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後生畏るべし

 私の最近の座右の銘は「後生畏るべし」なのかもしれません。あいまいな表現になっているのは結果的にそう考えているというものであるからです。次世代リーダーの輩出こそが責務と考えているのです。

 生徒諸君は多くが未完成で成長段階にあります。しかしそれは発達段階上の現象であり、自分より劣っているということではありません。昔より今の子どもは様々な点で恵まれている。だから苦労を知らない。苦労していないから自分より劣っているなどいう思考回路は私たちの陥穽にあたります。どうして自分より劣った世代が次の世界を担えるでしょうか。少なくとも自分たちよりは困難な状況が予測される将来を担う人材はもっと優秀であらねばならないし、現にそういう人材が生まれつつあるのです。

 だから生徒に接するととき、今は教員と生徒という立場にありますが、時間が経てばそれが逆転するかもしれない。いや、なるべく早く逆転できるように接していかなくてはならないと考えます。自分を超えた存在をいかにしたら生み出せるのか。教育の根本理念をもっと考えていかなくてはならないと考えています。

 そのために最低限必要なのは生徒に敬意をもって接することではないでしょうか。自分より劣った自分以下の存在を教化するのではなく、自分を超える存在が成長するのを手助けするという考え方こそ今の教育界に必要な考え方なのです。

付き合って考える時間を

 英語の4技能をいかに育成するかという議論が、大学共通テストの運営の問題でおかしな方向にそれつつあります。そしてそれ以前に母国語の4技能も怪しいのではないかという危惧も生まれています。

 PISAの試験結果によれば日本人の読解力の低下が懸念されるという結果が出たとのことです。国際比較試験はその測定方法に問題点も感じるので、その結果そのものが事実を反映しているのか否かについては慎重であるべきです。ただ、実感としても若年層のみならず、大人世代以降についても読解力の低下がもたらす弊害が随所で出てきている気がしてなりません。大きな原因は文章をしっかりと読む習慣が減りつつあることに相違ありません。

 日本の産業界の悪習として無駄な説明書を作りすぎるということがありました。その反省からいまは直観的に操作できる機械とか、説明なしに始めてしまう社会システムが優先されています。それはそれで素晴らしいことなのですが、個々人が説明を理解することなくなんとなく始めてしまうということが増えています。またその方法について話し合うとか教え合うということもあまりなされず、個々人の試行錯誤に任せるという風潮にあります。こうした中では文章を読んで理解したり、互いにコミュニケーションをして答えにたどり着くということが行われなくなります。自然と読解力、理解力の育成される場がなくなっていく状況にあります。そして、この方法を大人たちは子どもにもそのまま当てはめてしまっています。

 子どもたちの読解力低下をスマートフォンなどの情報機器のせいにするのは簡単ですが、それ以前に子どもにものを考えさせる機会を奪っている大人たちの責任も考えるべきではないでしょうか。情報さえ与えれば子どもはそれを勝手に理解できると勝手に考えている。そして、子どもの疑問に付き合い、ともに考え、答えのヒントを出していく過程を今の大人たちはほとんど放棄している。それが読解力とか話の内容を理解する力を身につける機会を奪っているのです。

 将来のこの国のあり方を真剣に考えるのならば、大人は子どもの置かれている学習環境にもっと関心を持つべきです。そして特にコミュニケーションの分野においては学校任せにせず、もちろんそれ以前に機械任せにせず、家族とか社会全体で将来の世界を担う人物を育てるという視点を持たなければならないでしょう。子どもたちに考えさせる時間・場所をそれぞれの立場で考えなくてはなりません。

廃棄を防ぐ

 大量消費、大量廃棄が当たり前だった時代は終わろうとしています。環境の維持は至急の命題ですが、経営的にもいかに無駄なコストを下げるかが重要になっています。そのために各業界でいろいろな試みがなされています。

 教育業界では紙面の無駄遣いを考えなくてはならないと思います。何でもデジタル化すればよいというものではありませんが、必要ではないものは印刷しなくてもよいと考えます。小テストなどはいわゆる裏紙利用も積極的にしていこうと考えています。また、ちょっとしたメモなども再利用の紙でできます。再利用するためにはサイズを揃えて、しかもすぐに取り出せるようにしておくことが必要です。

