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人手不足であったことを忘れずに

 コロナウイルス対策のため営業自粛を強いられた企業は、雇用者を減らすことで危機を乗り切ろうとしています。しかし、人手不足であったために起きていた弊害があったことを忘れてはいけません。

 いろいろなことが機械で代替されている中で、様々な業種で業務のコモディティ化が進んでいます。価格競争で一円でも安くという方法ではその場で勝てても結局は先細りになってしまう。これからの時代に必要なのは価格だけではなく質の高いサービスです。そのサービスを提供できるのは熟練した社員であり、短期的な雇用では期待できることは限られています。

 他にはないサービスを提供できれば、顧客は価格ではなく幸福感に投資するようになります。もちろんあまりにも高額なものではだめですが、安いだけが取り柄の商法よりも上を目指すことで商機が発生します。このことを踏まえるならば人間を安く買う会社は今後かなり苦戦していくでしょう。コロナウイルスの打撃は深いですが、ここで人材を放出してしまったならば致命的な結果が待っているような気がしてなりません。

現金逆風

 新型コロナウイルスの流行によって私たちの生活はいろいろな変化を強いられています。現金のやりとりについても注目されるようになってきました。

 あらゆるところで接触行為がはばかられる今、現金の受け渡しについても配慮が必要とのことでトレイに乗せて行う店が増えています。これは手と手が触れ合うことに対する対策と考えられますが、紙幣や硬貨に付着したウイルスについにはいかんともし難い。専門家によればその都度、石鹸を使えというのですが心理的抵抗感は残ってしまいます。そこでキャッシュレスの動きが加速する可能性があります。

 キャッシュレス化については産業界の要請によって推進されています。税制上の優遇措置は周知されており、FeliCaやバーコード決済の利用者は増えています。なんとかペイの乱立はその象徴です。現金輸送コストをさげたり、サービス提供側に消費者行動のデータが残ったりするメリットが値下げ以上の効果があるようです。

 ますます現金派には逆風が吹いているといえます。

人間の商品化

 人間の能力を数値化することで安心しようとする人がいます。そこには大きな落とし穴があります。

 組織にとって有益かどうかを測る人物評価の基準は様々あります。その中にはすべてを数値で表して座標軸上に人物を配置して比較対照の方法とするものもあります。この方法は一定の組織の中での限られた能力を測るには効果があるかもしれません。たとえば投手になるならばコントロールや球速、過去の戦績などが査定の際に参考になります。

 ただ、業務が多岐にわたる仕事の場合には使うべきデータが増え、その分評価の方法が複雑になります。また何を主軸に置くかでまったく違う結果になります。

 数値化された人物評価はそれがあたかも人間の能力の絶対値のようなふりをします。ロールプレイングゲームのキャラクターのレベルのように人間を階級化します。その値があくまである組織への適合性を測るだけのものであることを忘れてしまうのです。

 私たちは簡単には測れない人間関係の中で生きている。そしてそれは絶対値ではなく、周囲の環境との相関で起きる変動値なのだということを忘れてはならないのです。

通勤リハビリ

 ご存知の通り東京の満員電車の凄まじさは異常です。その生活から一時的に解放された日々を送ってきた私たちにも、再びあの日々が戻ってきます。

 東京の通勤電車の混雑の治安が維持されているのは、長い間順応してきた国民的努力の賜物です。他者に迷惑をかけないという教育以前の思考形式というか国民性とでもいうべきものが、異常な過密状態でも正気を保てる原因だといえます。

 ただこの性質は常に更新されなくてはすぐに消えてしまうものなのかもしれません。毎日、過密な人間関係を経験しているからこそ、保てる感覚なのかもしれないのです。すると今後数か月は非常に危機的な状況になるかもしれません。

 以前の寛容力もしくは忍耐力が回復できるのでしょうか。すでに勝手に自警団を自認して、同調圧力の先導者となっている人々がいることを考えると少し恐ろしい予感があるのです。

 冷静に大局を見られる人は実はさほど多くはありません。また、考えていても他人に引きずられずに信じることを通せる人も多くはない。かく言う私も結局長いものに巻かれる日々を過ごしています。

 とりあえずは通勤電車に乗っても動じない心の強さを取り戻すリハビリテーションをやっていこうと考えています。

弱みの暴露

 ネット上で他人を誹謗中傷してはばからない人たちのことが問題になっています。私はこの多くの原因を匿名性にあると感じています。ネットを自由に使えるという点において匿名の利点は大きいのですが、その陰に隠れて人道を外れた行為をすることに関しては許しがたい。

 まず私たちの情報の受け方として、情報源が分からないものは信じない、疑うというリテラシーが必要です。あるいは無署名情報をフィルタリングできるシステムを作ってもいいのかもしません。情報の発信者にモラルを求めても、そもそもそういうものが欠如している人には意味がありません。残念ながら無責任な情報は出てしまうので、それを機械的にカットする方法を普及させる必要があります。正々堂々と意見する人には遡及可能な署名つき発言を求めればよいのではないでしょうか。

