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文化の日

 日本では今日は祝日だ。文化の日という。この祝日は1948年に制定されているが、それ以前にも明治天皇の誕生日として祝日だったことがある。それが文化の日となったのは1946年11月3日が日本国憲法公布の日であったことと関係している。

 文化とは何かについては様々な定義がある。芸術のような高度に洗練されたものももちろん文化的なものであるが、本来人が集まって何かをするとき、そのやり方に一定の方向性があればそれが文化ということになるのだろう。何気ない行動や、日々のルーティンも文化の一つだ。

 文化とはその意味でいえば無自覚で繰り返されているものと言えるのかもしれない。だからその価値も気づかれにくい。気がつくのは自分たちとは異なる文化に出会ったときの違和感がきっかけだ。こんなやり方もあったのかという発見が文化を知るきっかけになる。

 日本人には周囲と同調しようとする心性があるとはよく言われる。周りに合わせることを幼いころから叩き込まれている。だから大きな変動は好まない。これが日本の現状打破を阻む大きな阻害要因だとい指摘も繰り返されている。特に産業界の人はそう言いたがる。ただ、その多くは印象批評的な言い方で本来のあり方を見ているのか分からない。日本の文化が必ずしも同調圧力の中だけでできているとはみなしがたいのだ。

 自国文化を考えるのは自分を見つめなおすいいきっかけになる。

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ハロウィン

 日本でハロウィンが大々的に行われるようになったのはそれほど遡らない。もともと幼い子供の行事として海外の事情に詳しい人たちによって幼稚園などで行われていた。その世代が大人になり、クリスマスまでの空白期を埋める商機として利用されるようになった。

 近年は大人の変身願望、もしくは憂さ晴らしの機会として、この行事が使われるようになった。本来の意味や目的はすでにどうでもよくなっている。こうしたことはこの国の得意な文化摂取であり、それ自体は特に問題はない。

 ただ、変身してもそれが仮装であるということを忘れては困る。化け物のメイクをしても本体は依然人間なのだから、その掟に従わなくてはならない。仮面のもとに免罪符を渡されたように感じていたら、それこそ本当の化け物なのかもしれない。

日本型メロディ

 筒美京平さんが亡くなったことを記念していわゆる昭和歌謡がラジオに流れる機会が増えている。懐かしさとともにそこには厳然とした日本型メロディがあると実感した。これを世界にアピールすべきではないか。

 戦後の日本文化はアメリカを中心とした海外要素の模倣と和風化の流れがある。単なるコピーにならないのは、伝統的な日本型旋律の影響や、日本語の歌詞を乗せるという制約のもとに発展してきたからだろう。だから例えば西洋の楽曲をそのままカバーしたような曲でも日本でヒットするのはかなりの和風化が施されたものだ。

 それをまがいもの扱いする時代もあったが、いまとなってはその独自性こそが貴重なもののように感じる。こだわりなくいいとこ取りをしたようなメロディラインや、エモーショナルな響きを重視する曲作りなどは日本楽曲の特徴であり、海外にもっとアピールしてよいのかもしれない。

 評価されるべきものがされていないことが問題かもしれない。これは楽曲の話だけではない。

英雄中毒

 トランプアメリカ大統領のパフォーマンスを英雄信奉精神の表れと評す人がいる。コロナウイルス罹患を敵に見立てそれを克服したかのように見せかけるスタンドプレーに辟易した人も多いだろう。ただこれはアメリカ人の基本的な思考の一つであり、個人の問題ではなさそうだ。

 英雄は危機的状況においてもっとも目立った仕事を行う。逆境に負けることなく、力技で形勢を逆転する。弱みは見せず立ち向かう姿勢こそが英雄の資質なのだ。その結果、多くの人が救われることになる。

 ただ、英雄は正義の名のもとに破壊行為も行う。正義の行動に巻き込まれて死傷した人は尊い犠牲なのだ。場合によっては彼らも英雄チームに加入させられ、不合理な結末が隠蔽される。そして多くの人がそれに見事に騙されてしまうのだ。

 アメリカは英雄信仰が強い国民性を持っているのかもしれない。少なくともそういう思考経路をとる人が一定数存在する。ただこれはアメリカだけのことではない。呼び方は様々であっても、英雄信奉の考え方はどこでもあり、多少の濃淡はあるが、共通するのは自己目的達成のための犠牲を無化しようとする発想だ。

 かくいう私もヒーロー好きな子ども時代を過ごした。今でも心躍るものがある。ただ、最近はウルトラマンが怪獣退治のためにどれほどの建物をなぎ倒し、何人を踏みつけて圧死させたのかが気になるようになっている。

ハンコ

 行政のデジタル化のシンボルとして、ハンコ文化の廃止とデジタル署名促進とがある。稟議書に並ぶ肩書ごとの押印の列は日本経済界の悪癖として捉えられることが多い。

 もっとも押印の文化は古代から継続するものであり、近代社会にのみ責任があるわけではない。印鑑の持つ権威を共有する人々にとっては便利なアイテムであることは確かだ。また、複数の関係者に文書を共有し、納得させるという工夫として機能してきた。言質をとるよりずっと強制力のある同意確認として。

