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不器用な現実

 結果的にうまくいくということもある。それはそれで評価すべきだと思う。最近は完璧な展開から理想解に達することを求め過ぎている気がする。実社会はもっと不器用なものであり、不規則でもある。

 情報化社会に人工知能の技術も加わって私たちは効率化とか省力化とか、そういう無駄を排除する考え方に染まってしまっている。どこかの成功例を検索してその通りにやろうと思っても、条件がいろいろ違う自分の人生にはそのまま援用することはできない。できないとあたかも自分の能力が劣っているかのように考えて、ますます惨めな気持ちになっていく。

 手本を知らない誰かに求めるのはやめた方がいい。いろいろ違うのにその通りにできるとは考えない方がよいということだ。向上心は身近な目標に求めるべきなのだろう。そして自分を含めた私たちを幸せにする方法を追求するべきなのだ。

 他者を出し抜き自分だけが優位に立とうとするやり方をこのところの社会は奨励してきた。自分の利益になることは徹底的に求めるくせに、対立する考えは無視したり攻撃の対象にする。これではその場では勝てるかもしれないが、結果的に幸福感は持てず、周囲の人も不幸にしてしまう。このやり方に違和感を覚える人が私の感覚だと少しずつ増えてきている気がする。

 目先の利益で行動することが結果的に何をもたらすのかを分かってきたならば、安易に他者と比較したり、非難したりするのが得ではないことに気づく。不器用な現実に立ち向かうならば、それなりの覚悟と寛容さが必要だ。失敗を重ねてその結果ようやくたどり着いた解答が間違っているかどうかはそんなに簡単に評価できるものではない。

食洗機のし残したもの

ファミリーレストランに行くと、価格の安さには驚くとともに企業努力には感心するが、やはり一言言いたくなることもある。恐らく機械で洗浄したものをそのまま客にだす食器類にはよく見ると細かい洗い残しがある。衛生基準的にはクリアしていてもやはり気になりだすとどうしようもない。自分で拭いて使えるようにしている。

 恐らく将来のこの国の姿はもっとこうした傾向が強くなっていくはずだ。おもてなしの国といっても何がおもてなしなのか分からなくなり、機械に頼って省力化して効率化を上げれば成功だとされる。客側の基準も下がり、職人技的な接客は超高級店のみのものとなり、多少の無作法は容認されるようになるのだろう。

 そうならないようになる道はある。人工知能がより高度化されるといわゆる文系的人材はもちろん、理系的な人材の多くが不要になる。彼らが就くのは機械では実現できない人間的な仕事だ。細かな顧客のニーズに対応して、ケースバイケースの対応をするサービス業務が辛うじて生き残る。いまは外国人労働者に委ねている労働の多くも、将来の日本人の働き場所となる。そのためには待遇改善が欠かせない。職人技に対する評価がこれまで以上に高まる時代がくるはずだ。

 逆にいまは高給取りの職の多くが人工知能などに代替される。汗をかかなければ収入が期待できない時代がこの後すぐに出来しそうである。農家や芸術的な工芸職人がエリートになる時代になるのかもしれない。

 恐らくそういう時代に私はもう生きていない。ただ、いまの常識がいつまでも続くとは思わない方がいいとは後輩に伝えたい。

9月病になる前に

 明日から新学期だ。気持ちを切り替えて再び始まる日常に臨もう。もしかして、明日からの日々に不安を抱えている人もいるのではないだろうか。私もその一人だが、でも敢えて言いたい。明日からの日々はきっと面白いものになると。

 夏休みが休養になると考えていた時代はよかった。今は夏休みは文字通り耐える時期である。今日もとても暑く、およそ何もする気になれなかった。冷房を付けてネットに接続してしまえばいつもながらのコーディネイトされた快適世界が展開されるが、どうもこれは違う。画面に現れるのは過去に閲覧した情報をもとに類似情報を集成して出来上がった偽の世界であり、現実の乱雑さとは別物である。本当は街に繰り出して自分の予想だにしない世界に触れる機会であった。それをこのばかばかしい猛暑がさえぎってしまったのである。

