投稿者: Mitsuhiro

伝わらない思い

 何でも簡単に「配信」できると錯覚してしまう環境にある。言った言わなかったがトラブルのもとになってきたのはかつてからだが、いまはメールか何かで送った送らなかった、読んだ読めなかったの問題になることがある。結局同じことなのだろう。

 リアルタイムで同じ場所でやり取りしていても誤解は生じる。近年はコミュニケーション能力、とりわけ受信力に劣る人が増えている。かくいう私もその一人だ。相手の立場を察する洞察力や、自分の言動が将来どのように伝達されていくのかを予測する力も欠けている人がいる。高度な教育を受けた人にも多くいるから、恐らくいまの社会に欠けている何かがあるのだろう。

 情報技術は飛躍的に進歩したが、それに人間の方がまったく追いついていない。それどころか、人間らしい意味や価値観の分野を放棄して、すべてを人工知能に委ねようとしている。

 残念ながら、私たちには伝わらないことが多数あるという現実を知るべきだ。そして、人間性とはどのようなものかを自覚するべきなのだ。そのためにも古典文学に接し、小説や詩をもっと読むべきなのだ。その意味でもいまの国語教育の方向性には大きな疑問を感じる。

卒業の季節

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 街を歩いていたら卒業証書を持って歩いている生徒に何人か出会った。最近はいわゆる筒に入れるのではなく、二つ折りのケースに収納される形になっている学校が多い。今日出会った何人かの高校生もその形式だった。まだあどけなさの残る彼らは、4月から新しい生活を始めるのだろう。中には別の地で暮らすことを決めている人もいるかもしれない。

 私は都立高校から都内の大学に進学したので、それほどの変化はなかった。大学も比較的近くにあったので卒業の時の緊張感もあまりなかった。というより、その時点では進学先が決まっておらず何とも中途半端な気持ちであった。式の翌日に進学先が決まった。運よく合格した男子は数少なく、ほとんどの同級生が浪人をすると言っていたので、あまりはしゃぐこともできなかった。

 大学に入るまでの数週間はかなり不安定だった。今から考えるとどう考えても怪しい英会話学校の勧誘に引っ掛かりもう少しで契約しそうになった。結局、度胸のなさがこの時は奏功して詐欺から逃れた。宗教の勧誘にもひっかかりそうになった。これもいい加減な性格のためうやむやにできた。何がしたいのか分からず、迷走したのが卒業後の数週間だったと記憶している。

 いまでは人に生き方を語るような偉そうなこともするが、自分自身がかなり不安定な18歳であったことを思い出す。何もごともなく過ごしたことは奇跡というしかない。万一、この文章を読む高校卒業生か、その知り合いがいらっしゃったら、よく考えるようにしてほしい、もしくはそう伝えてほしい。大人の世界は思ったより狡猾で、そして面白い。だから気を付けて楽しんでほしい。本当は今日すれ違った高校生諸君にもそう言いたかったが言えなかった。言ったとしても不審者と見られるだけだっただろうが。

人形

雛人形の写真

 新暦の3月3日はまだ寒い。今日は寒の戻りともいえるような寒さであり、特にその感が強い。旧暦の3月3日は今年の場合は4月22日にあたり、春の印象は随分違う。もともとは古代中国の行事である上巳に端を発し、日本で独自の発展をした3月3日の行事は今ではひな祭りとされている。人形の祭りである。

 この人形はもともと罪や穢れをそれに移して自分の身代わりとなり日常から追放されるものであった。流しびなの習慣は現在でも鳥取県などで見られるようだ。この日の行事ではないが、紙など作った人形に息を吹きかけたり、体をこすったりしたものを川に流すという行事は各地にみられる。かつては川は異界につながる道であったようだ。

 人形はかわいく愛らしいものであるとともに、どこか恐ろし気な話もあるのはこの罪穢れの請負役という側面があるからだろう。雛人形を行事後すぐに片づけようとするのも、この禊や祓の伝統がどこかで影響しているはずだ。

 罪や穢れがあたかも誇りのように体に付着し、なおかつそれを簡単に拭い去ることができると考えていた価値観は非常に楽天的なものであるが、つねに身を清めようとする考え方は現代人にも参考になるものであろう。人形には負いきれないさまざまな日常の罪や穢れを私たちはどうすればいいのだろう。雛人形の端正な面持ちが逆に私たちに問いかけてくるような気がしている。

分断

 いろいろな局面で分断が起きる可能性があると言われている。国際的には超大国の利益が衝突し、世界が分断しつつある。その一国のアメリカでは階層や人種、主義などによる分断が表面化しつつある。一部の欧州の国が独立を目指しているのも分断の兆しだ。そしてこの日本にもその傾向は忍び寄っている。

