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思い出すきっかけ

 全く他人であっても口調が似ていることによってふと故人を思い出すことがある。記憶を呼び覚ますきっかけは実にいろいろで、言葉の内容が違っても口調とか間の取り方とか息の吸い方などが引き金になることもあるようだ。

 偶然町で出会った人の話し方を聞いて昔お世話になった人を思い出した。その人はもう何年も前に他界されているというのに、そしてその人の話したことの大半は忘れたのにである。何気ない口調から過去の記憶が呼び覚まされる。よく考えてみれば声の質は少し違うし、年齢や風貌も違う。似ている部分がいくつかあればそれでいいのである。

 私たちが人をどのように認識しているのか。そしてどのように覚えているのかを考えてみたい。

模型飛行機

 こどものころ、プロペラをゴムで回す模型飛行機を作った。機体は木材と竹ひご、羽には和紙のような紙を貼った。最近は見かけないがそのころは普通にあった。竹ひごを羽の形に曲げるのがひと技、そこに羽の紙をきれいに張るのがその上の技であった。

 プロペラを手で巻いて飛ばすとうまくいったときは結構遠くまで飛んだ。ただ、機体の強度は極めて弱いので数回で壊れてしまうことが多かった。木に引っかかって取れなくなってしまったり、着陸したところが水たまりで機体が駄目になったり、いろいろなことがあった。

 ただ、出来合いのおもちゃよりは自分で作ったという思いがこの遊びを特別なものにした。今はこの種の飛行機のキットはどこで手に入るのだろうか。またこのはかないおもちゃに魅入られる子どもはいるのだろうか。

続けること

 同じことをいつまでも続けていることにはさまざまな評価がある。いつまでやっているんだとなればネガティブな謂であり、進展のない諦めのよくないものとしての位置づけだ。これはよく聞くことだし、何かと目先のことを変えようとする現代人の気風にも合致している。

 対してその継続性を賛美する評価の仕方もある。刻々と変化を続ける世界の中で同じことをし続けること自体が困難で、それを成し遂げていることは素晴らしいというものだ。自分なりの芸とか創作とか、表現法だとか、そういったものの持続には賛辞を送りたくなる。

 周囲が変わり、何よりも自分自身が変わっていく中で、いかにやりたいことを続けていくか。それがうつろいやすい世界の中では大切な課題のように思える。

現在も未来からみれば過去

 動画サイトを見ていたら自分が高校生の頃にみた風景が出てきた。その頃はビデオカメラを持っている人はわずかでよくも残してくれたと思う。懐かしさとともにいろいろな発見があった。

 現在の当たり前の光景もこれから何年か経てば古記録のようなものになるのかもしれない。特に最近は日々の変化が甚だしく、数年前のことでも大変化の末に分からなくなっている。

 過去の風景を懐かしむとともに現在も必ず過去になるという当たり前の事実を見つめ直したい。記録することの意味はそこにある。価値が出るか否かは未来ならないと分からないのだ。

秋植え球根

 いくつかの植木鉢に球根を植えてみた。チューリップにスイセン、クロッカスなどを少しずつ。この夏は本当に暑かったのでどうなるかと思っていたら、来週からは秋らしくなるという。北海道では雪も降り出すかもしれないというのだから、やはり今年も秋はコンパクトなものになるようだ。

 球根を植えるということは花期まで責任を持つということ。花に対する責任はもちろんだが、己の心身の健康を保つこともその目的なのだ。

幼馴染

 小学生の頃、転校ばかりしていた私はいわゆる幼馴染なる存在を作れなかった。人格形成ができる前から付き合っていた友人というものがない。中学生からは転校はなかったのでその当時からの友人は少しだけいる。都会の真ん中の学校であったのに、いやそうであったからこそ、当時と同じ場所に住み続けている人はほんの僅かでいまは行方知れずの人ばかりだ。かくいう私も中学の校区に行く機会はほとんどない。

 ごくまれにこの頃のことをふと思い出すことがある。他愛ないことが大半で、やけに詳細な記憶があるものとほとんど思い出せないことが入り混じっている。現今の中学生に比べるとはるかに純粋で幼かったと思う。携帯電話もソーシャルメディアもなかった時代は、対面での交流が唯一の手段であり、通学の途中の道端で話し込んだものだ。悩みや弱音の交換がほとんどでその内容は思い出せない。それほど遅くならずに解散していたのだから、大したことではなかったのだ。

 私にとっての幼馴染は中学時代のときの友人なのだろうが、いま交際を続けている者はほとんどいない。原因は私が行動を起こさないからだ。数々の同窓会の誘いをことごとく断ってきてしまったのである。懐古の情とともに、そこに立ち入ってしまったらいまの虚勢が崩れてしまうのではないかという形の知れない恐怖が出来するのである。

 これはある意味、内省を欠いて日々をやり過ごすという行為であり、致命的な自己崩壊を避けようとする虚しい抵抗なのである。ただ、これを続けることにより、自分の存在が益々分からなくなり、そこはかとない不安が充満してくる。張りぼての自己を日々作りながら、それが突如崩壊するときが来るのではないかと恐れているのである。