 だから9月からはリアルな現実に向き合える楽しむべき季節が始まると考えればいい。快適なことだけではない、性に合わないむかつく現実にも直面する。クッキーが選択しないどうしようもない現実が次々に襲い掛かってくる。それを恐怖とみるかエンターテインメントとみるかで暮らし方は変わる。若い皆さんには言いたい。世の中で優位にふるまっている人々や、いわゆるマウントをとる人たちの栄華は短い。大切なのは不如意であっても現実を生きることだ。決してアレンジされた仮想現実に逃げ込んではいけない。

 9月病なる言葉は昔からあって、乗り越えなくてはならない課題のように考えられてきた。たしかに生活のリズムが変わるのは負担が大きい。でも、失敗しても間違っても全く構わないのだ。周囲の人々に笑われるのが怖いという人がいるが、周囲の人はたまたまその場にいるだけで、自分の価値観と合わないだけなのかもしれない。いまは小さな世界だけに拘束される時代ではない。他人の評価は参考意見くらいに考えて受け流そう。

 自分以外の価値観を認められなくなった人は哀れだと思う。今その人がどんなに裕福であっても、どんなに有名であってもいつかそれは破綻するきがする。自分の価値観がいつまでも他人に理解されるとは思うべきではない。むしろ理解不可能なのが人間というものである。それを他人に押し付けるのではなく、他者のへんてこな考え方をいかに理解するのかがこの世を生きるためのコツのような気がする。

 明日から始まる生活に不安を持っている人には特にこう言いたい。不安を持つことは現実に対してまじめに取り組んでいることでよいことだ。予想を超える事態が発生するかもしれないが、それも楽しもう。他人の評価は気にすることはない。もしかしたらとても尊いことをしたり考えたりしているのに周りが理解に追い付いていないだけなのかもしれない。

芸術を目指す

 AIの作り出すさまざまな作品に圧倒されているうちに何が大切なのかを考えている。人工知能が参考にするのはデジタル化された言葉や映像であり、それを高速に検索して合成する。この工程においては人間に勝ち目はない。

 いわゆるハルシネーションなる脱線もだんだん少なくなっていきつつあるらしい。実行例を重ねるほど精度が上がってゆくのである。

 ならばどうしても人工知能に処理できない非デジタル情報を活用するしかあるまい。手触りなどの感触、インスピレーションなどの定量化しにくい何かをどれだけ発揮できるのかを鍛えるしかない。ただ、それもコード化すれば同じことになる。デジタル化できないものをそのまま表現する力が差別化の鍵となるようだ。

 それは個性であり、独創である。結局、芸術と言われているものが重視されていくのだろう。この方面の力をつけるためにも、規格品、他人と同じ価値観に甘んじることからは離れなくてはならない。どこまでできるか分からないが、私もそれを少しずつ目指して行きたい。

感動のツボ

 最近、感動のツボが変わってきている気がしている。凝りに凝った仕掛けよりも、純粋に当事者の人間性が垣間見えることが感動の種となっている。作り込み過ぎた仕掛けはそれが人工知能の作った精巧なフェイクであつても感情移入できない。

 私自身のことしか言えないが、おそらく大抵の人たちにとってもこれは当てはまるはずだ。どんなに上手く作ったストーリーも、実話に劣ることがある。創作者はこのことを意識して、創作を限りなく実際のことのように装う。

 最近はかつてディープフェイクと言われていたものが簡単にできるようになっている。作られた偽物が氾濫するようになると、人々が求めるのは多少辻褄が合わなくても人間らしさがあるものに惹かれるようになる。そこにはさまざまな矛盾があり、辻褄が合わないこともある。それを含めてリアルな実感を覚えるのである。

 先日、人工知能に一定の設定を指定してシナリオを書くように指示してみた。数分の間にかなり凝ったストーリーを作り、体裁も整っていた。内容も一見するとよくできていて驚いた。そこに足りないのを敢えてあげるとすれば、意外性ということだと思う。論理の飛躍を意図して行うということは人工知能には今のところ苦手なようだ。

 何に私たちは感動するのかを詳しく研究することで人間とはどのようなものなのかが分かるのかもしれない。

スマホ1日2時間条例

愛知県豊明市で市民の仕事や勉強以外でスマートフォンの使用を一日2時間以内を目安とするという条例ができたという。10月1日に施行される。ただし強制力や罰則はないので、事実上は努力目標ということになる。

