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パラダイムシフト

 今まで当たり前だったことを変更しなくてはならないときに私たちはしばしば混乱する。しかし、あまりに日常をそのまま受け入れていると変化に耐えられなくなる。だから、変化を敢えて作らなくてはならないことが人生の中にはあるのかもしれない。

 少し生き方を変えてみようと考えている。自分の今の状況に合った生き方をしてみたい。そのためには切り捨てなくてはならないこともあるし、新たに始めなくてはならないこともある。もちろんそのためにはやらなくてはならないことがある。最低限の生活保障を確保しなくてはならない。でも今と同じ生活を継続するために無駄な出費をすることは避けよう。実は公共施設の利用で代用できることはいくらでもあり、その利用が自分だけではなく、社会のためにもなるということもある。

 あまりにも都市型資本主義に無反省に従ってきたことを少しやめてみようかと考えている。どうすれば自活力が生まれるのか。それを根本的に考え直してみたい。

今日から5月

 今日から5月だ。新年度の始まりはいろいろあったが何とか切り抜けられた。反省点が多数あるので、その修正から始めたい。

 少し余裕ができたのでその時間を活かすことにする。まずは時短のために様々な策を練ることだ。雑用は切り捨て、やるべきことに集中しよう。また、時間が来たら途中でも止める勇気を持つことにする。

 今更だがいわゆるリスキリングも試みたい。取りあえずは英語とネット関連の学習は細々と続ける。資格を取得するわけではないのだが、一定の成果が出るように時々自己評価する。このブログにも書くことがあるだろうが、老の足掻きと見逃していただきたい。

 5月は昔から精神が不安定になりやすい季節だと言われている。そのためにも少し多めの目標を立てて悩む暇を消していくことにしよう。

思い込みはどこにでもある

 先入観を持って物事を見るのはよくないことである。それは確かだ。でも、まったく先入観のない状態などありえない。私たちは物事を見るときになにがしかのフレームを持っていなくては安心できない。何もない状態で世界を見ることはあまりにもワイルドだ。過酷な状態に身をさらし続けると、披露困憊して十分な行動ができない。

 これはこういうものだという把握を思い込みとみなすのか、掌握のための手段とみなすのかで評価は大きく変わる。思い込みは良くない、でもある程度の固定概念は日常を切り抜けるためには欠かせない。この区別を上手くできないと話は極論になってしまう。思い込みは良くないとだけ言う人はこの点を考えなくてはならない。

 それでは先入観を極力なくし、なおかつ日常生活を成立させるのにはどうすればいいのだろう。まずは自分が無力であることを自覚することが必要なのだろう。自分の価値観が世界の価値観と近いと考えてはならない。自分は世の中の常識と言われている広い分布範囲の周辺部分にいる一つの点に過ぎないことを考えるべきだ。そして、それは私だけではなく、ほとんどの個人は同じ立場なのだ。

 常識とか多数派とかそういう幻想は捨てなくてはならない。私たちは個々人のできる範囲のことしかできない。それを他人から見た粗密の尺度に照らし合わせても得られることは少ない、自分の行動はあくまでも多くある事例の一つであり、それが集団の真ん中にあるのか周辺部にあるのかなどだれにも分からない。

 思い込みをなくし、消化できていないことを冷静に考察し始めることが大切だ。これはこれからの人生観に直結する。人生を豊かにするためにはある程度知らないことは多いほうがいい、

雨の一日

 一日中雨が続く日だった。しとしとと長く続く雨だ。お陰で新緑はきれいに洗われた。

 予報によると明日はきれいに晴れて金曜日までは気温もかなり上がるという。初夏いうより夏そのものの陽気になるらしい。ジェットコースターのような天気だ。

 振り回されることへの耐性が年々弱くなっている気がするので、ここは慎重に構えることにする。無理はしない。限られた時間で最高のパフォーマンスをすることを目指そう。

メモ帳で諦めることを避ける

 最近、ちょっとした記憶の保持力が低下している。対策として何か別の仕事を始める前にメモを残すようにし始めた。しかし、しばしばこれを忘れてしまう。習慣になるまでには積み重ねがいる。

 今やっていることを簡単にメモする。キーワードでも箇条書きでもいい。重要度は考えないで書く。これが衰えた短期記憶の補助になる。

 このメモは手書きがいい。だから私はすべての上着とカバンにペンとメモ帳を携帯することにした。いくつもメモ帳があるのは変だが、目的がかようなものであるから別に構わない。

