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あのひとは今

 よくある企画にあの時活躍していたあの人は今というものがある、YouTubeでそういう画像を図らずも見てしまった。その多くは私が子供のころに活躍していた俳優の話なのだが、彼らの中には自分の年齢に近いころに亡くなっている人が多いことが分かった。自分の年齢を他人の享年と比べることが深刻な問題として認識されたということである。平たく言うと老いの焦りの発動である。

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 昔は漠然と自分は何歳くらいで死ぬのかもしれないと考えていた。根拠のない運命論である。しかし、勝手に考えた寿命を超えてまだ生きており、ありがたいことに意志もしっかりしている。非常に漠然とであるが、自分は余生を生きているのではないかと考えることが多かった。

 生物学的な見地によれば人間の自然界における平均寿命は38歳くらいだという。DNAの解析からその情報が読み取れるというのだ。それを人為的に引き延ばしている。この研究によれば、ホッキョククジラは268年もの寿命を持ち、絶滅したマンモスは約60年であったという。これより以前、動物のサイズが寿命と相関するという論を本川達男氏の著書で学んだことがある。この書によれば日本人サイズの生物の場合寿命はさらに小さく26歳あまりである。いずれにしても現生人類は生物的には非常に「不自然な」毎日を送っているということになる。

 最初の話に戻るが自分の年齢かそれ以下で有名人や知人が多く亡くなっていたとしても極めて「自然」なことなのだということになる。むしろ今自分が生きている方が奇跡というものなのだ。そう考えるとあまり気負うことはない。もはや余生なのだから、やりたいことをやるべきだし、若い世代のためにできることをするべきだと考えられる。私も今日死んだとしてももはや天寿は全うしつくしている。焦ることはないのだ。そう思い直すことにした。

なるべく黙る

 来年度の教室での目標はなるべく黙ることである。教えずに教える方法を完成したい。

 私の勤務校は模試などの成績の結果に拘る悪しき習慣から抜け出せずにいる。その結果、教え過ぎ自主性が育たない。言われたことはやるがそれ以上にはならない。日本の大学入試がこの言われたことを無批判にやることしか求めないから、これでなんとかなってしまう。結果にコミットするというならば正解に思えるが、私としてはかなり不安だ。将来淘汰されるエリートを輩出していないかと。

 大切なのは自ら学ぶ力だろう。これには人さまざまのやり方がある。それを一つの方法に括るのは間違っている。例えばたくさん宿題を出せば教員は安心だ。やれば成果がでる可能性があるからだ。しかし、無理矢理やらされた生徒はこれを短期記憶で片付ける。だから何も残らない。

 自分で考え、それを他の生徒に説明する機会を意図的に作るのが私の仕事になる。自分の言葉で説明することが真の知識獲得の方法なのだ。

 わたし自身は大学生までは教員の話をひたすら覚えることが学習だと思いこんできた。試験にもその通りのものが出るからだ。しかし、多くの学習内容はテストが終わると忘れてしまう。目的がテストで得点することでそれ以上でもそれ以下でもなかったからだろう。

 真の知識を形成するのは効率が悪い。時間も手間もかかる。でもそれがこれからの教員の役割だ。手間のかかる方法を考え、それに付き合うことだ。時間はかかるし結果が出るのには長期的展望がいる。でもやってみようと考えている。そのためには教え過ぎないことだ。

期待感

 期待感を抱きやすいのがこの季節である。年度の変り目と言うのが大きいが、花開き水温むという自然の移ろいも関係している。

 根拠のない思いだと言われればそれまでだが、人は気持ちで動くものであって、やはりそういう感覚は大切なのだ。私たちには考えたことをどこがで実現させようとする深層心理があるのかもしれない。

 ならば自他に期待感をもたせるのは世のためにも自分のためにもなる。冬は終わった。素晴らしい春になる。これだけでもいい。そのように思い、発言することでほんの少し何かを変えることができる。

 

