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動画講座

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 このところ睡眠の儀式として環境音楽のようなものを聴いていたのだが、思い立って大学講座を聴くようにしてみた。なるべく専門から遠いものがいいということで宇宙論や、進化論に関する講座を聴いている。

 各大学が公開講座の記録などをYouTubeに残しているので、これをキューに追加しておいて順番に視聴する。といっても正確には音声しか聴かず、画面は閉じてしまっている。これをイヤホンで聴きながら寝るのだ。講師の先生には悪いが寝るのには適している。単調なお話をする人は特に眠りにはつきやすい。突然場違いなCMが流れるのには閉口する。

 不真面目な受講者だが、いつの間にか身についてしまった知識もある。進化論では地球に降り注ぐ宇宙線の量が問題にされるようだ。放射線を含む有害な宇宙線を普段は磁気のバリアが防ぐが、さまざまな要因でこの障壁が破られたとき、生命の遺伝子に影響し、突然変異を起こしやすくするというのだ。この理論が正しいのかどうかは分からないが、寝ながら何度か聞いたのでそういう意見があるということは分かった。

 不謹慎な受講者は今日も寝るために聴講をすることにする。全くアカデミックではないが、酒を飲んで寝るより健康的ではある。

ゴミの片づけ

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 今回のFIFAワールドカップでも日本人観客の清掃ボランティアが話題になり、賞賛されているという。この話は各種の国際大会があるたびにでるから、一種の伝統となりつつある。このこと自体は世界に誇るべきことなのかもしれない。

 一方、国家としての廃棄物の量という点において日本はかなり問題がある。狭い国土に多くの人口を抱える日本ではごみ処理問題は重大だが、償却か埋め立て、そして聞くところによれば海外業者へ委託して不法投棄をしているとも聞く。これは世界に恥じるべき行為だ。

 最近はコンビニのレジ袋を受け取るのをやめたり、簡易な包装で済ませようとする動きがある。その点では少しずつ意識は高まっているようだ。ただ、大量に出続けるプラスティックのリサイクルがあまり進んでいないことや、食品の投棄など知られたくない問題がいくつもある。

 ごみを片づける公共精神のある日本人故いつかは皆の福祉に役立つ方法を世界に広めてくれるだろう。そう期待するしかない。と言いながら、昨日はたくさんのペットボトルを買ってしまった。せめてリサイクルに出すことにしよう。

口舌の徒

 不透明な時代になったせいか、様々な言説が飛び交い、真偽の程も定かにならない。おまけにソーシャルメディアなどで気楽に言いたいことが言える状況にあっては珍奇な意見も少なくない。中には明らかに収益目的で動いている輩もある。その中でいかに正気を保てるだろうか。

 いわゆる口舌の徒はかつてなら相手にされなかったはずだ。ところが、気の利いたことさえ言えば認められ、中にはそれに従ってしまう人が出るのが現実だ。発言者も一時的な注目を集めることだけしか考えていないので責任感がほぼない。問い質すときっとこう答えるだろう。誰が私の発言が真実だなんて言いましたか。その時考えていたことにすぎませんよ、などと。

 無責任さはすぐに色々な人に伝染する。言ってみただけという言い訳は簡単に成り立つからだ。口に出したことは実現するか、せめてそうしたいと心底考えることが必要だ。自分はやりたくないのに、他者に強要したり、自分はやっているのに他人の行動に厳しかったりするのは尊敬できる態度ではない。

 ならば、聞き手の側の態度をいかにすべきなのか。まずはメディアリテラシーをしっかりとさせることだ。また二三の説で判断しないのも大事だ。目についた分かりやすい考えだけでそれが通説と誤らないことだと思う。

 複雑であればあるほどその判断も難しい。ただ間違っても自ら考えたということが大切なのだ。この過程を忘れると私たちは何者かに支配されてしまうはずだ。

 

治癒

 ホメオスタシスという言葉に慰められている。体調が悪いときはひたすら休むしかない。薬はあくまで補助的なもので、身体自体が健康を取り戻すために戦ってくれるのだ。

 風を引いたり、腹を壊したり、そういう病には何度も直面してきた。それでも数日後には回復が始まり、10日もすればほぼ元通りになる。これは身体がもつ平衡保持能力の為せる技である。

 生き物の仕組みとしての能力に驚かされる。いまはその進化の過程で獲得された能力を感謝しよう。

ギアチェンジ

 今朝の天気は明らかに冬の様相だ。重い曇天に町が覆われている。マイナーの音楽が流れそうな雰囲気だ。季節がここで大きくギアチェンジしたことが感じられる。体調が思わしくない。倦怠感などはないが、多少気になる。今日は大人しく過ごして切り抜けよう。

