きるかもしれない不可抗力に対抗する免疫は持っている世代と考えればいい。
今、どのスナックを食べますか ?
子どもの頃から好きでいまもたまに買うのが森永製菓のチョコボールである。この名称になったのが1969年ということだが、前身の商品を加えるとほぼ私の人生と同じ長さがある長期販売の菓子ということになる。
安価で美味しく、適量であることに加え、キャラクターアイコンのキョロちゃんのイメージが魅力的でこれまでにどのくらい購入したのか分からない。飽きが来ないことを考えるとかなりよくできた商品であると言える。
紙製容器の一部に隠されたエンゼルマークがあるとおもちゃの缶詰という謎の賞品がもらえるというのも子どもころは魅力的だった。ただなかなかエンゼルは見つからず、5枚集めなくてはならないエンゼルは集まる前になくしてしまい賞品にたどり着くことはなかった。
いい大人になった頃、ようやく願いが叶い、応募すると大きなキョロちゃんのカタチをした缶詰が送られてきた。中にはいくつかのアナログのゲームなどがあり、期待していたものとは違ったが、とても嬉しいものであった。子どもの頃に達成していたらさぞかし周囲に自慢していたに違いないが、それで何かを失ったかもしれないなどとも考える。やはりいい大人になって獲得したのでよかったのかもしれない。

でも、そういうおまけが目的でこのお菓子を買っていたのではないことは確かだ。何というか、チョコボールを食べられることだけで得られる安心感のようなものがある。移り変わる時代の中で一種の定点のような存在として私にとっては貴重な存在なのだ。
運転中にラジオから久しぶりに緊急地震速報を聴いた。ベルのような警報音はやはり何度聴いても緊張してしまう。結果的に私の住む地方はほぼ無感で、震源地近くでも震度4程度で津波もなかった。
このところ日本各地で強めの地震がたびたび発生している。青森や山陰は実質的被害が出ているらしい。地震の多い我が国にとってこれは宿命である。多くの国民は震度4までの地震では動揺しない。それは耐震構造の住居が普及していることもあるが、それよりも慣れによるものと言える。
パニックにならないのはよいことだが、あまりに無警戒になってしまうと、本当の大地震のときの備えが疎かになってしまう可能性がある。かくいう私も特段の備えはないし、避難経路や1次避難場所の確認もできていない。
おそらく私の生きている間に何らかの大災害の影響を受けることは高い確率である。その時にどう振る舞えばよいのか。何をすればよく、してはいけないのか。そういうことを確認しておかなくてはなるまい。地震速報を聴く度にそのようなことを思う。後は実行に移すだけなのだが。
子供の頃に大切にしていたものについて聞かせてください。 それはどうなりましたか ?
小学生のときに親から買ってもらったもので一番嬉しかったものは天体望遠鏡だった。それも反射式というのが特に嬉しかった。月面や土星や木星をそれでよく見た。福岡に住んでいた頃はそれなりに星もよく見えた。オリオン座の星雲やスバルなども見つけては感激していたものだ。
天体を捉えてもすぐにフレームアウトしてしまうことから、地球の自転を感じることができた。赤道儀型のマウントが欲しくて仕方なかったが、それは叶わなかった。あるときは晴れれば毎日のように望遠鏡を出して星空を見上げていた。
東京に引っ越して星空はほぼ一等星だけの寂しいものになった。それでもベランダからときどきうっすらと見える惑星を見ることもあった。絶望的によく見えない空だった。なぜか文系に進み、望遠鏡をみる機会はどんどん減って、それでもしばらくは長いダンボールを捨てずに転居先に持ち歩いた。
北陸に住んだ頃は絶好の観察機であったはずなのにほとんど使うことなく、荷物の山の中に眠ることになる。どんどん増えた本の中でついに持ち運び不可能と判断していつか捨ててしまったのは残念でならない。今でも星空を見上げると子供のころの新鮮な感動がよみがえることがある。
中国が日本に対する経済的制裁としてレアアースの輸出量の規制をちらつかせている。希土類の世界的シェアは中国が群を抜いており、その規制は相当のダメージになるのではと考えられている。
対抗措置として日本も半導体製造に関わる技術の制限を行うべきだという意見もあるが、問題を複雑化するだけでなく、その有効性も疑問視されている。やらない方がいいだろう。相手と同じことをしていては解決できない。
当面は賢く立ち回り、交易を続けるのがよいと考える。いままで以上のコストがかかることが予想されるが乗りきらなくてなるまい。その中でこの分野でも一国依存を止めることを目指さなくてならない。
すでに使用された機器から希土類を取り出して使うリサイクルも研究が進んでいる。使い捨てできる時代は終わりつつあるのだ。都市鉱山とも言われる資源の再利用は至急必要な技術である。いまのところは高いコストが課題となっている。中国から買った方がはるかに安いのだから仕方ない。ただ、現在のような問題が出来したときにコスト以上に必要に迫られることになるに違いない。まずは希土類の再利用を商業化するべきだろう。
もう一つ、よくいわれるのが日本国内にレアアースの鉱脈がある可能性があるということだ。多くは海底にあるという。特に南鳥島近海の海底にあるものは純度が高く質がいいらしい。問題は数千キロメートルの海底から発掘することだが。採掘のめどは立っているようだ。かなりのコストはかかり採算には合わないが国家の安全上は不可欠らしい。
本当はレアアースのいらない技術の開発が必要なのだろう。技術革新は世界を大きく変えるがそれは滅多に起こらない。大切なのは必要に迫られる切迫感と何とかしようとする人々の意志だ。いまの日本にはそのどちらも欠けている。今回の中国リスクはそれを思い出させるにはよい機会なのだろう。