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見せ方

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 スタジオジブリの作品の世界観をテーマパークにしたジブリパークが開園したという。日本のディズニーランドとなるのか短命で終わるのかはこの後の見せ方によっている。

 愛知県長久手市の愛・地球博の会場跡地の公園に作られたジブリパークは一部の施設だけが開業した。ジブリ作品の世界を再現した施設が中心で、乗り物などの設備はないようだ。ジブリ作品を見たことがある人であれば、作品世界の中に入り込んだような錯覚を得られるならば、行く価値はある。ただ、それだけであると繰り返し訪れることはないかもしれない。

 この中にはオリジナル作品を見せるコーナーもあるという。ここだけでしか見られない短編作品だ。これが定期的に変更されるのならばリピーターを生み出す可能性はある。媒体販売やネット配信などもしない。行かなくては見られないものが必要だ。新作を作り続けることが無理ならば、過去の作品のメイキングや再編集でもいいだろう。いわゆるディレクターズカットならば意味がある。

 さらに単にかわいいキャラの並ぶ場所だけならば、やがて飽きられるかもしれない。ジブリ作品には隠されたメッセージがあるものが多い。それを分かりやすい形で示すものもいいだろう。ディズニーランドにあるスモールワールドの展示は世界平和の意味を分かりやすく示している。こうしたものはむしろジブリ作品の方が豊富だ。これをわざとらしくではなく作品世界を傷つけない範囲で示すことも忘れてはならないだろう。テーマパークは単なるモチーフ展示ではない。

 日本のテーマパークのほとんどがうまくいっていない。それにはいろいろな要因があるが、コンテンツ的には申し分ないジブリパークは成功する可能性は多分にある。世界から人を呼べる場所になる可能性もある。ただ、これまでのような単なるキャラを並べる展示とどこにでもある乗り物しかないのなら短命になるかもしれない。要は見せ方による。うまくいけばスポンサーもつく。私は一度見てみたい気がしている。

懐かしい曲

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 ネットラジオから昔聴いて感動し何度も聞いた曲が流れてきた。久しぶりに聞くと確かにいい曲だと思うが新しい発見もある。

 流行歌ということばがあるが、流行にはいくつかの要因がある。楽曲のよさはもちろんだが、それに加えて聴く側の環境、時代、世相などの要因が絡む。世間的な流行はなくても個人的に魅了される歌というものもある。それも、聞く側の問題が大きく関与している。だから、自分の要因が変わってしまうと聞こえ方も変わってくるということになる。

 昔聞いていた曲は概して単純で素直なものが多い。メッセージが分かりやすい。メロディーラインも素直だ。それでも十分にドラマチックであり、叙情的だ。そこに惹かれたということだけは思い出せる。しかし、なぜ妄信的にのめり込んだのかよく分からない。それが楽曲なのだろう。

文化

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 日本では文化の日という祝日がある。そしてそれは今日だ。文化となにかを考える一日ということになっている。

 11月3日は明治天皇の誕生日としての天長節、崩御後は明治節であった。1946年のこの日に日本国憲法が公布され、憲法の精神に文化の尊重があることから1948年から文化の日となった。5月3日の憲法記念日は1947年5月3日に施行されたことによるものという。ならばこの文化とは憲法と関連する由来を持つものであることになる。

 憲法第25条には、
(1)すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
(2)国は、すべて の生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 とあって、文化的なという言葉がある。この条文は生存権と分類されるものであり、最低限度、つまりここまでは死守しなければならないという枠組みに文化が使われていることになる。

 換言すればただ生きているだけではなく、衣食住が足りている身体的安全が確保され、なおかつ精神的な豊かさもなければならないというのだろう。ここでいう文化は芸術、レジャーという範囲だけを指すものではなさそうだ。もと切羽詰まった問題も含む。例えば個人の生きる価値を見い出せるかとか、多様性を認められるかといったことも含まれそうである。生存権の規定は第2項の社会保障の問題と深く関連しており、しばしば訴訟の根拠とされている。