どこから始めるのか

 同じような日常の繰り返しでも見方を変えればまったく違った印象になる。どこから始めるのかほ大きな問題の一つだ。

 成長期に何かを始めれば大抵のことは成功し、小さな傷も気にならない。その後に訪れる収穫を待つだけでいい。ところが衰退期に加わったなら、全く違う展開になる。大抵のことは、失敗し、それが破滅の道のように感じるものだ。これはどうしようならない。流れというものだ。

 どこから始めるのかほ自分では選べない。たまたまドアを開くとすでに芝居は始まっている。そこで展開するのが喜劇なのか悲劇なのかは分からない。

 考え方を変えるほかあるまい。衰退ほ長くは続かないかもしれない。流れが変わる可能性もある。万一、このまま下がり続けても、下り道ならではのおもしろい風景もあるはずだ。

 どこから始めるのかは選べないが、それをどのように受け取るのかは自分次第なのかもしれない。

見た目レトロ

 松本零士作品の代表作、銀河鉄道999は蒸気機関車のような姿をしながら、実は驚くべき高性能という設定である。宇宙戦艦ヤマトは発進時に最新兵器としての姿を現すが、銀河鉄道の方は、宇宙空間でも煙を吐きながら進む。これには過去の風景を未来に描くというロマンが表現されている。

 この感性は尊重されていい。最新の機能を持ちながら実は最新鋭というスタイルには憧れる。例えば、昭和世代では懐かしいサニーや2000GTの形なのに実は電気自動車だったり燃料電池対応だったりする車があれば魅力的だろう。最新型なのになぜか窓ガラスはハンドルで回して開けるというのもいい。誰か造ってくれないだろうか。

 人間もそうでありたい。見た目はくたびれた老人であっても実は最先端の技能を持っている。感性も新鮮だ。しかもそれを奢ることなく、謙虚な行き方をしている。そういう人は憧れである。見た目はレトロ、実は最新型というものに憧れる。また、そういうタイプの人になりたい。

感じ取るもの

 とても残念ではあるが、歳を重ねると感受性の感度が落ちる。これは自己防衛の方法として獲得してきたものだ。いちいち細かいことに感じ入ってしまうと先に進めない。その結果不利益になることもある。世の中そういうものという割り切りが、日常を過ごすためには必要である。

 ただ、これも度を過ぎると新しい事態に対応できなくなる。過去の事例と結びつけて分類に落とし込むと、新芽の存在を見逃してしまう。これが老年の問題点だ。見逃すことが続くと結局過去の世界で生きることになる。現実は毎日変わるのでだんだん追いつけなくなる。

 これを防ぐにはどうすればいいだろう。今起きていることや、若い世代の考え方に触れる機会を意図的に作るしかあるまい。かといって若者の輪に加わることは難しい。世代を超えたサークルのようなものに加入している人はそれができるかもしれないが多くの場合は不可能だ。

 ならばせめて若い世代の支持を集めている文化現象に触れてみるのがいい。音楽やファッションの世界にも興味を持とう。漫画や小説も少しは読むといい。おそらくその多くは性に合わないはずだがそれでも日常とは異なる体験ができる。それが感性の老化を緩やかにするのなら、それもいいではないか。

 実はこの話、若者に対して行う先輩の価値観を知ろうというメッセージの裏返しとして考えた。

高温予想

 週間天気予報によると、3月7日(火)以降は最高気温が20℃近くの日が続き、最低気温も10℃を超える日がありそうだという。この時期としてはかなり気温が高く、桜の開花が早まる可能性もあるという。暖かくなるのはよいのだが、季節には段取りがあり、それなりの意味があるはずだ。春が駆け足になることを手放しでは喜べない。

 日本気象協会の予報では東京のソメイヨシノの開花は3月18日ということだ。とても4月まで花は持たない。少し前、温暖化の影響で桜は3月に咲くようになるということが科学ニュース扱いで取り上げられ、まさかそんなことはあるまいという感想を持ったものだが、すでに現実になっている。近隣の桜祭りが花期に間に合いそうもないため中止するというニュースがあった。祭りなら残念で済むが、生活に関するものになると静観できない。

