月: 2023年9月

涼しくなつたら始めようと思っていたこと

 ようやく猛烈な残暑も終わろうとしている。昨日は雨に降られたが、深夜にたどり着いた実家のもより駅の温度計は21℃を表示していた。

 秋になったら始めたいと思っていたことがいくつかある。ひとつは久しぶりのジョギング、もう一つは読書、それも多読、そして短い小説の完成と応募である。そのためにやるべきことはこの夏に少しずつ準備してきた。

 体力づくりの方は至急の課題である。かつてと違い、目標は体力維持であり、自己尊厳の安泰である。だから、これは自己満足でよい。

 インプットのための読書は地道に続けてきたが、秋はその度合いを少し増したい。これも何かを覚えるための勉強ではなく、流れ出す知識より少し多めの内容を補充することでバランスを維持しようという企てだ。

 小説を書くというのはアウトプットの手段である。小説でなくてもいい。考えたことを言語化してみることで自分の存在を確たるものとしたいのである。

 暑さを理由にしてできなかったたことが、少しずつできるようになる。まだ変わりうる己の可能性を信じよう。

現実味

 周りを見回すとやけにスタイルのいいそして完璧なメイクアップの女性、相撲取りのような立派な体格の若い男性、初老のサラリーマン、優秀なエンジニアというようなスタイリッシュな男性がいる。偶然ではあるが、いかにもと言えるような人たちに囲まれた。

 私が強烈な違和感を覚えたのは彼らが放つ存在感がどこか現実離れしているように思えたからだ。まるで演劇のキャラのように際立っていたのである。それは日常というものが喪失される感覚であった。

 おそらく個々の人物については彼らの日常を見せたまでであり、特別なことではなかったはずだ。その組み合わせに私が勝手に違和感を覚えたのに過ぎない。さらに推測すれば、それぞれの人物が自らの存在を少しずつ飾っているために、それが複合してアンリアルを演出したといえる。

 日常の複合が非日常になることを再確認したという話である。こういう経験はしばしばあるが今回はそれを表現することができた。

気晴らしのための創作

 高校生からしばらくの間、へたくそな小説を書いていたことがある。いま少しだけ残っているものを読み返すと多くは設定が甘かったり、破綻していたりする。当時はもちろん投稿してみたいと考えたこともあったが、それも本気ではなくほとんどが自分のための憂さ晴らしであった。

 その小説の多くはもし~だったらという内容のものが多い。もし、ある日特殊な能力を身につけたらというモチーフが多いのはおそらく当時似たような小説があったからだろう。その二番もしくは三番煎じなのである。当時の作品の人の顔を限りなく覚えることができたらという内容の小説はそのなかではまだましな方であった。誰もが顔見知りになったら世の中は窮屈かもしれないが、でも悲惨で非人道的な事件は減るのかもしれないという仮定の話である。ただし、それには全人類がこの能力を身につけることが必要で一部の人間の能力なら悲劇にしかならないということを書こうとした。

 いまはなかなか小説は書けない。書いてもショートショートの類である。でも、昔のように気晴らしのために書くのは意味があるのでは思いなおしている。もしできたら、寛容な気持ちがある方に読んでいただくとする。

伝統文化

 伝統文化の多くは後継者不足に悩んでいる。高齢化も大きな要因だが、それ以上に文化継承の方法に問題があることが多い。

 どんなに価値あると評されるものでも、現在の私たちに何らかの価値を感じさせるものでなければ人生を傾けることはできない。それは実用性とか生産性などとは無縁でもいいが、他者を感動させられるか否かは大きな分かれ目になる。

 伝統文化を継承する人を育成するためにはこの感動経験が欠かせない。だから文化を守ることではなく、よく見せることの方が結果的に目標を達成することになる。そのためにも、多くの伝統文化に接する機会を儲けることが大切だ。

学者という生き方

 牧野富太郎の人生を調べると実に興味深い。日本植物学の父としての名声の裏にはさまざまなドラマがある。それは朝の連続テレビ小説で描かれるようなさわやかなものだけではなかった。

