月: 2023年9月

前半戦

 年度を単位にするのなら今日で半分が終わったことになる。試合に例えれば前半戦が終了した。この試合、かなり苦戦してしまった。

 選手交代はできない。控えの選手がいないのだ。一方的に攻め込まれても、それを跳ね返す力に欠けている。ようやく防いでいるが、選手も疲れてきた。いつまで耐えられるのか分からない。

 後半も同じメンバーだ。あるのは老練である意味狡猾な戦法のみだ。負けないことだけを目的とする苦しい展開になろう。これは覚悟しておかなくてはなるまい。

 ただ、一縷の望みがないわけではない。展開の中で勝機を掴むこともあるかもしれない。カウンターでも、相手のミスでもいい。貪欲に狙うまでだ。我がチームは試合を捨てた訳ではない。

磯野波平は54歳

 サザエさんの父親の波平は54歳の設定である。そう聞くとかなり驚く。65歳くらいだと感じている人が多いのではないか。

 ただ当時の男性の平均寿命は60歳くらいであり、ならばあの風貌は当然だ。余命は10年をきっているのだから。

 源氏物語において光源氏は四十の賀を行う。平安時代において40歳は後期老齢者の仲間入りをする年齢であった。光源氏はここから柏木による不倫により、転落の人生を始める。現代の40歳は中年と呼ばれるかもしれないが、中にはかなり若々しい人も多い。少なくとも老齢ではない。

 人生のスケールが過去と現在では大きく異なるということだ。現在は幸いにも高齢化が進み、人生をゆったり構えていられる。歴史的にいえばこれは偶然であり、今後さらに長くなるのか、短くなるのかは分からない。

 波平さんがあの容貌なのはおかしいということの解釈が、老けすぎなのか若すぎなのかは、時代によるということになるのだ。個人的には波平よりも高齢な己が彼ほど存在感がないことを焦るばかりである。

わずかに名月

雲間に名月

 中秋の名月を期待していたが宵の口はかなりの雨が降り、無月と諦めていたが、雲間にわずかに月光が漏れた。彼岸すぎて名月の日となったのにまだ暑い。来週には秋らしくなるというが最早信じることはできなくなっている。

支えとなるもの

 何かに行き詰ったときに特定の神にすがるということを日本人はしない。一神教ではないからだ。それでは人間を超越した存在を信じていないのかといえばそれは違う。日本人は結構いろいろなものに神性を見出す。多神教かつ自然崇拝の日本型の信仰形態は世界的には珍しいのかもしれない。

 このような風土を培ってきた背景には過酷な自然条件がある。四季のはっきりした気候は恵みを多くもたらすが、反面災害も多く発生する。さらに地震や津波被害、火山活動など他の地域には少ない条件も加わり、常に崩壊の危機を感じて生きることに慣れている。現代のわれわれも東南海トラフ崩壊型の大地震の非常に高い確率を知っても冷静に日常生活を営んでいる。

 そういう風土に住むものとしては支えとなるものは一柱の神だけでは足りないのかもしれない。神もまた人間と同様に相互に関係を持ち合う多神教こそが複雑な現実の説明には適している。このような精神風土になったのは意味があったのだ。学生の頃にこのような内容の書籍をいくつか読んでそうかもしれないと思ったが、最近は実感として覚えるようになっている。

日にちとしての過去最高気温

 このところPCの天気予報ウィジェットに今日はこの日としての過去最高の気温になるかもしれないという意味の表示をしばしば見る。今日などはおそらくその日になるだろう。私の住む町の予想最高気温は33℃であり、過去の最高気温は2007年の31℃である。

Photo by Pixabay on Pexels.com

 ひとつ前の記事で書いたようにこれからは次第に気温は下がり続ける。10月7日ごろに夏日を脱すると予想されている。つまり10月まで夏がずれ込んでいくということになる。10年位前、将来、日本は四季がなくなり夏と冬だけになるかもしれないというテレビ番組があった。まさかと思ったが今それが現前にある。

 なんでも最高を目指すべきだとは昨今の風潮であり、そのために多くのものを犠牲にしてもいいというのが暗黙の了解になっているようだが、こと気象に関してはなるべく突出してほしくはない。寒暖を不快に思うだけならばいいが、生態系に影響が出れば、農業や漁業などが影響を受ける。その結果、食糧危機が生じれば世情の不安定化にも直結する。

 よく言われるようにこの気候変動が人間の生活に由来するものであるならば、やるべきことを始めなくてはならない。本当に持続可能エネルギーというものが存在するのかわからないが、変えられるなら変えた方がいい。少なくともいらない消費は控えるべきだろう。生産活動だけが人間が生き延びる方法だという考え方を変えなくてはなるまい。

 言うは易く行うは難しである。今ある生活の水準を下げて生きるという選択が私たちにできるのだろうか。今このようなことを書いている私は十分な照明と冷房の入った部屋の中でタブレットパソコンをインターネットにつないでいる。その電力を作っているのはおそらく化石燃料がもとであり、それは多大なエネルギーを消費して原産国からタンカーかなにかで輸入されてきたものだ。狐とか狸とか熊などの野生動物が話せるとしたら、どの口が言うとなじられそうだ。

