タグ: 生活

マルチタスクできない

Photo by Ketut Subiyanto on Pexels.com

 一度にいろいろなことをこなせる人をかつては聖徳太子の能力に例えた。確か七つの話を同時に聞いて対応できたとかいう。根拠がある話ではない。聖徳太子伝説は様々あるが、異能譚の一つであろう。最近は7つくらいでは収まらない。コンピュータの出現でマルチタスクは当たり前となってしまった。

 しかし、いくら高性能のコンピュータが普及したとはいえ、それを操作する生身の頭はそれほど高性能ではない。特に私のような旧型はすでにかなりがたが来ている。パソコンを操作していて困るのは違うウインドウなりタブに移った瞬間にこれまでやっていたことを忘れてしまうことだ。これはいかんともし難い。それだけではない。通知が来たり、たまたま間違ったタブを開いたときに気が散って別のことを始めたりすると、もう前のことが進まなくなる。注意散漫というより、分裂しているといった感じのありさまだ。

 少なくとも私はマルチタスクには全く向かない。一つ一つを愚直にこなして何とか人並みにそろえるのが関の山のようだ。それなのにパソコンを使うたびに先に述べた罠にはまる。これは精神衛生上とてもよくない。私の疲労の原因のかなりの割合にこの問題があるような気がする。

冷え込み

Photo by Andrea Piacquadio on Pexels.com

 寒気が南下して気温が下がっている。今日は15度前後までしか上がらないという。薄いコートを着て出勤することにした。

 上着が増えると困ったことがある。ポケットに何でも入れてしまう私はそれがどこに行ったのか分からなくなるのである。今年はコートのポケットには何も入れない、入れるとしてもひとつの場所だけと決めることにする。

 まるで小学生の誓いのようだが、私にとっては結構切実な問題なのである。

戻ってきた賑わい

Photo by Francesco Ungaro on Pexels.com

 今日は東京の都心に出かけた。好天であったせいかかなりにぎわっていた。外国人らしい姿も多くもとの街の賑わいが戻ってきたようだ。経済的な停滞は大きな問題だが、少なくとも都心の様子はかつてと変わらない。

 コロナウイルスの克服にはいまだ至らず、感染者の数も多いままだ。しかし、インフルエンザのレベルの警戒感になりつつある。特効薬がないのは同じだからだ。油断はできないが、あまりに警戒しすぎてもいけないということだ。世論がそのように流れてきている。マスクを外す人も出始めている。それを非難する人も少しずつ減りつつある。

 私はといえば、マスクをつけることがすっかり習慣化してしまった。つけないでいると何か不安だ。感染不安ではなく、様にならないという思いがしてしまうのだ。これも問題だと思う。いろいろな意味でこの数年間で生活や精神状態は激変してしまった。

たわわ

みかん

 以前も書いた隣家の蜜柑の木が豊作の果樹のために大きく撓んでいる。中には地面に付きそうな枝まである。

 道に面したこの木は手を伸ばせば誰でも取ることができる。にもかかわらず誰も手を付けず、鳥たちも餌にしていない。まるでもう少し甘くなるのを待っているかのようだ。

 木には言葉がないのでこの状態をどう考えているのか分からない。実の中に仕込まれた種を遠くの適地に運ばれることを期待しているのだろうか。多大なエネルギーを消費して自らの生命を危険にさらしてまで結実させようとする命の営みに感服する。

誰が縛っているのか

Photo by Tim Mossholder on Pexels.com

 中国では言論統制がなされているとはよく報じられる。特定のニュースが意図的に報じられないとか、ネット検索ができない用語があるといかいうことだ。しかし、このインターネットが普及し、人々の国際的な往来が活発なグローバル社会においてその程度で統制などできるのか。いつも疑問に思っている。

 習近平国家主席の異例の長期政権の中で、言論統制が進行しているといわれる。しかし、日本を含めて海外に渡航する中国人は多い。また高学歴かつ、高度な技術力をもった人材も多数存在している。かれらが統制や検閲の存在を知らないはずはなく、実際に海外で目にしたことが中国の国内での知識と相違することなどすぐに分かるはずだ。それなのになぜ統制が効いているのだろう。

 為政者による技術的な情報統制には限界がある。処罰を重くしたところでいずれは破綻する。なのにそれがいつまでも進行しているのは、縛っているのが政府ではなく、国民自身だからなのだろう。つまり、自分自身のアンテナをへし折り、聞こえないふりをすることで海外の影響を食い止めているのだろう。その下地は教育にあるのかもしれないし、政府の意向にそって生活をするものが社会的成功をおさめ、反するものの陰惨な結末をいくつも目にし、耳にしているからかもしれない。縛っているのは自分自身なのではないか。