 文化という言葉の持つ幅広さはいろいろな解釈を生み出す。もともとの漢語の語義としては教養に近い概念である。それが西洋の概念である精神向上のような側面を融合したことで複雑になった。今使われている文化とは一定の社会集団のなかで共有されている知識や行動様式、生活様式などのことを指している。地域文化のように場所で、また若者文化のように世代で共有する場合もある。江戸文化というときは時代に関わる。様々なくくりがあってそれらが複合することもある。

 共有されていることすら気づかないことも文化と称されることもある。食文化などは同じ集団の中ではほとんど気づかれないが、旅をするとそれが文化であることが表面化する。その他の要素もほかの集団にであって意識される。カルチャーショックという言葉がそのとき使われる。

 生存に欠かせない文化とは何か。これらを組み合わせると、ただ生きているというだけではなく、自分の属する集団の中で当たり前だと思われることができることになる。自分とは異なるやり方をしている人たちがいることも知り、それを寛容する。それらが果たされなくては生存していることにならないということなのだろう。

名曲喫茶

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 高校生の頃、友人に連れられて名曲喫茶に行ったことをふと思い出した。何とも不思議な空間だった。

 渋谷駅のすぐ近くにあった店は、いまは全く別の建物に建て変わっており、面影は皆無だ。細い階段を上がると薄暗い店があり、交響曲やピアノソナタのレコードがかかっている。友人は曲名を即座に口にしたが、合っているのかどうなのかも分からない。聞いたこともない作曲家の名前だった。

 メニューはホットコーヒーしかなく、座ると蝶ネクタイをした店員が最低限の言葉だけ言って、その後コーヒーを持ってくる。当時はブラックは飲めなかったので、砂糖を入れるとかき混ぜる音が響きわたるほど店内は静かだ。他の客は文庫本を読んでいるのか、目を閉じていた。男の一人客が多く、高校生は他にはいなかった。友人は楽曲の情報をいくつか呟いて満足そうだった。そのほとんどが理解できない言葉だった。

 皆で同じアナログのレコードを聴くということは現代では殆どない。ましてそれがビジネスになるとは思えない。当時はオーディオブームがあって家庭でもこだわりの機器を揃える人もいた。逆に言うと再生に関わる設備の質に顕著な差があったということであり、自宅にステレオがない場合は名曲喫茶で聴くという需要があったのであろう。加えて音楽好きの醸し出す雰囲気に埋没するという目的も加わる。

 現在は音響機器も発達しデジタルディバイスも各種ある。その質も底上げし、AMラジオの音質に耐えられる人はもはやいないだろう。昔ならハイレゾとでも言っていた高音質の環境に慣れきっている。しかも様々なチャンネルや、サブスクリプションの中から選び放題の中で、他人とともに自分が選曲していない楽曲を楽しむということに金を払う人がどれほどいるのだろう。いろいろな意味で名曲喫茶の復活は難しいかもしれない。

 懐かしい過去の風景の中にあったものは、今では存在しえないものもある。

所作の地域性

ヒロインはどう振る舞う?

 喜びや驚きをどのように表現するのか。それは考えている以上に文化的な差があるようだ。その事実はなかなか表面化しない。

 感情に合わせて身体が動くことは誰もが体感できる。ただ、その動き方は文化の差がある。喜怒哀楽をどのように表すのかは文化圏の中で伝承されている。非言語の伝承は明示的にも、非明示的にも行われる。このうちの無意識の伝承は厄介だ。伝えている方も伝えられる方もその意識がない。だから、何かきっかけがなければ意識されない。

 私が気づいたのはディズニーのアニメーションを見たからだ。ヒロインが何かを語るときの姿勢がどうも不自然に感じたのだ。不自然というのは動きがぎこちないというのではない。むしろ動作はなめらかで人間が演じているかのようだ。不自然さはその所作が現代アメリカ人の典型的なものになっていることにある。この時代の、この地域の人はそうは振る舞わないだろうと予感しうるのだ。