 自分の過去を知る人に会うことはもしかしたら大切なのかもしれない。何よりも自分自身が見失った自分の姿を思い出させてくれるのは彼らかもしれないのだ。この歳になっても過去の友人たちに会うことに躊躇しているのは我ながら滑稽だ。ときには思い切って過去の世界に浸ってみるのもいいかもしれない。

つまずき

 小さなつまずきは誰にでもある。ちょっとした凹凸を予測できなかったり、何か他のものに気を取られていて意識が別のところにあったりした場合に起きやすい。物理的なことだけではなく、精神的なつまずきもまた不意に起きる。

 つまずいたことをなんとも思わないことがこれまでは多かった。よくあることとすぐに忘れられた。それが特定の状況下においてはうまくいかないこともある。いつまでも気になって、さまざまな自己嫌悪にぶつかる。本当はただバランスを崩しただけなのに。あたかも致命的な転倒をしたかのように感じられることがある。こうなると萎縮してつぎの一歩が踏み出せなくなることもある。

 失敗は成功の素とは分かっていても気分というものは簡単には切り替わらない。ネガティブな感情に囚われているときは、些細なことであっても重大事に感じてしまうものである。

 職業柄、人を励ます機会は多いが自分のこととなるとまるで思い通りにならない。落ち込むとなかなか抜け出せなくなる。誰かに相談すればいいのだが、そういう相手がいない。弱みを見せられず誤魔化してしまう私の習性もよくない。

 歳を重ねて少しだけ身についたのは、行き詰まったら一度その件については思考停止をしてしまうのがいい。いつか状況を俯瞰できるときがくるものだ。本を読むように自分の置かれていた状況を自分の外側に置けるまで待てばいいのだろう。さすれば答えが見えてくることもある。その中に諦めるという選択肢も含まれるのだが。

 つまずいたときはまずは、その事実から距離を置き、しばらくしてから次のことを考える方がいい。それが若い人たちに伝えたいことなのだ。

第一印象

 初めて接したモノやコトに対して抱いた印象は大切にするべきだと考える。それが結果的に思い違いであったとしても、そのときどのように感じたのかを覚えておくことには意味がある。それは対象の評価というより、自分自身が対象とどのように関係したのかを示すことになる。

 個人的な経験では、第一印象がそのまま対象の評価に結びつくことはあまり多くない。大抵はその後の展開で大きな価値観の変更を迫られる。その後に形成されたイメージが対象に対する考え方を形成する。

 ならば第一印象は無意味なのかと言えばそれは違うといいたい。さまざまな条件を配慮せずにこうだと思ったというイメージは時にはその本質を考える材料となる。理屈ではない何かが大切なのだ。

 ただ、この第一印象は極めて短命で風化しやすい。さまざまな要因で変化しやすい性質を持っている。そして、それがいかに衝撃的なものであれ、すぐに新しい印象に上書きされてしまう。だから、そのときどう見てどう考えたのかはかなり意識的に記憶しなくては残らない。そのためにも未完成の評価を記録する方法があればと考えている。

楽器の仕組み

 音楽を奏でる道具である楽器の種類は数しれない。オーケストラでよく使われる楽器だけでもかなりの種類がある。私は個人的にギターやウクレレなどを弾くことがあるが、同じ名前の楽器の中でもかなりのバリエーションがある。

 楽器の仕組みが表現の幅を大抵決めてしまう。喜びの歌か、悲歌というべきものなのかは、演奏の直前に決まる。その楽器の表現できる幅が表現の仕方を規定しているといえる。もちろん、奏者の技巧によってその幅は大きく変わるのだが、そしてその技巧こそが芸術の核なのだが、大枠を決めているのは楽器の構造である。

 私はギターやウクレレを下手ながら時々演奏する。この2つは起源をともにし、奏法も似ているのでほとんど何も学ばずに両方の演奏が可能だ。だが、これらの楽器にはそれぞれの持ち分のようなものがあって、音色とか響きというものは独自のものがある。

 楽器が異なれば出せる音が異なる。その持ち味をそれにふさわしい楽曲で活かすのが音楽なのだ。これは楽器だけの話ではないだろう。

直接体験がものを言う

手触りは特別な感覚である。直接触れるということ自体が貴重であり、その場にいるという事実が大切になってきていると言える。

ネットで検索すれば、最近はAIが期待する答えを先回りして答えてくれる。大変便利ではあるが、あくまでも機械がやってくれることなので、達成感は得られにくい。それ以上の知的欲求を喚起されないのだ。どうもこの欠落は情報の知識化を妨げるようだ。

これからの時代にはどれだけ直接的な体験を積んできたのか、それに関わる別の事象を類推できるのかという能力が大事になるかもしれない。経験から培われた感性が判断力を形成する。人工知能にプロンプトを送る際に必要なのはテクニックだけではない。

体験が大切というとこれにもさまざまな問題が指摘される。経験を積めるだけの余裕がある者とそうでない者との格差が出てしまうからだ。豪華な旅行に何度も行ける人とそもそも労働以外の時間がない人では差が出てしまう。

大切なのは経験の表面的な差ではなく、その中から何を感じとるかなのだろう。日常の中からもそれは可能だが、感じたことを言葉にし、記憶に止める力は教育によって獲得できるはずだ。