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使わない技術と節約する技術

 電気自動車が環境問題を解決するという幻想に世界が気がつきつつある。排気ガスを出さないことは大切だが、電池を造ったり廃棄するためにかかるエネルギーを勘案するとマイナスになるとの予測もある。

 重要なのは例えば車で言うならば乗らないで済む社会を作ることにある。日常生活の中での移動に公共交通機関を活用する方策を発明するべきなのだ。また、それでも車に乗らなくてはならない場合は、なるべくエネルギーを使わない仕組みが必要だ。最低限のエネルギー消費にできるようにインフラを変えていく必要がある。

 これまでは個々人が移動手段を自己判断で獲得してきた。するとどうしても無駄が発生する。同じところに行くのに別の車に乗り、不慣れな運転のために道に迷ったり事故を起こしたりする。これが積み重なると大きな消失となるのだ。

 同じところに行くのなら公共機関に託してもいい。高度な行き先設定は人工知能に任せよう。最低のエネルギーで最高の経験ができるはずだ。もし、運転それ自体が好きならば、そういう楽しみのためのコースを別に作ればいい。

 電気自動車を乱造するよりも、車に乗らなくていい、乗ってもエネルギーをなるべく使わないシステムを考える方を優先すべきだと考える。

2歩下がる

 月初めは少し気分が変わる。正確には変えるように無意識に考えるようにしている。特に師走の始まりは意図的に何か区切れをつけようとする。

 私にとってはそれだけではなく、安住のルーティンから抜け出すための区切りとなりそうだ。いや、これも正確にはそうしようとしている。何も考えずに物事を行うのは楽でよいがいつまでもそうしてはいられないこともある。

 まずは初速度をつけなくてはならない。ここで大きな変更が生じる。精神的にも辛いことが起きるだろう。私の場合は過去の遺産を整理することから始めなければならない。価値を感じていたものを手放すのは勇気と一種の狂気がいる。でも、やらなくてはならない。

 ものを捨てれば心が落ち着くと説く人がいるがあまり当たってはいまい。落ち着くのではなく諦めるのであり、逃げであり消滅でもある。それを越えてでもことを行うのが今の私に求められている区切りなのだ。

 師走故にいろいろ考える。私にとってはまず3歩進むための2歩後退の月になるかもしれない。これも正確にはそうしようとしている。

頑張れる時間

 無理をしてでも何かをやり遂げるためにはそれなりの覚悟がいる。効率とか能率とかそういう評論家の先生が言いそうなことを振りきってやり続ける努力が必要だ。

 若い頃はそれができることもあった。数日ほとんど寝なくても目標が決まれば敢行できた。いまはそれが難しい。残念ながらあっさりと寝落ちしてしまう。耐えられても翌日が悲惨な状況になる。加齢を実感するのは容姿容貌ではない。この方面の粘りが効くのかという問題だ。

 他のことを忘れて一つのことに熱中できることを仮に「熱中力」と呼ぶとすればこれには体力の裏打ちが不可欠だ。体力を失いつつある私にとっては、とにかくやるしかないという耐力の方に期待するしかない。

 頑張れる時間をどれだけ持てるのかはこれからの基本テーマとなる。それを悪あがきとも痩せ我慢ともいう。醜態を晒すことは前提条件にしなくてはなるまい。

あり得ない妄想

やり直せたら

 あのとき別の選択肢を取っていたらとはよく思う妄想である。別の選択をすれば関連して更にいろいろなことが変わり、結果として全く別の状況になる。いまとは違う自分がいるはずだ。

 こういう考え方をしているとき、無意識のうちに並行世界を考えていることになる。量子力学理論ではないが世界はいくらでも分岐すると漠然と考えている。

 学問的な裏付けの有無にかかわらず、この考え方は実は妄想のようなものだ。一人の人生では一通りの経験ができず、それを俯瞰的に捉えることはできない。どんなに並行していても見えなければ存在しないことと変わらない。