自己暗示

 色々な本に書かれていたり、スポーツの選手やコーチが言う言葉に自己暗示の大切さがある。苦しいときこそ笑顔を作れ、作り笑いが本当の幸せをもたらすことがあるというのだ。

 最近はこれを精神論ではなく脳科学の観点から説明する人もいる。ポジティブな行動をすると脳が活性化し、上手くいくことが多いのだという。かつては歯を食いしばって頑張れと言っていた野球の監督が、いまは無理にでも笑えという。事実優勝するチームの多くはチームに明るい雰囲気がある。

 自己暗示とは自分を意図的に騙すことに他ならない。そしてどうも人間は騙されやすいらしい。自己暗示は効果的に使うべきだ。また教育おいてはほどよい自己暗示の方法を教えるべきなのだろう。

非現実的現実

 私たちが生きている世界は限りなく偶然の積み重ねでカオスなもののはずだ。同じことは二度と起きない。同じものには二度とめぐりあえない。それなのに、この現実を巧みに忘れる方法を知っている。

 二度とない現実をあたかも繰り返しのように考えることができるのは、一つの叡智である。尖っている詳細を削り落として、別のものを同じものとしてしまう。それを無意識で行えるのは進化の過程で獲得した生きるための戦略なのだろう。

 適度な鈍さは大事だ。あまりにも先鋭化すると不自由でたまらなくなる。いい加減は無責任ではなく、変化の多い毎日を生きるためのスキルなのだろう。

相づち

What’s up?

 一見意味のない相づちがある。うんとかああとか、そうだねとか。私はそういうのが苦手で随分相手を不快にすることがある。

 What’s up? もその類という。疑問の形を取っているが答えなくてもよく、鸚鵡返しに言うことも許される。もっとも軽い安否の確認の方法で、存在を意識させることだけで事足りるらしい。やあとかよっとか、そんなものに近いという。

 意味がないわけではない。人間関係の始まりを意識させるきっかけであり、自他を認めることの重要な役目だ。私がこれが苦手なのは、いまだに適度な人間関係における距離感が掴めていないからだろう。

 相づちは適当な量がある。やたらと打てばいいというわけでもない。多すぎるとかえって無理に聞いているような雰囲気を相手に与えてしまうそうだ。確かに聞きたくない話を遮るための相づちはある。もういいです。分かりましたと言わんばかりに首を振るのも同じ効果がある。

 相づちは重要なコミュニケーションの手段であるのにも関わらず、誰かに教えられるということはない。経験の中で適度な方法と量を獲得していく。リアルな人間関係を築く機会が減った世代はどのように相づちを覚えるのだろう。まさか安易にいいね! と言って、大きな誤解を生み出してはいないだろうか。

睡眠儀式

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 最近は疲労度が大きいのに眠れないときが多い。いびきをかいてしまうなどの眠りの質も問題だ。ここ数か月、私が心がけている睡眠儀式が「眠れる音楽」を聴くことである。

 YouTubeには睡眠導入の音楽と称するものがたくさんある。何分で眠れるという題名のものもあって面白い。ただ、ほとんどが数時間の尺をもっており、中には12時間近い長さのものもある。これは一晩中流していてもいいということなのだろう。

 私の場合はこうしたチャンネルから適当な音楽を流し、パソコンの蓋を閉じてイヤホンで聴く。横になってイヤホンから流れている単調な音楽を聴いているうちに眠れるというわけである。寝た後は耳からイヤホンが自然にはずれるので音楽に起こされる心配はない。

 これが私の睡眠儀式である。かつては飲酒などで無理やり寝たが、浅い眠りになり疲労回復にはならない。音楽療法(?)の方が私には向いている。今日もまもなく睡眠の時間だ。イヤホンの音量を微弱にして聴き入ることにしよう。

 

悲愴ソナタ

 ベートーヴェンのピアノソナタ第8番悲愴を最近よく聞き直している。第2楽章の甘美なメロディは特に有名だ。カンタービレの指示があるように演奏者の個性が出やすくそれも興味深い。

 音楽史的には激動の時代を生きたベートーヴェンの精神的な側面が反映されているという。悲愴というタイトルだが、なぜか力を感じるところもある。悲嘆に打ちひしがれるような状況の中にあってなんとか立ち直ろうとする人間の強さも表現されている。

 最近この音楽が心にしみるようになったのはやはり、周囲の状況があまりにも難しく、漠然とした不安が横溢しているからだろう。逆風をまともに受けながらそれでも前に進む姿をこの楽曲に幻想しようとする自分がいる。