 経済的な格差は日本ではまださほど顕著ではない。ただ、多くの人々が低賃金で働き、さらに非正規雇用といった不安定な立場にある。すると、経済力の差や雇用形態の差で分断が起こるかもしれない。世代格差もある。若者層の中には今の高齢層が享受してきた繁栄に比べて、自分たちの時代が低調であり、さらに高齢者扶養の責務まで押し付けられていると考える人がある。例の集団自決発言は極論であるが、慎まぬ本音が出たのだとも言える。

 分断を避けるにはどうすればいいだろう。少なくともいまの日本にとって分裂はマイナスの要素しかない。これまで享受していた国家としての市場をさらに小さなものすれば負荷をさらに付け足して走るようなものである。まずは社会的な意識を考える必要がある。スポーツに例えるなら団体戦なのだ。しかもこれは一人勝ちしても未来はない。

 我が国は戦争の反省から、国のために何かを考えることは避けてきた。偏狭な国家主義は危険だが、社会を単位に物事を考えることは見直してもいい。難しい問題だが、こういうものごとの基本的な考え方を見直すことが、今のこの国には求められている。

覚え方を教える

 国語教育の目的は母語の活用方法を深く教えることにある。漢字や文法、文章読解、作文、古典の基本的な読解などやるべきことはいくつもあるが、もう一つ大切なのが学び方を教えることなのだろう。学習という行動の中での言葉の使い方を教えるということである。

 断片的な知識を学んでも直近の考査で得点できてもすぐに忘れてしまう。これは若者の特権能力である短期記憶を使っているからで、長続きはしない。そもそも長くその知識を利用しようとする意識がないのだ。これは学習者の怠慢だけではない。教える方がそのような問い方ばかりしているからだ。

 長く残る記憶のほとんどは何らかのエピソードと結びついている。子どもの頃に覚えた言葉を忘れないのは、それに纏わる思い出とともに覚えているからだろう。この記憶法を国語教育で行うべきなのだ。

 現場でこの話をすると同僚からは同意された後で、ではどうやるのと問われることになる。生徒諸君にはそんな回りくどいことをすると覚える量が増えるだけだと言われる。彼らは短期記憶の王者だから、丸暗記の方が手っ取り早いのだ。そして王者の地位はすぐに奪われることになる。

 この記憶法はやはり母語の活用方法の一つとして教えるべきだろう。断片的記憶はもはや機械に代替される領域だ。大事なのは知識を関連づけ、自分の言葉として語れるようにすることである。これを国語の時間で鍛錬するとすれば、学んだことを素に自分の言葉で他者に説明できる力を身に着けさせることだ。教員が説明したことをそのまま鵜呑みにして試験に書けば正解になるというのは止めなくてはならない。

 そのためには考え発表する機会を増やすことにシフトしなければなるまい。基本的な事項を疎かにしないよう小テストを活用しつつデジタルデバイスもときに使いながら国語の運用力を伸ばす試みをしていこうと考えている。

相手にしないことは攻撃の一つ

 悪意のある相手がいる場合、現実社会ではそれを察することがある程度はできる。そして、そういう相手にはあえて近づかない。どうしても接しなくてはならない場合は最低限のコミュニケーションで済ませようとする。これは逃げではなく正当な方法だ。

 ところがこれがネット上になると誤解が生じる。悪意のある者は素知らぬふりをして近づき、いきなり暴言を浴びせる。彼らの目的は人を傷つけることによる自己確認だから、発言には大抵の場合、相手を動揺させることが第一の目的で、責任は伴わない。反論でもしようものなら嬉しくなってさらなる悪意をぶつけてくるものだ。

 こういう相手にモラルやルールを説いてもほとんど意味がない。彼らは相手にしてもらうことが目的であり、それが生甲斐である。彼らにとってもっとも辛いのは誰にも相手にされないことなのだろう。

 だからネット上の悪意は無視の一択だ。これは決して逃げではなく、自分が悪意ある者にくだす鉄槌である。そしてサイレントマジョリティーはその悪意あるものに批難のまなざしを向けていることを、場合によっては哀れみさえ覚えていることを知るべきだ。

 Z世代はことにこのことが苦手と聞く。あなたの考えるほど世界は単純ではない。

春日

 今日の予想最高気温は20℃と発表されている。3月の始まりに合わせたようにこれからは日中の最高気温が上がる。花粉の飛散も多いようで、最近はくしゃみをする人が増えた。私も規定の半分にしていた対策薬を今日は普通に戻すことにする。