 それでもこの妄想をすることは楽しい。それは人生を少しでも豊かにしたいという思いによるものだろう。ただ、生きられるのはやはり今の人生しかない。

ダメもとチャレンジ

 何が足りないかといえば成功率の低いことに失敗を覚悟してでも取り組む勇気だろう。きっとそれが若さの喪失というものらしい。

 失敗すれば痛みが伴うし、ときには生き方を変えるようなダメージを受けることもある。それが怖いと前に進めない。

 考えてみればこういう経験は変化の契機なのだ。変化することで新しい局面が開かれるし、そこに新次元が生まれる。だから、失敗は無駄ではなく大切なのはものなのだ。

 ダメもとのチャレンジをすることはこの意味で必要なことなのだ。

まだ何もないところへのパス

 サッカーやラグビーの選手の出すパスはまだそこに誰もいないところに向かって出される。だから、相手も取れない。

まだそこにいない相手に

 パスを送る者も受ける者も動きのエネルギーの方向や大きさを予測し調節しながら試合をしているのだ。それが際どいものほど、スーパープレーということになる。

 恐らくこれはスポーツ以外にも当てはまる。まだ起きていない事態に向かってパスを送る。そしてそれを受ける相手はその場所に最短距離で向かう。これが上手くいけば大きな成果が得られる。

スポーツが人生のヒントになるのは、スポーツが人生の一部を切り取って強調したものだからだろう。複雑な要因の枝葉を落とすことでものごとがわかりやすくなることはある。

極めること

 どんなに下手でも極めることが大事なのだろう。私たちはすぐに他人と比べてせっかく始めたことでも自ら才能を見限ってしまいがちだ。でも本人が続けることに楽しみを感じている限りは続けるべきなのだろう。

 すぐに上達する天才もいるが、それよりも下手でも楽しくやれる方が幸せな気がする。極めることが大事だ。

創作の扉

 私には創作者としての才能はほぼ皆無だが、それでも様々なアイデアが浮かぶときがある。これを逃さなければ作品ができるのではないか。例によってポジティブシンキングの練習である。

 私が学生時代から考えて来たのは現実を少し離れた架空の世界の描写である。もしこうだったらどうなるのか。それを言語化することで現実を考え直すような作品を書いてきた。例えばもし不慮の事故にあいその結果なぜか特殊能力を身に着けたならという仮定は何度もして来た。

 恐らく私の考えるようなことはすでに先行例があり、その中の一部は作品化されている。それを知ると先に発表しておけばよかったなどと無意味な負け惜しみをしたりする。形にしなくては芸術は完成しないのだ。

 馬齢を重ねたが創作者となることの夢は捨てないでおく。それが私にとって生き甲斐になるのなら、妄想は持ち続けるべきなのだ。

解説をしてもらう

 授業では解説をすることが大切だと考えてきた。少し考え方を変えよう。解説部分を考えてもらうことが学習法としてはいいのではないか。

 これまでの流れは、テスト、答え合わせ、他人が書いた解説を読む。試験の直し、の順だった。これを、テスト、答えの提示、その答えになぜなるのかの解説作成の順にすることで、より理解が進むのではと考えてみた。

 そして最終的にはテストも学習者が作るようになれば理解度は上がる。何を聞かれるのかが分かればテストのシステム自体をメタ認知できる。解説をしてもらうことはその一歩であり、やるべきことなのだろう。

宿題のことなど

 夏休みの宿題には色々な思い出があるが、残念ながら細かいことは忘れてしまった。計画的にやればいいものを結局8月の終わりにまとめてやることになって焦り、家族にも叱られたことしか覚えていない。

 宿題は実は何でもいいのだが、形にして残すことが大切だと考える。できれば自ら課題を見つけ、それに対して何らかの考察をし、一定の結論を得ることが夏の宿題にとっては大切だと思う。私は一時期自分が調べたことをもとに自説をまとめることを仕事にしていたので、夏はそれを行う大切な時期だった。最近はそれをすっかり忘れて与えられた仕事をこなすことばかりしている。そこで今夏は自分に宿題を課すことにした。

 まずは自分と同じような仕事をしている人に向けて自分の経験をもとにした助言をまとめてみようと考えている。役に立つかどうかは今考えずにおこう。それが今の自分を見直すことにもつながるかもしれない。それをかならず、文章にまとめることを宿題にしたい。宿題だから期限があり、完成度が低くても提出しなくてはならない。それを8月末日としてみよう。

 宿題をやらなくてはならないと思うと気が重いが、同時に若い頃の焦燥や達成感が戻ってくると思えば楽しみな感じもする。