 デジタル化することは私も基本的に賛成だ。文書を回す時間のロスは蓄積すれば相当な長さになる。ただこれは効率だけの話で終わらない。LINEが普及した一因としてスタンプ機能があった。自らの感情を既定の型で表現することが習い性となっている日本人の根元にふれる意識改革が必要なのかもしれない。

選べる楽しみ

 私たちが思う贅沢の一つに選択の喜びがある。総体として高級感が今ひとつでもたくさんの選択肢が容易されているとそれだけで満足感が高まる。これは幸福感を考える上で大切なのではないだろうか。

 寿司は生魚を乗せた酢飯であり、料理としてはシンプルである。もちろんそれゆえに個々の作業が洗練され、店によって大きな違いが生まれている。ただし無粋な言い方を敢えてするなら、料理のやるべきことは限られている。

 それなのに寿司屋に行くと得られる豪華な感覚は自分で多くの食材の中からほしいものをその都度選べることにあるのだと考える。これは顧客満足度を上げる有効な手段なのではないか。

 このような選択度の提供は我が国のサービス業の随所に見られる。実はほとんど既成品でも最後の選択に自分が絡んだということが、魅力を倍増させるのであろう。

融合する力

 新しいものを作り出すことは容易ではありません。無から有を生み出すことを目指すよりは今あるものを組み合わせたり、取り合わせたりすることの方が結果的に新境地に達する可能性を高めます。

 もともと日本という国は地勢上、新発見や発明をするには不利なので、外来のものを自分流に組み直すことをしてきました。物資が限られている中で最大限の効果を発揮できるアレンジをして凌いできたのです。

 私たちはそのことを思い出す必要があります。外来のものをそのまま受け入れるだけではなく和風化するたくましさを取り戻すべきです。現在、世界的評価を受けているものの大半はこの日本アレンジの産物です。文化を融合させる能力を再評価すべきだと考えるのです。

夏越の祓え

 日本の古い習慣に「夏越の祓え」があります。これで、なごしのはらえ、と読みます。19世紀以前の日本では月の満ち欠けを基準とした太陰暦が使われていたため現在とは実際に指す日時が大きく異なるのですが、6月末日は意味のある一日でした。

 夏越の祓えは旧暦では夏の最後の日とされていました。またそれまでに犯してしまった罪や穢れを消し去る儀礼が行われたといいます。それは身体についたほこりでも落とすかのような気楽な罪悪感です。もちろん、どれほど真実として受け入れていたのかはわかりません。呪いの一つのようなものだったのでしょう。

 一年の折り返しに身を清めてリセットをしようという考え方の方に注目します。半年という意識がどれほどあったのかも興味深い。また、清めた身体が様々な能力なり活力なりを復活できると考えていたのかも知りたいことろです。

 旧暦の6月末日は今年の場合は新暦8月中旬であり、古人の祝った日とはほど遠いのですが、半期に一度の心の大掃除の日ということにして今日を送りたいと考えています。

蒸し暑い日

 日本の夏は湿度が高く、気温以上の圧倒感があります。いわゆる不快指数の高い日が多いのです。これは宿命ですが試練でもあります。

 梅雨前線が列島にかかると、それをめがけて吹き込んでくる太平洋の湿気を含んだ温風が気温と湿度を一気に押し上げます。今日は昨日より最高気温が10℃以上上がるとのことです。マスクのそうでなくても違和感が強い状況を助長する環境になりました。

 気持ちの上で涼をとる方法を文化的に育んできたのが我が国の伝統です。色使いやデザイン、質感、配置など実際の温度を下げる効果がなくても少しでも涼感を覚える方法を育ててきたのです。何でも物理的に冷やせばいいという昨今の方法は、結果的に放射熱を生み出し、気温上昇の原因となる悪循環を招いています。

 先人の知恵に学ぶべきは学び、この国の夏に立ち向かい、共存していこうと思いを新たにしています。

色のイメージ

 国旗に使われる色にはそれぞれ込められた意味があるといいます。フランスやイタリアなどのように色彩に託されている意味が深いものはそれを知ると強い説得力を示します。

 ただ色彩が惹起する印象が民族によって異なるのも確かです。欧米の一部の民族では緑に嫉妬心を読み取るのだそうです。この感覚は私にはありません。見ているものが同じでも感じることは異なるという事実はいつも意識していなくてはなりません。

 色の分節についても共通していると思いこんではいけないようです。日本の古代では青の指す範囲はいまより広いようですし、虹が何色かという国際比較にも興味深い結果が出ています。通時的にも共時的にも色彩の区分は様々です。細かいことを言えば色覚の個人差も考える必要があります。同じ世界を見ているというのは幻想なのかもしれません。

 色分けは日本語では分類そのものを表す言葉でもあります。その色分けが極めて個人的な判断によるものである事を再認識しておきたいのです。