 ディズニーは決して綿密な時代考証は目指していない。ストーリーのテーマ性が確保できればあとは何でもいいのだ。文化剽窃の可能性があるがすでに型ができているディズニーはその方面でとやかく言われないだろう。

 ラプンツェルやモアナが現代アメリカ人女性の典型的な所作をしても、多くの人は気づかないのかもしれない。でも、一度気づいてしまうともう気になって仕方ない。所作には明らかに文化差がある。

芸能の海外展開

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 日本の芸能界は国内では有名でも海外では通用しないということが多い。これは日本国内で十分な市場があり、満足できる成果が出ていたからに相違ない。それはそれで幸せなことだと思う。しかし、今後のことを考えれば海外展開を考えるべきではないか。

 いわゆるシティポップと呼ばれる日本の歌謡曲が海外で評価されているらしい。日本の音楽は海外の様々な要素が取り込まれており、その上に日本テイストが盛られているため独自の楽曲になっているという。それが海外では目新しく感じられ、評価される原因となっている。さらにアニメに関連する音楽やファッションなどはユニークな日本文化と認識されている。ならば、これらを海外でパフォーマンスするアーティストがもっと出てもいいのではないだろうか。

 韓国は芸能界が一定の成功を収めている。国家の補助も奏功しているかもしれないが、背景には国内だけでは十分な利益を上げられないというという制約がある。だから、海外で売る。グループに必ず、英語や日本語、中国語ができるメンバーを入れる。初めから海外展開を前提とした活動をしているのだ。この考え方は日本には今まではなかった。外国語ができる芸能人は特別扱いされ、できすぎると親近感がない存在になることさえあった。実は中国語ができても、フランス語が話せてもそれを武器として活動するという者は少なく、そうしたスキルは隠し持つものであった。日本には十分なファンの数がおり、利益を上げるのにリスクをとって海外展開する必要はなかったのだ。

 これからはわが国も海外に展開せざるをえない。人口減や経済の低成長による購買力の減退は、生活必需品以外の製品は手に入れようとしないことにもつながる。そんな中でアーティストが生き残る策としてユニークさを維持しながらグローバル展開をすることにある。少数ながらそういうアーティストが現れつつある。彼らのことをもっと知るべきだろう。

カワイイ効果

Cute

 現代日本の価値観に可愛さというものがある。これは世界に通用する一種の美意識とも言えるかもしれない。

 無骨な機械を作ってきた職人たちもなぜか完成した機械に名前をつける。それも可愛らしい人の名前だ。名付けすることで高性能なマシンが親しみやすいものになる。こんなことを繰り返してきた。

 デザインにも可愛らしさを強調する。暖かい原色の多い配色や、大きな目をつけるといったことはいろいろな製品に見られるものだ。これは趣味という領域を超えた文化のようなものかもしれない。皆さんの身近にもカワイイ品物はきっとあるはずだ。

 可愛さは幼児性を伴うのでやめたほうがいいという考えもある。しかし、可愛いデザインが狙っているのは実は別にあるのは明らかだ。これは使いやすさを高めるための機能的目的で施されている。高性能なマシンでも使いにくければ意味がない。まずは心理的な親和性が大事なのである。この戦略は利用しない道はあるまい。

 可愛らしさの基準は人によって異なる。だから、誰もがアニメのキャラのようにする必要はない。どこかに取っつきやすい柔らかなデザインを施すのが、日本のものづくりの重要な方策ではないか。

You can’t miss it.

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 外国人の入国者が急増しているようだ。水際対策を緩和したことで日本はお安くお得な観光地になった。何度も書くが外国人の立場になれば今がチャンスだ。自国のインフレの影響が生活を苦しめる前に日本で憂さ晴らしをしておこう。

 そんなわけで外国人に道案内をする機会も増えるかもしれない。最も最近は英語ができる日本人は増えているので大丈夫だと思うが、私はちょっとおぼつかない。いや大分不安だ。英語は長い間学んできたが、話す方は特にできない。いろいろな人に聞いてみると、会話力は実際に話す機会がないとつかないという。いくら本で学習しても実際に話す機会がなければ習得はできないというのだ。逆に書けなくても文法が分からなくてもとにかく話せるという人はいる。確かに日本語の文法を理解して日本語を話している人などごく少数だ。

