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シロナ

富山に住んでいたころ、自炊するときによく使った野菜にシロナがある。白菜と書くと別の野菜になるが、実は近種ともいう。巻かないのがシロナであると説明する説もあるが真偽は分からない。ただとてもあっさりした味わいと、煮込むと味が染みやすいのは共通している。

とても安価で申し訳ないほどだった。これを醤油とバターで炒めると結構な美味であった。かさが少なくなるので思いきり使うことがコツだ。魚の煮物に添えたり、新鮮なときはサラダにもした。

ほうれん草は法菜と書かれていた。こちらの方がしっかりとした味があり、おいしく感じたのは言うまでもない。それでもときにシロナを食べたくなるのだが、近隣では売っていないようだ。

イヌサフランもしくはコルチカム

 イヌサフランという名前を持つ秋ごろに咲く花をかつて植えた頃がある。コルチカムというらしい。サフランに似ているがよりバリエーションがあり、秋から初冬の花壇を彩るのによい。

 かつて住んでいたところがこのコルチカムの産地で、近くの園芸店やホームセンターで袋詰めで売られていた。水耕栽培ができるほど生命力が強く、ほとんど何もしなくても開花するのは怠け者にはありがたい。

 ところがこのコルチカムには毒性があり、決して口にしてはならないものらしい。ギョウジャニンニクの芽とよく似た形なので事故例もあるという。花はけっこう綺麗なものだが、それ以上の欲を出してはならないということだ。

 イヌサフランという和名のイヌとはまがいものとか、役に立たないといった意味がある。タデに対するイヌタデのようなものだ。サフランは確かに綺麗だし、雌蕊は天然の食物染料である。ただ、サフランもまた食用になるのはそこだけらしく、他には毒性がある。本家とイヌとの差は人間の恣意的な区別に過ぎない。

 いま植えられる球根は何かを調べていたらサフランの類があると知った。馬鹿げた猛暑が去ったあと、心を慰撫してくれる鉢植えを考えている。今仕込めるのはなんだろうか。

ダチュラ

 近隣に印象的な花を庭に植えていた人がいた。調べてみたらダチュラというのだそうだ。チョウセンアサガオともいう。この異名はかなり興味深く、チョウセンといっても朝鮮とは無関係で、アサガオとは異なるナス科の植物である。植物には罪はない。迷惑な名前をつけられたものだ。

 ダチュラはインドが原産と考えられ、高い気温に適応している。日本には江戸時代に薬草としてもたらされたようだ。次第に観賞用となり、品種改良もなされるようになった。庭に植える人もいるわけだ。

 もともと生命力が強い花らしく、先にあげた近隣の庭にはすでにこの花がないが、道路脇のわずかなアスファルトの裂け目にこぼれ咲きしている。迫力ある花なので誰も雑草扱いしないのだろう。

 ところがこの植物には毒性があり、摂取量によっては死に至る。根がゴボウに似ているとか、ナスの接木として利用するとかがよくないようだ。美しいものには毒がある。

 花が初めは上に向いているのに、次第に下垂するのも面白い。大きすぎる花に進化したのはなぜなのだろう。いろいろ考えさせられる。

ケイトウ

鶏頭、鶏冠とも表記されるケイトウは秋の季語ではあるが、実は5月から10月にかけて長い花期をもつ。今は暦の上では秋であるが、連日35度以上の真夏日が続いている。にもかかわらず近隣の花屋にはケイトウの鉢植えが並んでいる。店頭に置かれた鉢には強い日差しが当たることもあるようだが、特に問題はなさそうだ。

 この植物の原産地はアジアもしくはアフリカの熱帯と考えられ、本来暑さには強いようだ。そのため夏の園芸種としても歓迎されており、しかも秋まで楽しめるのだからよい。逆に寒さには弱いので冬越しはできず、あくまで一年草の扱いである。

万葉集には「カラアイ」として登場する。「韓藍」ということだろう。すでに園芸植物になっていたようで、山上憶良の歌に、

 我がやどに韓藍蒔き生ほし枯れぬれど懲りずてまたも蒔かんとぞ思ふ

 がある。カラアイには恋人の存在の寓意があるといわれているが、やど(邸前の庭)にカラアイを播種することがあったことをこの歌は教えてくれる。この花の鮮やかさは恋人の面影に比するにふさわしかったのかもしれない。

 同じ万葉集の、

 恋ふる日の日長くしあれば我が園のからあいの花色出でにけり

 ここも園芸種とみられるケイトウだ。そしての花の色合いは恋の歌にふさわしかったのだろう。

 鶏頭の十四五本もありぬべし

 という正岡子規の句は賛否両論ある。子規がこれを作ったのは1900年のことであり、早逝した俳句創始者ともいえる人物がこの世を去る2年前の作だ。写生の論を主張した子規にとって十四五本という曖昧さや「ぬべし」という推量表現が観念的だと考えられる理由になっている。でも、この作品の感動の中心は鶏頭そのものにあり、それが複数ある。手指にも足りないほど多くということで、鶏頭のもつエネルギーのようなものに圧倒されていることをいうのだろう。子規の人生と絡めてしまうと余計に痛切な意味を感じるが、それを入れなくともいい句である。