 スマートフォンが過剰に使われているのは周知の事実だ。私の場合は通勤定期、乗車券、決済、各種会員書など多方面に利用しているから、これを休止することはできない。ただ、そのほかに例えばソーシャルメディアを見たり、ニュースメディア、ソーシャルメディアなどを見ているとあっという間に時間が過ぎる。ある人は時間が溶けるという言い方をしていたが、まさにそういう感じだ。多くの情報を閲覧しながら、その大半は印象に残らないのは不思議である。

 1日2時間は朝昼夕に分ければ1回40分程度ということであり、達成できそうな気もする。私はゲームはやらないのでそう思うのかもしれない。気が付いたことを検索することで一回30分は使っていない。問題なのは他人が作ったほどほど面白い短編動画をみることだ。これは面白いと感じると次の動画が用意されているので止まらなくなる。

いわゆる「スマホ脳」なる現象は現代人にとっては克服すべき大問題だ。法令で規制するのがよいのか分からない。もし、この法令に罰則規定が付いたらとか、規制のために個人の閲覧記録が監視されたならと考えると別の問題が出来する。自律が最善なのだが、人間はこれを克服できるのだろうか。

何に注目するのかは人によって異なる

 私たちには都合の良いところだけを見るという能力がある。私たちの眼前に広がるのはさまざまなバリエーションの一つに過ぎないのに、ある側面だけをフォーカスしてその優れた面を中心にして評価の対象にする。美女美男というのが典型的で、美しさという極めて流動的な基準をその場で設定して、あたかもそれが絶対的基準であるかのように論う。美意識というのが普遍的なように見えて実はかなり流行に影響されることはいろいろな歴史的な知見から伺うことができる。

 逆に他者にとってはどうでも良いことに悩んだり、劣等感を持つこともある。他の人にはほとんど気がつかないし、気づいても決して非難の対象とはなり得ないものに、異常に執着して動けなくなることがある。髪型の一部が少し崩れているとか、よく見ないと見つけられないほどの服のシミを気にしたりとか、自他の関心度の格差が大きい場合はこの種の問題につきあたる。気になっているのは自分だけであり、他者にとってはどうでもよいこと、というより思慮の枠組みにも入らないことがある。それでも本人にとっては一大事であり、それを乗り越えなくては何もできない。

 私たちの価値観というものが、実はかなり流動的であり、様々な変容をすることに気づくことが最近はとても増えている。でも、そうはいっても細かいこだわりからは解放されることはなく、相変わらず他者にとってはどうでもいいことに悩み、他人の良いところばかりに注目して尊敬したり、逆に劣等感を覚えたりする。その反対に対極から見ればそれほど変わらない他者に対して非難したり差別したりするもの一続きの現象と言えるのかもしれない。

 社会的な動物である人間にとって共時的な価値観に縛られることは仕方がない。他者のふるまいは羨ましいし、逆に疎ましくも憎らしくもある。勝手に定めた価値の物差しのどの位置にあるのか。自分と他者とを勝手にプロットして一喜一憂するのである。インターネットによる高度情報化社会ではそれがネットを通しての空想、妄想に肥大している。物事の良しあし、美醜、価値の有無といったものが、あたかも同時代人に共有されているかのような錯覚をしてしまうのだ。落ち着いて周囲を見れば、だれにでも共通の価値観などほんのわずかしかない。

 何に注目するのかは人によって異なる。注目した対象をどのように扱うのかも人によって違う。例えば日本人なら同じ価値観を共有しているというのはザルの目を粗くすればその通りだが、少しだけ細かくすると結果は全く違う。無理やり一緒だと思い連帯感を結ぶのは場面によっては大事だが、大抵の場合は息苦しさを生み出す。個々人の興味・関心、好き嫌いの好みなど、非常に複雑なグラデーションになっていることを忘れてはならない。

  

AIを道具にできるのか

 私のようにAIに関しては慎重な者でも、最近は使う機会が増えている。いわゆる壁打ちと呼ばれるアイデアの醸成に使うことがその一つだ。スマホのアプリでも簡単なことはできるので、相談役になってもらうことがある。どんなに浅はかな提案でも、非難することなく持ち上げてくれるのは、プログラム上のこととは分かっていても悪い気にはならない。私にそれと同じことはできない。嫌なことは言動にすぐに出てしまう。