 まずは体調を崩さないようにすることが私の課題だ。ここ数年春先に弱い。気をつけなくては。

教え合い

 コロナの影響で遠慮していた授業の方法に話し合いやいわゆるペアワークがある。これは、実は効果的な方法なので封じ手が解禁されることはとても嬉しい。

 私たちが何かを学ぶとき、最終的な目標は自分の言葉で表現できることだ。それを実現するためには結局は学んだことを他人に説明することが一番であると考える。教員が知識を伝達することは効率がよさそうに見えて実は中長期的には効果が出ないことがある。大量の知識を暗記して吐き出すことはすでに機械が行う分野であり、いま必要なのは自分の知識とすることだ。これは古典教育でも同じである。単なる知識の短期的な保管の作業はあまり意味がない。

 教え合いを授業の中で実践するにはどうすればいいのだろう。自由にやってくれでは質的な保証ができない。かといって教員がすべてのグループに入ることも無理だろう。ならば、生徒同士での学び方、教え方に工夫をするしかあるまい。

 例えば短い古文(日本の古典文学)を学ぶとき、グループごとに何文かを割り当てて教員の代わりに授業してもらうのはどうだろう。必ず二つのグループに指名し、そのうちのどちらかに発表させ、どちらかにコメンテーター役をしてもらう。そして生徒の説明が一通り終わったら、必要事項や訂正事項があれば教員が補足する。この方法では読解はあまり進まないが、そもそも全文を細かく訳す必要はない。授業でできなかったところはプリントか何かで配布すればいいことだ。

 発表するにあたってグループ内で教え合いは自然に生まれるはずだ。苦手な生徒はそこで方法を学ぶし、特異な生徒は人に教えることでより知識が確定する。こういう方法をとると面白いかもしれない。いずれにしてもこれは教員にかなりの覚悟がいる。自分が教えた方がはるかに早く効率的に授業が進められるのに、生徒の作業を見守らなくてはならないからだ。

 ただこの方が身になる知識になることは確かだろう。すべての授業で行うことは無理でも、大半の授業をこの形態にしてみようと考えている。私は見守り役だ。そして、やがて自分より優秀な学習者に育つのを発見することになるはずだ。

相手にしないことは攻撃の一つ

 悪意のある相手がいる場合、現実社会ではそれを察することがある程度はできる。そして、そういう相手にはあえて近づかない。どうしても接しなくてはならない場合は最低限のコミュニケーションで済ませようとする。これは逃げではなく正当な方法だ。

 ところがこれがネット上になると誤解が生じる。悪意のある者は素知らぬふりをして近づき、いきなり暴言を浴びせる。彼らの目的は人を傷つけることによる自己確認だから、発言には大抵の場合、相手を動揺させることが第一の目的で、責任は伴わない。反論でもしようものなら嬉しくなってさらなる悪意をぶつけてくるものだ。

 こういう相手にモラルやルールを説いてもほとんど意味がない。彼らは相手にしてもらうことが目的であり、それが生甲斐である。彼らにとってもっとも辛いのは誰にも相手にされないことなのだろう。

 だからネット上の悪意は無視の一択だ。これは決して逃げではなく、自分が悪意ある者にくだす鉄槌である。そしてサイレントマジョリティーはその悪意あるものに批難のまなざしを向けていることを、場合によっては哀れみさえ覚えていることを知るべきだ。

 Z世代はことにこのことが苦手と聞く。あなたの考えるほど世界は単純ではない。

小型メモ

 最近は1番小さなサイズのリングメモ帳を持ち歩くことにしている。自分の記憶力にまったく自信かないからである。フリクションペンとともに持ち歩きメモを取る。細かいことは書けないが思い出すきっかけだけでも書いておくといった感じだ。

 と言ってもどの店で何を食べたかとか、下手な短歌の草稿、そしてこのブログのネタになりそうなことばかり書いている。ほとんど有益ではない。

 ただ、メモを取る習慣をつけておくことが大事だという偉い先生の言説を信じているばかりである。困ったことにこのメモをしょっちゅうなくす。スマホのメモは書いたことを忘れてしまう。困ったことである。