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 牧野は裕福な商家に生まれたため、経済的な問題は当初はなかった。ただ高知県の山間部では植物学を学ぶ環境がなく、かつ、一つの研究に専念できるような環境が地方にはなかったのが難点であった。彼はその難関を家族からの資金援助で切り抜けている。ただそのために家業が傾き、果てには廃業に追い込まれている。それでも植物学に熱中できたのは生まれながらの気質と研究への情熱の深さである。

 だから必ずしも周りの人物に幸福をもたらしていたとは言えない。むしろ周囲の献身、もしくは犠牲のもとに成り立っていたともいえる。そのような環境にあることを自ら受け入れ、研究を続けたのが牧野の才能といえる。一歩間違えば独りよがりな危険人物であった。

 学者という生き方にあこがれたことがある。学問に身を捧げ他を顧みないという生き方をした人に素晴らしい成果を残した人は多い。世事にとらわれず自らの知的好奇心の思うがままに研究を続けられることには羨望する。ただ、それは思うより易しいことではない。周囲ことを考えず熱中できることはもはやその人物の才能であり、それができない人は突き抜けることはできないということなのだろう。

 牧野富太郎だけではないが、優れた業績を残した人物の周囲にはそれを支える人たちの並々ならぬ努力が隠されている。

修正する機能

 私たちの脳には不思議な機能がある。それは文字の連続の中に意味を感じ取るこである。木当はただの線と点などの連続に過ぎない文字の羅列に意味を感じ取る。きらにその文字列に間違いがあつたとしても、勝手に脳が修正し、意味を解釈てきるようにしてしまうのだ。

 実は前段落に意図的に誤植をしてみた。気づかれた方が多かったろう。それが5箇所あることはおわかりだろうか。わからなくても仕方がない。それが脳の働きなのだから。

 不完全な情報に一貫した意味を感じることはおそらく長い時間をかけて人類が獲得した能力なのだろう。大抵の場合、手に入る情報は不完全かつ断片的であり、それを元に判断しなくてはならない。類推する能力が高ければ、危険回避の可能性は高まる。

 この類推する能力は最近のAIに接したときの人々の反応にも見て取れる。先日、生成型AIの講習を受けたとき、講師がチャットの回答はAIが単語の連続の確率で組み合わせているだけで、言葉の意味を理解しているわけではないと説明した。すると同僚の一人は回答文には感情が感じられるので、講師の言っていることは間違っているという感想を述べていた。これも類推の能力がなせるわざなのだ。

 AIの作成する回答に人情を感じ取るのは、文章を読むときの私たちの基本的な姿勢のせいなのだ。文字列の乱れを勝手に修正して読むように、実は確率的な語彙の羅列であっても、そこに意味を感じ、心まで読み取る。AIとの付き合いでこのことが余計にはっきりとしてきた。

 逆に言えばこの能力こそ機械にはできないものの一つであると言える。豊かな想像力とおおらかな推測力、矛盾を乗り越える何かは人間の生物としての能力なのだろう。

 

人格の保存

 あくまで仮の話だ。人工知能の発達は日進月歩だが、もしある人物の性格とか信条や思考の癖を記録し、再現することができるシステムが出来上がったならば、どのようなことが起きるだろうか。

 さらに空想を重ねよう。外見上ほとんど本人と変わらない容姿を持ち、極めて自然な動きをする機械に先ほど述べたある人物の人格を記憶させた人工知能を搭載したとすれば何が起こるのだろう。

 この話の延長上にはある人物そっくりのもう一人の彼または彼女が出来上がるということだ。そんなことは藤子不二雄の漫画のパーマンに登場していた。コピーロボットでもう一人の自分を作り、活躍中の不在を埋める時間稼ぎをしていた。鼻のスイッチを押さない限り、他人からはそれがロボットだと気づかれることはない。