 適当な(曖昧なという意味)プロンプトで指示すればそれなりの結果を返してくるのも人工知能の優れたことだ。ただ、いまのところ忖度のような非言語要素はできていない。言われたことをそのまま形にするのは恐ろしく得意だ。

 よく言われるように人工知能の言語処理は意味をよりどころとせず、形式を元に確率が高い組み合わせを瞬時に繰り出してくることと言える。人間の使う言葉も大半はこの確率論的な語の組み合わせで生活しているから、AIの回答は間違いではないと感じることが多い。ただ、やはり私たちは言葉を意味を基準として運用することが多く、用例的な確率とは異なる。私のような捻くれた人間は人の使わない表現を使うことを常に求めているから、人工知能的な言語活用に不適合になることが多い。

 それでも、これから先の社会において人工知能の効用を利用しない手は考えられない。今やっているのは、事実関係の事象が大半だが、そのうち心理的な問題もAIに尋ねることになるのだろう。その際にどんなに自分よりきれる能力を持っているように見えても、それは人外食作り出した道具だということを忘れないようにしたい。届かないものに対して杖が使われ、速く走るために靴が発達し、もっと速く移動するために車や飛行機が生まれた。手や足の代替である。今度は脳の代替が出てきたわけで、道具を使う人類の営みには変わりはないということになる。

ピークは過ぎても

 こんなこともできないのか。そういう叱責は幾度も受けてきた。できることのピークは人生のどこかにある。いまはやりたくてもできない。ただそれを認めたくないこら、無理をして結局敗北する。そんな悔しさを積み重ねた私のいま思うことを書いておこう。

 数年前、草野球に駆り出されて、自分の投げた球があまりにも相手の手前に落ちたことを嘆かしく思った。自分が思う身体能力と実際のそれとがはるかに乖離していると実感したのだ。小学生の時にソフトボールクラブに無理やり入れられて、外野手で、四番だった栄光がちらりと浮かぶが、体力の衰えはあまりに正直だ。

 ランニングでもそうだ。4、5年前までは何とか走れた。十数キロのジョギングを楽しむことができた。ほとんど何も装備せずにただ走るのが楽しみだった。それが時々膝に水が溜まることを言い訳にしてやめてしまった。いまは恐らく数キロでさえ走れない。やりたいと思っても、もしも故障したらという気持ちがまさってしまう。

 ピークは過ぎてもやれることは残っているのだろうか。むやみに走るのはいまのところやめておいた方がよさそうだ。変わりに何ができるだろう。例えば清掃ランニングはどうだろう。ジョギングコースに落ちているゴミを拾って持って帰る。ゴミがあるたびに休憩できるし、幾分かの社会貢献の気持ちも持てる。速く長く走れないならばこういうふうにシフトしてもいいのかもしれない。

 この歳になれば他人よりいい成績を求めるよりも、自分で満足できる何かをした方がいい。殆ど役には立たない状況でいまできる何かを探した方がよさそうだ。正直言っていまはかなり落ち込んでいる。やけくそになっているとも言える。ならば、その放埒を社会的にマイナスの方面に行かないように意識するのが肝要だろう。

 出し殻にもまだ使い道がある。そう思いたい。

枯れても負けない

 植木が枯れてしまう現象が続いている。残念だが、ベランダ園芸がうまくいない。おそらく熱心な人ならばこの猛暑でもなんとか乗り越えられておられるはずだ。私のようないい加減な園芸家は水やりや施肥を後回しにするために冒頭で述べた始末になる訳である。

 小さな鉢植えしかない我が花壇にとっては管理の技能がそのまま形になってしまう。園芸は小さな配慮がすべてに関わる。残念ながら無骨を越えて無配慮の私は全滅の失敗を何度も繰り返している。

 植物を育てることはもしかしたらとても大切なことかもしれない。小さな配慮を継続することは処世術の基本ではないか。皆さんにも植物を育てることをお勧めしたい。これだけで幾つかの社会問題が解決する気がする。枯れても負けない。次は枯らさないというマインドが必要だ。