 中国のことを想像で言ったが、これは日本人にも言えることだ。言論の統制などないと思っているが、さまざまな不文律はあると言われている。これが注意深く意識から外される。自由に発言しているかのように見えて、その枠組みのなかで思考し行動する。はみ出すことを自主規制しているのかもしれない。

 言論の統制というものは意外にも簡単に達成できることになる。何が原因で人は口を閉ざすのか。目の前の異常事態を見逃すのか、政府の圧力という単純な判断では本質は見えない。

郵便は遅い

Photo by Suzy Hazelwood on Pexels.com

 かつては郵便に頼っていた時期があった。いろいろな文書が郵送され、それによって事務手続きがなされてきた。しかし、どうもこれからはあてにはならなくなる。デジタル化の中で実物配達の郵便は別の使い方をするべき時が来た。

 日本郵便のサイトによると、郵便法が改正されたことにより、普通郵便の土曜日の配達が廃止されている。また、いままで翌日配達の地域だったところも原則として1日追加で配達される。月~水の消印が押されると、その地域は2日後の配達が見込める。しかし、木曜消印だと到着は4日後の月曜日だ。金曜消印も月曜なので3日後、土曜に受け付けられた場合は火曜配達で3日後になる。日曜受付は2日後に戻る。さらに、もともと翌々日配達だった地域は月、火に引き受けてもらえれば3日後に配達されるが、水曜だと5日後、木、金曜ならば4日後、土日ならば3日後になる。土日は郵便局も開かないので現実的には月から金の中で投函日を選ばなくてはならない。ポストの収集時間にも気を付けるべきだ。

 以上から考えるにこれからは普通便で早く届けたいなら月曜に出せということだ。土日にかかる場合はそれだけ配達日が遅くなる。まだ返事がないとかと相手を非難する前に、自分がいつ投函したのかを気にしなくてはならない。配達日を気にしないなら速達やゆうパック、レターパックなど付加的料金を惜しんではいけないことになる。申し訳なのか速達料金が290円から260円に値下げされている。

 デジタル化の旗振りたちは、だからもう電子にしましょうと声をそろえる。しかし、そう簡単にはできないものもあるのだ。私は仕事で手紙を出すことが多いが、週初めに仕事を終わらせて郵送するか郵便料金をケチらないことを心がけるしかない。相手からの返事も気長に待つとする。

 

日本のエンタメ

海外から日本のエンターテイメントを観に来る方もいるはずだ。日本人にはちょっと高いがあなたならお安く観られるだろう。

 伝統芸能の能や歌舞伎は見ていただきたいが分かりにくいかも知れない。ならば、数多く開催されている演劇やミュージカルはどうだろう。チケットが取りにくいものもあるので事前にエージェントに相談することをお勧めする。

 スポーツもいい。野球はあの大谷もプレーした日本のプロ野球をお勧めしたい。まだ対戦カードは確定していないが、東京か大阪か福岡の球団だから観光ついでにいい。アメリカより地味かもしれないが試合は面白い。サッカーやラグビーもある。そうだ羽生君は引退したがフィギュアスケートもある。

 音楽もいい。一流のクラシック演奏があちこちで聴ける。海外のアーティストが日本には数多く来日している。お目当てはアイドルですか。それなら、チケットの取り方をエージェントによく相談するといい。

 いろいろなエンターテイメントがあなたの来日を待っている。お越しください。

無常

Photo by Quang Anh Ha Nguyen on Pexels.com

 よく利用していた食堂が数か月前に閉店してしまった。今日また数か月ぶりにその近所に寄ってみたところ、更地になっていた。思ったより狭い土地だった。高級店というわけでもなく、料金が手ごろであったという理由でお世話になっていたが、なくなってみると妙に寂しいものである。

 街の風景が刻々と変わることはもう慣れているはずだった。私の住まいの近くでもかなり頻繁に工事があり、建物が建て替わるだけではなく、道路が建設されたり、なくなったりしている。地図が変わってしまったということだ。それが少しずつ変わっていくのでいつの間にか変わったという風に感じるのだが、これを早送りしてみることができたとしたら実にめまぐるしく変わっているのだろう。

『方丈記』の冒頭にあるようにすべてはよどみに浮かぶうたかたのようなものなのかもしれない。不動のものと信じていたものがあっさりと変わってしまうと感じるのは、私の目が地上すれすれについているからなのだろう。大きく俯瞰する考えができるようになれば、小異は気にならなくなるのかも知れない。むしろ変化しているからこそ、この世の中は継続できるのだろう。生物の身体のように。

 話が大きくなりすぎた。食堂はなくなったが、すぐ近くの別のチェーン店で同じようなメニューが始まったので、いまはそこに宗旨替えをした。こことてもいつまで続くかわからない。前の店ほどうまくはないが、それでもなくなっては困る。この街に来るときはここに通うことと決めている。