 道案内をした後の決まり文句がYou can’t miss it.であることは知っている。そこまで案内ができるだろうか。自分のミスの方が心配になっている。

筆記体

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 アメリカの若者は筆記体で書かれた文章を読むことができないという記事を読んだ。手書きの文字を書く機会が減った現代において、筆記体が衰退するのは当然の成り行きだ。私の知り合いの外国人も筆記体で文字書くのを見たことがない。ブロック体かその変形である。

 この現象に対してアメリカの一部の知識人は、過去の文献を直接読めなくなるのではないかと危惧の念を示している。歴史的な文化遺産を直接読み取ることができないのは文化的な損失が大きいというのである。一部の地域では学校教育のなかで筆記体の読み書きを復活することを検討しているという。

 これはよそ事ではない。日本語においても江戸時代以前の写本や版本を直接読むことはかなり難しい。私のような古典を学習したものでも江戸の版本までは何とか読めるが、写本となると怪しく、それ以前の時代のものになると字書なしでは読めない。読めるのは研究者に限られている。

 そんなに昔の本でなくとも、昭和の文章でも行書で書かれた文字が読めないという若者は増えている。草書はたしかに書道の心得がなければ読めないのは分かる。しかし、行書は読めるはずだと思うのは思い込みである。若い世代は活字(正確にはスクリーンに表示できる文字)を通して日本語を学ぶ。他人(同世代ではなく上の世代)の書いた手書きの文字を読む機会はほとんどない。だから、「令和」の「令」の字の最後の画が斜めになっているのと真直ぐなのは同じ文字なのかという疑問が生まれる。「葛」の字形もそうだ。英語より文字の種類が多い日本語において、過去の人が書いた文字が読めないという問題はより深刻であると考える。

 これに対しては、手書き文字の文化は切り捨てていいという考え方もできる。私はそうは思わないが、昔の人が書いた手紙や原稿を読むのは専門家だけだからそのほかの人は行書のようなくずした字は読めなくていいし、書かなくていいという考えだ。字が汚くて読めないという問題は、今後は誰もがコンピュータやスマートフォンで入力していくようになる。その中には音声入力もあるからもはや文字を書くことにこだわる必要はないというものである。

 一見未来志向で現実的な考え方と思われるのだが、いろいろな研究から手書きで文章を書く方がものを深く志向する際には効率がいいとされている。これからも「紙に」であるかどうかは怪しいが直に文字を書くことは当面続くはずだ。

 話は戻るが過去の人が書いた文字を読めなくなるということはやはり大きな損失である。その意味において、教育の場でもまた家庭の中でも手書きの文字を読み書きする機会をもっと増やしていった方がいいのではないか。デジタル化に反するようだが、教育効果や文化の継承という面を様々考えるとその方がいい。

なぜ風は吹くのか

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 小説などを読むとき、あらすじを大づかみにとらえて読むのは、一つの方法としてはいいと思う。ただ、単なる事実の因果関係だけを追っていても、作品の世界は理解できないこともある。

 例えば、ストーリーの途中に風が吹くという表現があるとする。風自体は登場人物になんらの作用も及ぼさない。その後の展開にも風が原因で起きることはないとする。こういうときになぜ風の描写があるのかを考えるのが読書の楽しみだろう。

 つまり、作家は何らかの意図をもって場面を設定するということだ。無意味な描写はその意味ではないことになる。なぜ天気が雨なのか、舞台はなぜ港町か、朝の場面がなぜ必要かなど考えてみるとより深い読みができる。もちろん、作家にインタビューでもしたら、気分でそうしたんだなどとはぐらかされるかもしれない。ならばその気分の内容を小説をとおして読者は考えるべきなのだろう。

 小説のあらすじを知ってすべてを理解したようにすること、ビデオを早送りして筋だけ確認する人など、こういう点も考慮してほしいと考える。