 春日と書くと「かすが」という読みもある。もとは奈良の地名であるというが、春日大社の信仰が全国に広がった影響であちらこちらにこの地名がある。また、苗字としてもあるのはこの地名との関係があるのだろう。

 「はるひ」と読むと春の陽光、もしくは春の一日という意味になり、短歌や俳句ではよく使われる。この語を使うだけで穏やかな雰囲気がある。万葉集の大伴家持の歌「うらうらに照れる春日にひばり上がり心かなしも一人しおもへば」は、春の穏やかな陽光にもかかわらず孤独を感じているという歌で、万葉とは思えない近代的な個を思わせる作風として知られている。これは「はるひ」である。

 「しゅんじつ」と音読みすると漢詩風の響きとなり、ややしまった感じがする。「春日を鉄骨のなかに見て帰る」という山口誓子の句は穏やかな春の光が鉄骨という無機質なものに切り取られている様を描く。その柔と剛のコントラストが際立つ作だろう。

 どう読むかでニュアンスはかわる春日だが、底流にある穏やかで生命のうごめく予感を含む語感を大切にしたい。

トルコ支援

 大地震で甚大な被害が出ているトルコを支援することは日本にも利がある。利益のための人助けは日本人が嫌う価値観であるが情けは人のためならずのことわざに従う必要もあると考える。

 まずは人道的な意味での支援のリーダーシップを取ることだ。地震国としての日本が災害時には助け合うという精神を世界に広めるにはこの機をおいてない。

 次に被災地の情報を収集し、災害時の作業工程を体験し学ぶことだ。我が国には必ず大災害が起きる科学的予知がある。震災は免れないが、被災後の復興の方法を知ることは国益に大いに関係する。

 耐震免震の構造物をトルコに建てることも日本の貢献できる方法だ。東日本大震災でも建築物の倒壊は少なかった。この技術を世界に共有するべきである。もちろんビジネスとして行う必要がある。そうでないと長続きしない。

 震災の多い先進国は少ない。それにはそれなりの役割があるはずだ。トルコやシリアの支援は日本が存在感を世界に示す機会でもある。不況で苦しい毎日だが、禍のあるときには助け合い、自らの贅沢を慎むべきだろう。

小型メモ

 最近は1番小さなサイズのリングメモ帳を持ち歩くことにしている。自分の記憶力にまったく自信かないからである。フリクションペンとともに持ち歩きメモを取る。細かいことは書けないが思い出すきっかけだけでも書いておくといった感じだ。

 と言ってもどの店で何を食べたかとか、下手な短歌の草稿、そしてこのブログのネタになりそうなことばかり書いている。ほとんど有益ではない。

 ただ、メモを取る習慣をつけておくことが大事だという偉い先生の言説を信じているばかりである。困ったことにこのメモをしょっちゅうなくす。スマホのメモは書いたことを忘れてしまう。困ったことである。

人工知能に勝つ

 現時点でもAIの能力はかなり高い。自然な言語で文章を生成する能力を持つ。最近注目されているチャット式のシステムを体験すると、その感がかなり揺るぎないものになる。海外ではこの技術を使って論文を書いたり、絵画のデザインをする人も増え、大学で使用禁止を通達した事例もあるという。

 AIに勝つためにはどうしたらいいのだろう。あっさりシンギュラリティを認めていいものだろうか。

 私のようなものにとってはこの事実は許しがたい。人間には無限の能力があり、機械が模倣しても追いつけない何かがあると考えてしまう。これはほとんど夢に近いものなのかも知れない。

 でも、学校で教えていることはまるで機械と同じだ。もっともこの言い方は間違っている、これまでの教え方をコピーしたのがAIなのだから。ならば、奴らに勝つためにはもっと他の方法を取るべきではないか。

 人間の思考の根本には言葉の意味を考えるということがある。たとえば愛なら愛という言葉の非常に重層的な意味を瞬時に理解し、それらを組み合わせる。また、常に同じ組み合わせではなく、時々間違えていつもと違う取り合わせにする。その中にはこれまでにはない新しい発見が含まれることがある。こんな生物の進化のような非論理的偶然性こそ、人間の思考の大きな特徴ではないか。

 この方面では機械学習は役に立たない。最適解を短時間で出すことを求められているのだから。人間は人間のペースを保たなくてはなるまい。それは間違いを許容し、新しい組み合わせを認める審美眼である。学校ではこれを教えなくてはならない。

 今の敎育がAIの手下になることばかりを推進していることに深い危惧を覚えるのだ。もっと間違えよう。新しいものに敬意を持とう。実はそう教えたい。