 衰えた者にはそれなりの戦い方がある。もう少しやってみることにしたい。

常識という思考停止

 言わなくても分かるとは思わない方がいい。世の中はむしろ言っても分からないという場合の方が遥かに多い。自分の価値観が汎用的なものではないことは、よく考えれば当たり前だが、大抵その事実を忘れてしまう。

 日本人は騙されやすいそうだが、他人に騙されるだけではなく、自分を自分で騙してしまうことも多いのではないか。私が思うことは常識であり、他者は必ず同意してくれるはずだ。分からないのは相手が非常識だからだと。そんなふうに考え思考停止に陥る。

 まずは自分の思いは完全には伝わらないことを前提に考えることを確認するべきだ。自分とは異なる価値観を持った他者がいるから世界は面白いのだと考えるべきなのである。常識という思考停止に陥らないようにしたい。これはほとんど自戒である。

周囲が気になるときは

 自分が周囲からどのように見られているのか気になるときがある。ちょっとしたことでも気になってしかたがなくて身動きができなくなる。一方で傍若無人に振る舞えることもある。

 周りの人は実はそれほど自分には関心はない。試しに今日電車の隣の席に座った人を思い出せるだろうか。恐らくどんな服を着ていたかさえ分からないだろう。他人の関心など本当は気にする必要はないのかもしれない。

 周囲の目が気になるときは、心の中で自分の存在が実態以上に大きくなっている。誰からも注目されているように感じてしまっているのだ。そういうときは少し自分から遠ざかる必要がある。自分を俯瞰できるといいのだが、そう簡単にはいかない。

 一つには広い風景が見える場所に身を置く方法がある。実は自分は世界の中では小さな存在であり、自分と同じような人は他にもいるということを実感するのだ。

 他には知らない誰かと話すことがある。自分のことを知らない人と話せれば、自分の存在が他人からどう見られているのかなど気にならない。何しろ知らないのだから。そういう人を探すことが難しい。こういう場を作るのが悩める人を救う方法なのだろう。

 小説や映画を楽しむのもいい。作品の世界を除くことは合せ鏡で自分を見つめることにつながる。作品を挟んで自分を少し遠くから見ることができるだろう。

 私もしばしば自分の姿を錯覚する。後で考えるとどうしてあんなに悩んだのかと思う。そのときに思い出したい。自分の思う自分は等身大なのだろうかと。

今日から三月

今日から三月である。私の仕事にとっては年度末のいろいろある時期で無難に乗り切りたいとばかり思う。切れ目節目の時でもあり、私としても今年度で終わる小さなことを仕上げ、次に続く何かを模索していかなくてはならない。やるべきことを書き出して、優先順位をつけてと、毎年やることを今年も始めよう。今年は少々緊張感をもって。

物質的な視点

 科学の本を読んだ後は私たちが見ているものは自然現象の一過程に過ぎないと考えてしまう。いろいろな現象が重なり合って私が感じる現実が形成され、その印象から概念が形成される。こういう思考方法では、私たちの見ている世界は極めて物質的な偶然性の産物ということになる。

 それにしては私たちの経験は多種多様であり、そこに法則性は見いだせないような気がする。ある現象と、別の現象の間に因果関係があるといえばあるが、ないともいえる。それが私の考える実感である。物質的な観点に立てば、私が見ている様々な現象は本質的には一つにつながっていることになる。そうは見えないけれど。

 すべての物事が統一的な世界の中に含まれるという考えは、むしろ宗教に近い。物理学者は宗教の対局のようでありながら、実は最も宗教的な考えを持つ。私はその深みには全く近づけないが、自分の実感というものがどこまで自分のものなのかという素朴な疑問を繰り返している。

無駄な時間

 時間を節約するためには無駄な時間を書き出し、時間を可視化して自覚することから始めようといった内容のネット記事を読んだ。至極正論である。ただ、無駄な時間とは何なのかと問い直すと少々怪しくなる。

 仕事をこなす上で、直接労働にかかわらなかった時間を無駄な時間と定義するならばわかる気がするが、ならば仕事をしている時間だけを集めればその人の効率は上がるのだろうか。大いに疑問である。この考え方は明らかに人間を機械に置き換えている。スイッチの切り替えで仕事ができたりできなかったりすると考えるのは無理がある。

 無駄な時間と思われるものが実は何かを行う上では重要であつたりする。なにもしないことによって、次にできることが現れることもある。極めて乱暴な言い方だが時間に無駄を感じること自体、時間をうまく使っていないことになる。

 私たちが過ごす時間のすべてには何らかの意味がある。それをどのように活かすことができるか。それが本当の時間管理というものだろう。