タグ: 生活

上着の恩恵

 昨日は東京の最高気温が23.7℃だったらしい。おかげで鼻水が止まらなかった。猛暑に順応していた身体にとって20℃台の温度は対応不可能なのだ。

 ようやく上着を着ることができた。暑苦しさの象徴のような格好をして、服に健康が守られていることを再認識したのである。もはやおしゃれという範疇ではない。私は衣服によって人生を守られていた。そのことを再認識したのである。

 生身の体はいかにも弱い。それをようやく救うのが衣服というものなのである。夏になるとその恩恵を忘れがちになる。でも人間の弱さというのはそこにある。

 話が大きくなった。私が言いたいのは 人間がコントロールできる気温というものはごくわずかということだ。ほんの少しの気温差で体調が変わる。それは私たちの調子が気温に左右されているということだ。

 今日はまた暑くなる予報が出ている。日中は上着を衣紋掛に掛けることになりそうだ。これも久しぶりである。

新涼

 俳句で新涼は夏の季語で夏ながら初めて秋の気配を感じたときの皮膚感覚に基づくものである。私の場合、昨夜その新涼を覚えた。9月23日のことである。

 おそらく冬の日から突然現在に訪れたなら全身で暑さを感じるに違いない。連日の猛暑に悩んできた私にとっては肌寒さで震えて仕方ないのだ。鼻水が止まらなくなっている。

 体感というものは相対的であり、暑さも寒さも結局のところ昨日との比較で感じているのに過ぎない。だから新涼という季語が9月下旬まで移動してもおかしくはない。いや、実はおかしいのだが。

ゆきあい

 今日も暑かった。ただ、どうもこの暑さもそろそろ区切りとなる。彼岸までということだ。ただ、懐かしい秋はまだ先なのかもしれない。秋の風情を文学作品で語っても、若い世代には注釈が必要になる。昔の夏は8月半ばで終わっていた。新暦でも9月半ばは秋を実感していたのだと。

 詩境深まるのはやはりゆきあいの時期である。行く季節を惜しみ、来る季節におどろく。我が国の詩の世界はこれに救われてきた。そのゆきあいが昨今曖昧になり、夏冬のデジタルになりつつある。気候変動が人間の感性に及ぼす影響を危惧しているのである。

 秋の儀式がある。秋刀魚を旨く食すこと、栗飯もいい。紅葉に過剰に反応し落ち葉に心震わすこと。そうした過去の感性を高齢者は無理やり再現するのがいい。それに付き合ってくれる若い世代が少しでもいれば古典的感性は引き継がれるかもしれないから。

渋谷区民だったころ

 父親の仕事の関係で渋谷区民だったことがある。最寄り駅は原宿と表参道だ。すぐ近くにある表参道はいまよりずっと静かで落ち着いていた。そこを歩道橋で渡って学校に通っていた。

 表参道が静かだったのはデザイナーズブランドの店が並んでいたからで、高価すぎる服をウインドウショッピングする人が大半だった。同潤会アパートもその原因の一つだった。その静かさを突然破るのが暴走族と呼ばれた輩で、エンジンだけではなく、変なメロディのあるクラクションで周囲を驚かせていた。

 原宿の近くに人なんか住んでいるのかとよく言われたが大通りを外れると細い道の住宅街が広がっていて、ちり紙交換のトラックや、チャルメラを吹いて豆腐を売りに来る自転車が通っていた。野菜や果物の移動販売は物価が高めのこの地域では住民に人気があった。

 その後、歩行者天国が始まり、いわゆる竹の子族とか一世風靡とか色々な人たちが来るようになって、さらにタレントのグッズを売る店ができると大衆化が一気に進み、毎日縁日のような街になった。地方から来た中学生らしき男女のグループの一人に松田聖子の店はどこかと問われたことがある。地元民として場所は知っていたが、入ったことはなかった。人気があったのはとんねるず、丹波哲郎の大霊界、悪役商会などだったがついにどこにも入らなかった。

 バブル景気が始まると小学校の同級生たちが転居して散り散りになった。いわゆる地上げのために嫌がらせを受けたというような噂がかなりの信憑性とともに語られた。

 公務員住宅に破格の家賃で住んでいた私たちにとって、そういう経済学上の問題は距離を置くことができた。収入の低い家族にとって、いかに金をかけずに楽しむかは自然に身についたスキルとなった。

 表参道や代々木公園にいけば見世物はいくらでもあり、こどもの私にとってはキデイランドで模型を見るのは楽しみだった。買えるのは年に数回で、それは申し訳なかった。金を使わずに楽しむという考え方はその時代に形成された。なんでそれを続けなかったのだろう。

 渋谷区民時代を思い出すといくらでも話ができる。都心に住みながらも、結構質素な暮らしをしていたあの時代こそ、私の核となる人間形成の時期であった。バブル景気にも狼狽えず、様々な環境の激変にも耐えられたのはこの頃の蓄積ゆえだ。

 自分で小金を稼ぎそこそこの生活をするようになってこの精神は挫けてしまった。数百円の節約のために駆けずり回ったあの時代の精神が再現できれば人生はもっと豊かになるはずだと信じている。

連休

 9月は連休が2回もある。これは設計ミスかもしれない。今年の場合、もともと連休を作るために日にちを移動してきた敬老の日に加えて、秋分の日も日曜に当たるため、振替休日が設定された。

 休みが多いのはいいことだが、曜日ごとに決まったことをする職種にとっては、月曜が集中して削られて行くことは色々な不都合がある。振替休日がなぜ月曜なのかということを考えるべきだ。