 鶏頭は古来から人の心を揺さぶる力を持っていた植物である。

枯れても負けない

 植木が枯れてしまう現象が続いている。残念だが、ベランダ園芸がうまくいない。おそらく熱心な人ならばこの猛暑でもなんとか乗り越えられておられるはずだ。私のようないい加減な園芸家は水やりや施肥を後回しにするために冒頭で述べた始末になる訳である。

 小さな鉢植えしかない我が花壇にとっては管理の技能がそのまま形になってしまう。園芸は小さな配慮がすべてに関わる。残念ながら無骨を越えて無配慮の私は全滅の失敗を何度も繰り返している。

 植物を育てることはもしかしたらとても大切なことかもしれない。小さな配慮を継続することは処世術の基本ではないか。皆さんにも植物を育てることをお勧めしたい。これだけで幾つかの社会問題が解決する気がする。枯れても負けない。次は枯らさないというマインドが必要だ。

 

薊の綿毛

 道端に咲いていた薊がいつのまにか綿毛をつけて、それが風に舞い出した。蒲公英に比べて大きな綿毛で豪快な感じがする。

 薊には何種類もあるそうだが私が見たのはもっともよく見かけるノアザミだろう。棘だらけでいかにも近づくなと言いたげな姿をしている。ところが古くから食用にされていたようで強力に見える棘は火を通すと問題がなくなるらしい。子どもの頃、天ぷらにしたものを何かの機会で食べたが、その頃の私にとっては旨くも不味くもないものだった。

 ここ数年の暑さで植物のあり方も大きな影響を受けているはずだ。植生も少しずつ変わっていくのだろうか。

駅の紫陽花

駅の紫陽花

最寄駅の構内にある植え込みに咲く紫陽花はこれからが見頃だ。元は日本のガクアジサイであり、それが国内外で品種改良されて今に至るという。シーボルトの逸話も有名であり、この花への接点はいくらでもある。

 その中に蓄える毒のことなど、実に奥深いが、梅雨空の癒しとしてこの花の果たす役割は大きい。地質により色変わりするという繊細な生態も魅力だ。

 紫陽花に救われる日がこれから増えるのだろう。花に報いることはできないが、せめて霖雨の季節を乗り切ることを目指したい。

松葉菊

 愛する植物の一つに松葉菊がある。多肉植物の体をなすがサボテン類ではないらしい。原産地は南アフリカというから、完全な外来種である。

 園芸種としては定番の品種であり、花壇の脇役としてよく使われる。ただ、生命力は強く、野生化しているものもよく目にする。アスファルトの隙間に咲く例もあるから立派な雑草でもある。

 花の風情が菊に似ているからこの名がついているが、花期は春から夏で菊花とは別物である。小学校の先生がこの花が好きであったことを思い出す。もっともその先生はそれを芝桜と混同していたようだ。生命力の強さは松葉菊の方が数段上である。先生は踏まれてもみんなで助け合って強く生きるということを教えてくれたから、松葉菊に違いない。

 先生の思い違いを揶揄する気持ちは微塵もない。植物の持つ生命力、さらには過度な庇護を受けなくても子孫を残す潜在的な能力の大切さを小学生に分かりやすく伝えた功績に感服するのである。

十薬ではなく

ドクダミ

ドクダミはいまの時期ならどこにでも見られる雑草である。毒を矯めるというのが名の由来で薬草としても使われてきた。身近な民間薬である。

 花びらのように見える萼は漢字の十の文字に見えることから十薬の名もある。ところが写真のような5弁の花を見つけてしまった。生物のエラーであろうか。

 ドクダミには八重咲きのものもあり、近隣の住宅ではそれを植えている。雑草から園芸種に昇格しているのだ。植物の品種改良はこんな発見から生まれるのかもしれない。

つつじ

 ツツジが見ごろになっている。街路樹として植えられていることが多く、その鮮やかな色彩は桜とは違う派手な印象だ。英語ではazaleaと言うそうで、鮮やかなピンクの色のこともこの名で言う。韓国の진달래もこの仲間で春を告げる植物と言われているそうだ。躑躅とも表記されて、俳句の大切な季題の一つである。

 万葉集にもツツジが歌われた歌がある。

水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも(巻2)
風速の美穂の浦みの白つつじ見れどもさぶし亡き人思へば(巻3)

 これらはどちらも死者を悼む歌に詠まれている。ツツジには哀悼の意味を感じさせる何かがあったのだろうか。

物思はず 道行く行くも 青山を 振り放け見れば つつじ花 にほえ娘子 桜花  栄え娘子 汝れをぞも 我れに寄すといふ 我れをも 汝れに寄すといふ 荒山も 人し寄すれば 寄そるとぞいふ 汝が心ゆめ(巻13)

 愛しい女性の描写にツツジが使われているから、恋歌の表現にも使われていたのだろう。おそらく元首は古くから日本にあって様々な文学の材として使われてきたことがうかがえる。
 シャクナゲもツツジの仲間なのだそうだ。近隣の庭にさくシャクナゲもそろそろ見ごろになる。