 生徒が落とした筆記用具などの文房具などもなるべく取りに来させるようにさせなくてはなりません。身近なものを大切に使わせることは大切な教育です。どうしても引き取り手のないものは、必要な人に使わせることや寄付できるものがあれば積極的に行うことも重要です。

 コンビニ業界では恵方巻などを注文販売にしたり、賞味期限の近いものを値引きすることなどの工夫がなされると聞きますが、学校でそうした試みをすることは教育的な効果もあるはずです。色々と工夫をしていきたいと考えています。

読書推進

 読解力の低下が話題になっています。中高生だけではなく、大人世代にも共通する社会問題です。

 読解力の低下が読書の習慣がないのと相関関係にあるというのはおそらく事実です。文字だけの情報から発信者の意図をくみ取るのには、経験が必要です。特に文章を構造的に把握する力は纏まった本を読むことで培われるものです。では本を読みなさいというだけで事態は解決するのかといえば、そんなに簡単なものでもありません。

 私たちは興味のあることには時間を忘れて熱中することができます。読書に熱中するためには興味のある内容を読ませる必要があるのです。読ませたい作品があるのは事実であり、それが一定の効用を持つのが明かでも、読書を押しつけるだけではならないのです。

 興味のある本を選ばせて読ませる時間をもっと与えなくてはならない。そのための工夫も必要になるでしょう。

自由に学ぶ

 学びを行うときに何かに囚われたり、制約を受けたりするとうまくいかないことがあります。学ぶ際には自由が必要です。

 とはいえ、全くの足かせなしではなかなか学びは発動しない。何か目標を持つことで学習の意欲が生まれます。何でもやっていいとだけ言っても、結局何もやらないということになりやすい。教育の場においてはやるべきことがあります。

 学びだすまでのきっかけをいろいろと作ってゆく。それが中等教育の第一の使命だと考えます。そして、自由に学び出す動機づけをしていく。そのための基礎学力や学び方を教えていく。それがやるべきことなのです。

記述式もやめるならば

 来年度実施の大学共通テストは、英語の外部試験の中止に加えて国数の記述入試もやめることを検討しているという報道があります。記述試験には出題形式や採点方法などに多くの疑問がありましたが、これもやめるとなれば新入試はあまり意味のない改革になってしまいそうです。

 ただ少し気になるのはすでに走り出している学習指導要領の改訂にともなって国語分野では文学作品の学習が軽んじられる可能性が高いことがあります。共通テストの国語問題のサンプルでも契約書や図表などを参照しながら解く実用的文章と称するテキストが問題文となっており、国語能力の育成とは程遠い内容になっていました。記述式をやめ、問題が実用性の高いテキストを読む問題になるならば、ますますこの国の国語教育は衰退に向かうような気がしてなりません。

 共通テストの国語は基礎的論理思考能力を試す問題と位置付け、問題をもっと簡潔にしてしまうのも手であると私は考えます。国語の問題を全国の受験生に均等に出そうと思うと無理がある。ここでは一定水準の文章が読めて、理解ができるかだけを問えばよいのです。記述試験のような判定が困難なものは二次試験に回すべきでしょう。

 記述式をやめるならばせめて国公立大学の二次試験は思い切った改革をするべきです。面接や論述試験の度合いを高めて、学部ごとに自分たちがとりたい生徒の学力を測っていくべきでしょう。大学学部によってどのような記述力が必要なのかは違うはず。それをそれぞれの学部の判断で「主観的」に選べばいいのです。全国一斉テストの役割と個別試験の役割はこのはっきりと分けた上で、2次試験を重視する方法をとっていくべきだと私は考えます。

説明できること

 何が正解なのかは分からないけれども、それが正しいであろうと他者のほとんどに説得できることが大切になっていると考えます。

 決まった答えはないというと、何でも答えになるかのように受け取られ、ならば考える必要はないとまで考えてしまう。しかし、答えはないのではなくてやはりあるのです。それが何であるのかいまのところは決められないというだけです。