 日本は世界的に見ると祝日が多いという。それでは休みが多い国なのかというとそうとも言えない。日本の労働環境では個人が自分の休日を申請することが難しい。制度上は有給制度などがあっても、それを行使するには障害が多い。

 祝日の多い我が国はそれがなければ休むことがままならない。もっと休暇を取れるシステムを各組織が取るべきなのだろう。

自己満足上等

 高温の日々が続いているせいで疲労が蓄積している。暑さのために集中力が失われ、ときに目眩までする。このままでは大きな損失に繋がる。いまは調節が必要だ。

 でも、おそらくもっと大変なのは心の問題なのだろう。9月病などと言われるが、これは中高生だけの話ではなさそうだ。最近、何事にもうだつが上がらないと自覚している私などもその未病者の資格が十分にある。

 周りが自分を評価してくれていないときには、特に落込みがちだ。しかし、誰にも気づかれなくても他人にはできないことをやり続けるのだという気概は持っていたい。すぐに結果を求めるのが最近の風潮だが、そんなうわついた評価はこちらからお断りするべきだろう。

 他の人にはできない何かを愚直に続けるしかない。たとえ誰にも評価されなくても、少なくとも自分は満足できる。それでいいのだ。自己満足できる何かを続けていく。そこに中断の合図がでたら、そこで身を引けばいいだけだ。

短波放送

 中学生のころだったと思う。短波放送を受信して聞くことがブームになったことがある。海外の放送局の日本語放送があり、それが聞けたことが一種の自慢の種になっていた。

 中国や韓国、北朝鮮などの放送は簡単に聞けた。アメリカのVOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)やラジオ・オーストラリアのワライカワセミの声などは聴けただけでも感動した。モスクワ放送はソ連時代のもので、どこか重苦しい音楽が印象的だった。当時はラジオもアナログでラジオのつまみをほんの少し回すことでチューニングをしており、わずかな調節で聞こえたり聞こえなかったりした。それが楽しみだったと思う。

 私はついに挑戦しなかったが友人の中にはベリカードという受信証明を発行してもらい、それをコレクションしている人もいた。短波は電離層の屈折を利用してかなり遠くの電波を受信することができるが、中波にも夜間には越境が起こりやすいので、国内の遠隔地の放送局に受信証明をしてもらうこともあったようだ。

 いまはインターネットを通したサイマル放送が一般化しているので、このような楽しみはなくなってしまったのかもしれない。ただ、少し余裕ができたらまた短波ラジオでも買って雑音の中から遠隔地から届いた電波を聞き取る楽しみを味わいたいと思っている。

夏休み終了。

 8月も後半に入ったというのに酷暑が続いている。最近は30℃でも涼しいと感じることがあるので完全に皮膚感覚が狂っている。バグっているというのが最近の流行だ。それでも私にとってのいわゆる夏休みは今日で終わりだ。思えば時間があれば何でもできるというものでもないことを証明してしまった。

 何もしなかったわけではないが、何かをしようとして考え抜いて結局何もできなかったということはたくさんある。その方が印象に残るから結局徒労感が先に立っている。やり方を間違っているといえばそれまでだが、あまりにうまく立ち回ろうとしすぎた。もっと失敗してもよかったと考えている。

 ただ、収穫もある。例えばどうしてもうまくいかないときはいっそのこと放棄してしまってもいいという考えを獲得できたことで、ストレスはかなり解消した。できる方法の中でやれることをやればいいというのは一見逃げに感じるが、実は方法論の再検討をした結果だともいえる。できないことは人に任せ、自分ができることを追求するというのでいいのだと考える。そして、結局は小さな積み重ねでしか物事を成し遂げられないことも痛感した。

 昔は夏休みが終わることにこの世の終わりのような悲壮感を覚えたのだが、今はそれほどでもない。むしろやるべきことがある程度決まっている毎日の方が楽な気がする。それほど自分の時間を自分で作っていくことは楽しいが苦しいのだ。これからは日常の中に自分の時間をいかに作っていくか。それを楽しみたいと思う。

力の抜き方を獲得する

 熟練した人は力の抜き方が分かっているという。これはいろいろな分野においていえることで、いかにリラックスして自分の力を発揮できるのかが大事ということである。

 手業やスポーツなどの身体的なものに関してはこの考え方は分かりやすい。力みをなくしたほうがうまくいくという結果は容易に実感できる。これはものを考えるときにも言える。問題解決の方法は熟慮熟考は大切だが、それでもうまくいかないときは一度別のことを考えてみる方がいいらしい。散歩したり、ジョギングしたり、関係ないことをやるといいという。

 力を抜くというと簡単なようだが実際は結構難しい。懸命に努力しているのを止めてしまうことは難しい。現実逃避ではないかと思われてしまう。思考を中断することで必ず成果があがるとは言えないし、かえって失敗に結び付くこともある。だから練習というのは力の入れ方だけではなく、抜き方を学ぶことでもあるのだろう。

物足りない豊かさ

 逆説的だが少々物足りない方が豊かさを感じられるということはある。必要以上に満たされているとそれを幸福とは考えられず、むしろ害悪のように感じられる。私たちは少し物足りない方が幸福感を覚えるものらしい。

 物足りない状態に魅力を感じるというのは、そこに想像が働く余地が残されていることを意味する。そこでは無限の可能性が輝いている。こんなこともできるのかという驚きと達成感が得られるのに対して、習慣化し、無批判に繰り返しているものには私たちは冷淡であり、印象すら残らない。

 物足りないことに魅力を感じる文化は実は日本では一般的なものである。侘び寂の価値観などはその例であろう。モノやサービスに満たされた現代人があえて物足りないものに身を任せるのは大切な体験である。