 いずれにしても他人の悪口を公の目に触れるように書く人には、それなりの覚悟をして貰わなくてはならないでしょう。現状でも手続きを踏めば発言者までたどり着くのは可能です。これも周知させなくてはならない。本当に匿名でなんでもできると思い込んでいる人は多いのですから。

適度な刺激

 人とあまり話さない生活を続けていると、適度な刺激がなくなってしまっている気がします。何かを考える上で不可欠なものが失われているのです。

 あまり社交的ではない私でも最近の事態は極めて異常です。他人との会話の中で考えはまとまっていくのであり、一人で逡巡していても何も進まないのです。会話は大事です。

 無意識に飛び込んでくる人の話も脳の活性化には欠かせません。集団知のようなものをわたしたちは獲得しながら生活をグレードアップしているのです。

 テレビやネットのニュース、ソーシャルメディアの記事や動画はあまり心に響きません。大事なのは自分に対して話されていると感じることであり、自分が主体的に聞き取ったという自覚なのでしょう。

再起動

 東京や神奈川の非常時代宣言の幕引きの試行錯誤が始まりました。いったん始めたものをやめるのには大義名分が必要です。それをいろいろな言い方で説明するのが政治家の役割のようです。

 ある人はまだ安全が確保できていないのに警戒を解除するのは時期尚早だと言います。またある人はこのままだと生活が死んでしまう。幾分かの犠牲は仕方がないからとにかく再開すべきだといいます。私もどちらか決めかねているのですがどちらかといえば後者の方に傾いています。ただウイルスの第2波が犠牲者を出すとしたらその責任はとてもとれません。だから動けなくなっているのです。

 私は再起動には勇気が要りますがやるべきだとやはり考えています。いろいろな対策をし、制約を設けるのは仕方ないとしてとにかく始められることはやるしかない。そういう段階に来ていると思うのです。

会うこと

学校をどのように再開するのか対応に迫られています。分散登校が一つの選択肢ですが、それならば工夫が必要です。

 学校を再開することは教育を止めないためには不可欠です。社会的距離の確保が目標となり、各種産業活動が停止している中で、子どもを動かすことがそれに反する行動になることも必至です。このバランスをとらなくてはならない。

 分散登校で教育的効果がどれほど確保できるのかはきわめて怪しい。大切なのは孤立している生徒諸君に仲間の存在、社会の存在を意識させることでしょう。ならば目的は非接触でも仲間を意識させる時間を確保することです。

感染予防のために隔離することは大事ですがそれだけではなく、心の距離を縮める工夫も大切なのです。

官製マスク

 学校にも生徒向けにマスクが配布されることになりました。すでに受け取った方もいるのかもしれません。

 文科省の管轄で生徒向けに配布されている布製マスクはいまさら不要という声が多数あります。すでに一部の量販店ではマスクの在庫があり、価格も落ち着いてきています。国税を使ってマスクを配布する意味については別の説明が必要になっています。

私は非常時に指導者がいかに振る舞うべきなのかを考えたり、国家レベルで行う事業の進捗の困難を見直す教材としてこの機会を利用したいと考えています。指導者は先を見通す力が必要になります。今回は混乱している状況の中から、次に必要なのは何かを考えていく能力が問われました。大切なのは時々の評価ではなく、最終的にどれだけの人が利益を受けるのかということでした。

 君ならどうしたか。それを問いかける材料としてこのマスクはかなり説得力のある材料になります。

再放送・リモート放送

 緊急事態宣言が長引いていることも影響してテレビ番組も収録ができなくなっているようです。国民的漫画である「サザエさん」も45年ぶりにストック切れによる再放送に踏み切ることが決まりました。大河ドラマもこのままでは本能寺の変にたどり着けないのではと危惧する人までいます。

 一部の番組やネット動画チャンネルなどは相互動画配信のサービスを用いたリモート収録を行っています。スタジオに出演者の数だけ置かれたモニターに個々に映し出されるタレントの自宅と思われる(思わせる)背景の登場人物たちがカメラ目線でものを言いあうという風景は異様なものです。この後語り草になるであろう21世紀初めの出来事の一つなのでしょう。個人的にこの状況でよくなったと思うのは出演者が他人の話をよく聞いて番組を進めている様がうかがわれることです。これまではなにか合いの手を入れるためにあえて話を分断するということもよくありましたので。

 再放送は過去の作品を見直すことができる良いチャンスなのですが、民放の経営的にはよろしくないようで、しかも変わってしまった社会状況や人物の事情を考えるとただそのまま流せばよいのではなく再編集も必要で、手間がかかる割には視聴率、広告収入が期待できないようなのです。

 危機感を扇動し、集団ヒステリー現象を助長するようなワイドショー的な番組以外でメディアの人々も努力していただきたいと考えます。人を安心させる力をもっているのもマスメディアの大きな特徴ですので。