筆記体

Photo by MART PRODUCTION on Pexels.com

 アメリカの若者は筆記体で書かれた文章を読むことができないという記事を読んだ。手書きの文字を書く機会が減った現代において、筆記体が衰退するのは当然の成り行きだ。私の知り合いの外国人も筆記体で文字書くのを見たことがない。ブロック体かその変形である。

 この現象に対してアメリカの一部の知識人は、過去の文献を直接読めなくなるのではないかと危惧の念を示している。歴史的な文化遺産を直接読み取ることができないのは文化的な損失が大きいというのである。一部の地域では学校教育のなかで筆記体の読み書きを復活することを検討しているという。

 これはよそ事ではない。日本語においても江戸時代以前の写本や版本を直接読むことはかなり難しい。私のような古典を学習したものでも江戸の版本までは何とか読めるが、写本となると怪しく、それ以前の時代のものになると字書なしでは読めない。読めるのは研究者に限られている。

 そんなに昔の本でなくとも、昭和の文章でも行書で書かれた文字が読めないという若者は増えている。草書はたしかに書道の心得がなければ読めないのは分かる。しかし、行書は読めるはずだと思うのは思い込みである。若い世代は活字(正確にはスクリーンに表示できる文字)を通して日本語を学ぶ。他人(同世代ではなく上の世代)の書いた手書きの文字を読む機会はほとんどない。だから、「令和」の「令」の字の最後の画が斜めになっているのと真直ぐなのは同じ文字なのかという疑問が生まれる。「葛」の字形もそうだ。英語より文字の種類が多い日本語において、過去の人が書いた文字が読めないという問題はより深刻であると考える。

 これに対しては、手書き文字の文化は切り捨てていいという考え方もできる。私はそうは思わないが、昔の人が書いた手紙や原稿を読むのは専門家だけだからそのほかの人は行書のようなくずした字は読めなくていいし、書かなくていいという考えだ。字が汚くて読めないという問題は、今後は誰もがコンピュータやスマートフォンで入力していくようになる。その中には音声入力もあるからもはや文字を書くことにこだわる必要はないというものである。

 一見未来志向で現実的な考え方と思われるのだが、いろいろな研究から手書きで文章を書く方がものを深く志向する際には効率がいいとされている。これからも「紙に」であるかどうかは怪しいが直に文字を書くことは当面続くはずだ。

 話は戻るが過去の人が書いた文字を読めなくなるということはやはり大きな損失である。その意味において、教育の場でもまた家庭の中でも手書きの文字を読み書きする機会をもっと増やしていった方がいいのではないか。デジタル化に反するようだが、教育効果や文化の継承という面を様々考えるとその方がいい。

集中できる場所

Photo by PhotoMIX Company on Pexels.com

 このブログの名前は架空の別荘にしかも書斎があるという想定でつけた。実際の住宅環境は恥ずかしくて言えない。読書するとき、何かを考えるとき、ものを書くときには集中できる場所がほしい。それが自宅にある人は幸せだ。そうではない場合どうすればいいのだろう。

 職場はいそがしく、しかも仕事の山で気が滅入るばかりで落ち着いて本も読めない。帰りのコーヒーショップなどで試みることもあるが、隣の客がおしゃべりだった場合は目的を達成できない。もっと強敵なのが無駄ににぎやかなBGMだ。こどもが多い店は対象外だ。こどもには高校生も含む。レンタルオフィスのようなところはいい。ただ、いちいち金がかかると気軽には使えない。

 図書館はあらゆる意味でいい。静かだし本もある。ただ、パソコンを開くのは気兼ねがするし、打鍵音も気にしてしまう。以前にも書いたスマホとBluetooth接続するキーボードは音がほとんどしないのでこれを使うことは多い。

 ただ、図書館も開館時間が短かったり、閲覧席がすぐにいっぱいになったりするので万能というわけではない。結果としてたどり着いたのが、駅の周辺のベンチである。人通りは多いが、立ち止まる人は少なくおしゃべりに邪魔されることは少ない。基本的にあまり座っている人はいないので座席確保は容易だ。屋根があるところでは全天候型となる。これは少ないが。そして、文字通りのラップトップにすればコンピュータも使える。机のある席が確保できれば、100円ショップで手に入れたスマホ立てと先の携帯キーボードの組み合わせで入力装置が完成する。

 というふうに最近は駅周辺のベンチやテラス席のようなところで隙間時間を過ごすことが増えている。真のノマドワーカーだ。しかも低予算型、低機能型の部類である。この方法を実践するために最も必要なコンピテンシーは「忍耐力」と「恥ずかしがらない力」だろう。