 この問題を考える上で欠かないのは、人格とは何かと言うことだろう。性格と思考や行動の様式、さらには身体的特徴が一致していれば同一人物と言えるのだろうか。これはクローン技術という文脈でも語ることができるが生命倫理に抵触しないと思われる人工知能とロボット工学の組み合わせで考えている。

 もちろん直感的にも経験的にも同一人物とは思えない。完全なコピーがなされたとしても別の人格のように思える。なぜなのだろうか。仮にマスターの動きを完全にシンクロナイズするコピーが行われたときは間違いなくコピーの方に人格を感じられない。モノマネ機械と判断する。ただ、どちらがマスターでコピーか判別できないときはどうだろう。

 次に、コピー側が自主的に行動する場合はどうか。自ら考え、意見を述べ行動する場合はもうコピーとは思えなくなる。マスターとコピーが会話をしたり、争ったりしたら完全に別人格と感じるだろう。外見がそっくりの双子の姉妹のどちらにも人格を感じるのと同じように。

 人為的にそっくりというより等しいものとして造られたコピーは、性能が高ければ人格を認めていいのだろうか。

 さらに屋上屋を架す。例えば尊敬してやまない先人の精神と肉体を完全にコピーして、我が家の一員として迎えた場合、彼もしくは彼女は家族の一人なのだろうか。それが認められたなら人格の保存はできるのだろうか。何か非常に根本的な部分で間違っているように感じる。それをまだ説明できない。

いつまで

 各地で日ごとの最高気温の更新がなされているらしい。昨日はいわゆる酷暑日となる35℃を超えた地域が複数観測された。今日もまたその可能性があるという。

 暑すぎる気候のせいで農産物の収穫期がずれているらしい。植物によっては気温と日照時間とが複合して成長するものが多い。だから、この気温の状況は普通の生育を阻害してしまうのだろう。動物にも大きな影響が及ぶ、植物を食べる種にとってはまさに死活問題だろう。

 人間にも同じことが言える。高温多湿へ耐性はかなり身についたものの、疲労感が蓄積していることはいかんともしがたい事実だ。コロナウイルスの流行などが再燃しつつあるのには、体力の低下が関係しているに違いない。

 いったいいつまでこの異常な暑さが続くのだろう。暑さ寒さも彼岸までというが、彼岸はあとわずかに迫っている。

久しぶりに豪雨

 昨日は久しぶりに豪雨が通り過ぎた。ゲリラ豪雨など呼ばれる短時間の集中的な雷雨は、ある年は頻繁に発生したが、最近はすくなかった。

 昨日は勤務時間中で屋内にいたので直接的な害はなかったが、これからは覚悟しなくてはならないのかもしれない。

生物に託す思い

 昔から花鳥に思いを託す歌は数多い。鳥を歌うとき確かに表現されているのは鶯であり時鳥(ほととぎす)であり、雁であり、鶴であるかもしれないが、表現しているのは歌を作っている人の心である。作者が悲嘆にくれていれば雁が音は悲しいものであるし、幸せならば別に聞こえる。それより以前に実際には近くにいてもその存在を認知すらしないかもしれない。

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 犬や猫を飼っている人の話を聞くと、その愛玩ぶりを語りながらどこかにその人自身のものの考え方が透けて見える。ペットに自分の生き方の理想を見ていたり、現実逃避する際の方便として使われていたりする。犬猫の目を借りて自分の在り方を映し出しているのだろう。

 動物の場合はそれが分かりやすいが植物でも同じだ。植物も動物の一形態であることは誰でも知っている。そしてそれは大いに自己投影をしやすい存在であるということにもつながる。だから桜に移り気を感じたり、逆に微動ともしない潔さをみたりする。これも表現の手順から考えれば桜が潔いのではなく、そう見ようとしている人々が潔いことに価値観をもとめているのに過ぎない。多くの場合、現実には実現できない理想を生物詠を通して言語化している。

 犬を歌に詠むとき、それは犬自体ではなく実は作者の思いが歌われる。そのようにとらえなおして作品を読んでみるといい。面白い発見がたくさんある。