 こういう時代はいつまで続くのだろう。ふと、そう思うことがある。私が生きている時間はもう限られているが、その後の世代は今と同じような生活ができるのだろうか。温暖化もしくは寒冷化の気候変動に耐えうるのだろうか。そんな漠然とした不安を覚えてしまう。それも今年の長すぎる猛暑のせいだ。

明日がピーク

 予報によると私の住む街の最高気温は明日34℃らしい。この数字にはすっかり慣れてしまっているので驚きはない。さらに長期予報をみるとこのあとはこの馬鹿馬鹿しい残暑は収まり、来週の中頃にはかなり秋らしくなる。最低気温が15℃近くまで下がると半袖は減るだろう。

 その意味でも明日はようやく季節の節目になりそうだ。最近は長袖ネクタイで出勤しているが明日は夏を惜しむまつりとして最後のクールビズと洒落込もう。本当はアロハシャツでも着たいところだ。暑い夏に感謝はしていないが、去ると分かれば名残惜しい。

秋の草

 朝晩は涼しくなってきた半月かそれ以上の季節の遅れを感じる。彼岸過ぎてもまだ残暑ということばが忘れられない。

 ただ駅前の土手を見上げるとさすがに秋の趣がある。俳句では秋草とかいう風景がひろがり、彼岸花があちこちに咲く。いろいろな生命の循環も混乱しているというが、そうはいっても出番を待っている生物は出演を取りやめることはできない。

 もう少し要領よく秋を迎えたいと思っていたがそうも行かず、今年度も間もなく半分が終わる。やるべきことをまずはやり、あとはそれをいかに楽しむかだ。

確かに私は

 世の中が何でも数値化できるという幻想をどうして多くの人々が信じているのだろうか。数は大小を顕在化できるので、対象を比較し序列化できる。どちらが優れていて、また劣っているかなどが可視化できるのだ。

 ただ、こうしたものさしの危うさは誰にもすぐ分かる。ある数値が良いからと言ってそれが絶対的に素晴らしいとはいえない。基準が変われば序列など簡単に変わってしまう。ところが、ものさしを設定した人に権力がある場合は厄介だ。そのものさしの中で設定者は絶対に損はしない。そしてそれに従う一般人は見事に序列化され苦楽を味わうのである。

 私たちが優劣を感じているものの大半はこうした権力者が設定したものさしによっている。知らないうちにそのものさしに見合う価値観を強いられ、その枠組みで生活することになる。

 こうした考え方では結果的に自分の生き方を生きられない。他人が設定した尺度に従って、そうかもしれないという感覚で生きる。

 大抵はこれで何とか生きられる。中には幸福に過ごせる人もいるかもしれない。自分を消滅させることに成功すれば、他者の用意したよくできたルールに従う方が遥かにスマートに思える。でも何か違う。

 違和感に気づいてしまえば後戻りは難しい。いつまでも他人の価値観に従ってはいられない。とりあえず独自のやり方を模索する。そしてそれは簡単ではない。しばしば挫折する。それなら既存の価値観に戻ろうかとも考える。

 確かに私はこう考えましたということは意外にも難しい。

大丈夫ですか

 大丈夫というのは安心ができる安定した状態をいうことばと子どものころは思っていた。ただ最近は確認や拒否の場面で用いられている。むしろこの方が多い気がする。例えばレジ袋はいりますかと店員が聞く場面で「レジ袋は大丈夫ですか」と尋ねる。客は「大丈夫です」といえば拒否の意味になる。

 「大丈夫」という名詞の意味は立派な男子ということで、剛健な男子が安泰であることを意味にしたのだろうか。それが安定状態という言葉に活用され、副詞的に使われるようになった道筋は想像できる。それがなぜ確認の文脈で使われ、拒否の回答で意味をなすようになったのか。

 思うに日本語によくみられる婉曲の表現の一つと考えるのが最もわかりやすい。確認するのも、拒否も本人の意思がむき出しになりやすい。そこで、用件の許諾そのものではなく、人の心理状態の方に置き換え、意志の確認を是か非かではなく感情の問題にしていることがこの受け答えの背景にあるように思う。

 私自身は最近の大丈夫の使い方にはなじめずにいる。変な気遣い無用などといきがってしまう。これは彼らの使用の意図とは異なっているから、私の憤懣はお門違いなのは分かっている。ただ、大丈夫ですかといわれるとそこまで窮地には陥っていないなどと勝手に考えてしまうのである。

まだ何もないところへのパス

 サッカーやラグビーの選手の出すパスはまだそこに誰もいないところに向かって出される。だから、相手も取れない。

まだそこにいない相手に

 パスを送る者も受ける者も動きのエネルギーの方向や大きさを予測し調節しながら試合をしているのだ。それが際どいものほど、スーパープレーということになる。

 恐らくこれはスポーツ以外にも当てはまる。まだ起きていない事態に向かってパスを送る。そしてそれを受ける相手はその場所に最短距離で向かう。これが上手くいけば大きな成果が得られる。

スポーツが人生のヒントになるのは、スポーツが人生の一部を切り取って強調したものだからだろう。複雑な要因の枝葉を落とすことでものごとがわかりやすくなることはある。