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窮すれば通ず

 中国の四書五経の一つ「易経」に「窮すれば転ず、転ずれば通ず」と読める一説があるという。困難な状況に陥ると、かえってそこに打開策が見つかり、新局面が現れる可能性があるということらしい。楽天的な考え方だが、今の私にとっては頼もしい金言だ。

 いろいろな意味でこれまでの経験が生かせず、新しい事態に対処できなくなっている。しかし、こういう難局こそが自分の生き方を変え、新しい方向性を拓く可能性を生み出すといえるのであろう。成功体験を積み重ねているうちは、次の選択肢が見当たらない。目に入らないといった方がいい。それが手詰まりが起きるとやらなくてはならないことが出来し、それが現状打破につながるのだろう。

 窮する前の段階として「貧すれば鈍する」というのがある。生活苦は人間の正確な判断を失わせ、時に誤った行動に走らせる。そこで自他に大きな損害をもたらしてしまうことがある。そうならないことに気を付け、窮する段階までもっていかなくては通ず状態にはならないのだろう。中国の古典は現代社会を生きる上での生活の知恵になり得るものがある。

悪意なき中傷

 自分自身への反省として書く。悪意がないのに人を傷つけてしまったことが何度もある。たとえば話の流れで特定の年齢や立場の人のことを悪くいってしまったことがある。言ってしまった後にそれに気づいてもどうしようもない。大変申し訳ない思いになる。

 それならばまだいいが、より深刻なのは誰かを傷つけたことを自覚できないときだ。悪意がないのだからそれは罪ではないともいえるのかもしれない。しかし、言われたほうの立場を慮るにそれでは済まされない気がする。そんなことを気にしていたら何も言えなくなるという声も聞こえてくるが本当にそれでいいのだろうか。

 最近自分が年配者になり、若い人の発言を聞いているとしばしば加齢に対する衰えを嘆いたり、あるいはできることができない人に対して一概に非難したりすることを聞く。彼らには悪意はないし、特定の人に向けて発言しているのではないことは明らかだ。しかし、例えば私のような年齢の人がいる前でそれを口に出してしまったり、相槌をうって談笑するのはやはり配慮が足りないというしかないのではないか。

 最初に述べたように私も先輩のいる前で高齢者の批判をしたり、能力の衰えを揶揄する一般論を展開したことがある。もちろん、その先輩は微笑んでいて特に不快な様子はなかったが、果たして本心はどうだったのだろう。私は今自分がその立場になって過去の自分の軽率な振る舞いに恥じ入るのだ。

 ソーシャルメディアが普及して自分の未整理の考えを公開してしまうことが当たり前になった。読者を想定せずに発信してしまうことに抵抗がなくなった。というよりどんな読者がいるのかの想像力を失ってしまっている。そんな時代の中にあってリアルなコミュニケーションでも相手に対する配慮がなくなってはいまいかと心配になるのだ。

水無月尽

 2024年も半分終わることになる。私にとっては下降傾向の期間で辛いことが多かった。自分の衰えを痛感することは痛恨の極みであった。

 それとともにデクレッシェンドの中で何ができるのかを学んだ期間でもあった。老兵の戦い方を少しだけ理解できた。

 ただ現実はそれほど甘くはない。この厳しい現実の中で自分の最適化を図ることは不可欠だ。次のステップをいま必死に模索しなくてはならない。

 自分を安売りしたくはないが、他者からどう見えるのかに目配せもいる。今年の下半期は自分を冷静に評価し、次のステップに進むために使いたい。

アンケートの読み方

 何が人気か、どれが優れているのかなどのアンケート調査がある。様々なものがあって世間での評価を知る一助にはなるようだ。ただ、その結果が真実なのかは慎重に考えなくてはならない。アンケートに対するリテラシーが必要だ。

 新聞社や放送局が行っているアンケートもよく見ると調査方法や調査母体に偏りがあることが多い。そもそも標本数が少ないのにそれが現実であるかのように語られるのは間違いである。そんなことはわかっているはずなのに数字となって示されるとうっかり信じてしまうものである。

 よく言われるように質問の仕方や順番によっても結果は変わる。どのように問われ、何を答えさせようとしたのか。調査の現場まで遡って考えなくてはアンケートの数字は鵜呑みにできない。好きなラーメンの味くらいなら罪がないが、政治的な判断や、信条、経済的な判断にかかわるものなどならば、偏向した情報は大きな問題になる。

 インターネットによる投票をアンケートで使うときも同じことがいえる。そもそもネットのアンケートに回答しようとする行為自体に行動的な偏向がある。さらに、強い関心があるか不満があるといった極端な意見が反映しやすい。現状に満足していたり、どちらでもないといった考えを持つ人は回答のためにわざわざ時間と手間をかけないだろう。

 だから、アンケートを読むときには様々なバイアスがあることを前提に読まなくてはなるまい。それが真実に近づくための方法である。

まずは考えてみること

 今日は書くことがなかなか思いつかない。こういう時は天気の話を書くのだが、それも最近多すぎる気がしている。書くことが思いつかなくなった原因の一つが深く物事を考えなくなったことである。これまでの経験に照らし合わせて、書く必要性を感じなくなってしまっているのだ。これは大きな思い違いであることは分かっている。

 自分の体が日々変化し、細胞レベルではどんどん入れ替わっているというのに、昔考えたことがいまでも当てはまるとは思えない。やはり変わっているのだ。だから、同じようなことを繰り返して書いてもそれには意味がある。それを忘れてはならないのだろう。

 なんでも効率的に無駄なく、冗長性を排除するという考えに染まると自由な発想ができなくなる。すでに自分より有能な人が考えて結論を出していることを自分が考えても意味がないなどと考え出すと、結局何も考えないことになってしまう。これは私だけではなく、現代人にある意味共通している現実のように思う。さらに相手がコンピューターになると無力感が甚大なものとなる。

 稚拙でも準備不足でも自分で考え、そこにあるもので解決を試みることが何よりも大切なのだろう。

とにかくやってみる

 昔書いたノートなどを偶然発見すると同じ自分なのかと思うくらいの差を感じる。内容は稚拙だがとにかくいろいろ書き込まれていているのだ。その中には冗長なものが多いが何よりも挫けず書き続けていたことに驚く。

 馬齢を重ねれば無駄な動きはしなくなる。ただ、新しい発見はしばしば無駄な行動から発生するものだ。だから、新機軸を打ち立てることも難しくなっていく。

 若者にあるのはとにかくやってみるという行動力だろう。それが失われると発想や行動が固定化していく。新しい価値観も生まれにくい。だから、この歳になってできるのはもう失敗を恐れないことだ。効率を考えないことだ。とにかくやってみることなのだろう。

 若い頃はよかったなどとは言いたくない。今を終わったものにしないためにも結果を考えずにやってみることも大切だ。

自分を励ます、騙す

 自分に言い聞かせるというとオカルト的な含意を感じるが、案外そうでもないらしい。スポーツ界ではこれは経験的に信じられている。勝利のイメージを強く持つことで実際に試合に勝つことができるというだ。脳の機能を活用した結果というが詳しいことはよくわからない。

 ただ言えるのは、私たちはかなり「気」によって動いている。その時々にどのような精神状態でいるのか、何を考えているのかで行動のあり方が変化するのである。苦しいときほどあえて笑えとはいろいろな人から聞く、それが気休めかと思っていたが、脳科学的にその効果を裏付けようとしている人もいる。今は逆境にあるが、最終的には成功するとどれだけイメージできるのかがその後の結果に大きく影響するというのである。

 果たしてどれだけ実証性があるのかはわからないが、ネガティブ思考が良くないことだけは事実だろう。満足を感じるラインをあえて下げ、幸福感を得ることもその技という。はじめから多くを望まず、達成された小さな成功を大きく喜ぶ。この蓄積が大きな成功につながるというわけである。

 言ってみれば自分を励まし、場合によっては自分を騙すこと。それがこれからの困難な時代を生き抜くためには必要なのだろう。いけない、これからの時代は決して困難ではない。きっと素晴らしい未来があるのだ。

散歩して

 久しぶりに実家の近くの畑の中の道を歩いてみた。農作業する人数人に出会ったがそれ以外は誰もいない。雲雀が盛んに泣き、夕方も遅くなってきたからかムクドリが方々から集まって群れを作り始めていた。都会に住んでいると気づかない静かな時間、そのなかで何のためというわけでもなく歩み続けている自分に妙な満足感を得ていた。

 毎日が流されてばかりでなにも得るものがないと思うこの頃だ。本当はそうではなくてサラリーという不可欠なものを得ているのだが、それもなんというか自分の力で獲得しているという実感にかけている。そういう生活はそろそろ終わりにしなくてなるまい。

 散歩して気づくことがある。私はこれまで何をしてきたのだろう。そしてこれから何をどうすべきなのだろう。そういう大切なことをなぜ毎日行ってこなかったのだろう。そぞろ歩きを皆さんにもおすすめしたい。それもできれば田舎道がいい。

1.001倍の目標

 気がつけば5月も今日まで。いろいろなことがあった5月もなんとかやり過ごした。最近、日常と距離を置くことができるようになった気がする。

 仕事のパフォーマンスは残念ながら下りっぱなしだ。過去の自分ならできたことができない。脳の体力が低下していて自分の期待以下のことしかできない。全く困ったことだ。

 それでも慌てなくなったと思う。諦めることができているというのが正しいのかもしれない。できなくて当たり前という気持ちになっているのだ。

 これはちょっと前なら堕落を意味した。自己評価の基準を勝手に下げるのは負け犬の言い訳だと思っていた。痩せ我慢してでも現状以上を目指すべきだ。現状維持は敗北を意味する。そう考えていた。

 最近はあまりに負け過ぎているからなのか考えが変わってきた。今できることをやるのが大切で、やれないことを無理にやるのは間違いだ。やれる範囲のひとまわり上をできたらそれでいいではないかと。今の自分のキャパシティの1.001倍を目指そう。そんなふうに考えるようになっている。

 実際は1以下のパフォーマンスしかできていないかもしれないが、目標は1.001だ。そういう気持ちがあれは老兵にも十分なチャンスがある。

人生の分岐

 それなりに波瀾の人生を歩んできた自覚がある。もっと安易な生き方も可能だったはずだ。また、今のように細々したことにこだわりすぎる生活はおかしいとは思いながら、すべてを受け入れてきた。そのことを後悔はしない。なるようにしかならなかったのだ。

 自分にはもっと高い所に進む可能性があって、いまは不遇なだけだ。そう思うことは慰安の言葉としては最上級だ。実際は偶然掴んだ高みだとしても人は謙虚にはなれない。自分には計り知れない可能性がある。いまはそれを発揮できないだけなのだ。時が来れば一気に駆け上がるのだと。誰もが思う幻想だ。

 私はこの幻想を否定しない。妄想でもなんでもいい。成し遂げたいと思うことをこなしていく。そういう達成感の中で生きるのは一つの見識だろう。日常生活ではままならないことが多すぎる。それでも自分の中で描いた物語の主人公として生きられるならばそれは意味があることだ。

 どんな成功者も転落の憂き目にあっていると思っている人も、実は偶然の人生を生きている点では同じなのかもしれない。それを仕方がないものと諦めるのか、自分なりの意味を見出していくのかで印象は大きく異なる。