 決まった答えがない問いに対しては、自分がこれこそは正解だと考える答えを考え、それに同意してくれる人を増やすことができるのかが肝要となります。そのスキルこそこれからの社会で必要な能力です。

 読解力の低下がピサの試験で明らかになりましたが、人に自説を説得する能力は読解力と表裏の関係にあります。危機感をもって教育にあたる必要を感じています。

夏休みまで待てるか

教員の長時間労働を法的に容認するかのような法案が国会で可決しました。超過勤務を認める代わりに、夏休みなどの閑散期にまとめて代休を取得できるようにするというものです。あまり教育現場に詳しくない方が考えられたのでしょう。

 閑散期的なものとして思い浮かぶのが夏休みなどの長期休暇です。授業がないので教員は暇なように感じる方もいらっしゃいますが、教職員は夏にいろいろな仕事をしています。部活顧問であれば、練習の監督、指導、試合やコンクールへの引率、合宿あれば二十四時間労働になります。研修は自主的なものが多いのですが、教育としての技能を高める大切な機会です。

 法案の問題点として休みをまとめて取れば事態が解決するかのように考えていることがあります。総体的に労働時間の問題が解決されたとしても運用していくうちに必ず問題が発生します。果たして長期休暇まで休まなくてもよいのか。私たちは日々の過労に耐えられるのかということです。

 実際にはほとんど存在しない閑散期と、非現実的な休みだめ策は、現場の実状から著しく乖離しています。教育のことを考えるならば、教科教育担当者と、生活指導担当者、教育経営担当者を分業してそれぞれの技能を高めるとともに労働時間を限定することの方がうまくいく気がします。

期待感の演出

 私たち教員にとっては毎日必ずしも理想的な生活ができているとは限りません。メディアで報道されているほどブラックな職場ではありませんが、残業や休日出勤が当たり前の職場環境であることは確かです。ただ他の業界と少々異なるのは強制されてやるというよりは自主的に行っている人が多いということでしょうか。もちろんそれは私の職場だけの現象かもしれませんが。

 そんな中で生徒諸君に君たちの未来は明るいぞというのにはちょっとした覚悟と工夫が必要です。先生になりたいという人がどんどん減っているのは、教員の仕事がいかに大変かを目にしているからであり、ある意味なりたくない職業の手本となってしまっているのかもしれません。教員だけではありません。働くこと全般に対して、人生を考えることに対して現在の日本社会では悲観的な側面で語られることが多いような気がしてなりません。

 それでも教育者たるもの、やらねばならないことがある。それが期待感を演出することです。生徒に勉強をさせるための手段は数々ありますが、もっとも有効なのは自分の将来に今の学習が何らかの形で役立つという実感でしょう。今はやりたくない宿題をやっていても将来はそれが基礎となって役立つときがくる。そう実感できたときにやる気のスイッチは入るのです。そのスイッチをいれるのは教員の大きな役目なのでしょう。

 私のように数学が苦手で、中高時代には苦しみぬいたものでも、いま成績処理やちょっとした表計算ソフトの関数などを組み立てる時に数学的な思考が利用されていることを実感します。もう少し数学的思考ができれば人生の損失も少なかったのではと思う場面も多数あります。論理的に物事を考えるということに数学は必要です。英語はいまだによくできませんが、職場でも英語話者と仕事をするようになり、必要な時には使う場面があります。これももう少しやっておけばよかったと思うことが多い。なによりも英語が理解できれば、英語でしかとらえることができない世界をもっと受容できたはずだったと思うと無念ですらあります。そのほかの教科についても同様のことがいえます。

 このような後悔を生徒に話すのも手だとは思いますが、それに加えて将来に学習がどう結びつくのかを具体的に示すことも大切だと思います。普段から、日常生活の各場面において過去の勉強がどのように役立っているのかを言葉として子供に示すことが大切なのでしょう。私たちは自分のやっていることをいちいち分析はしませんので気づかないことが大半なのですが、たいていの活動は中学生くらいの知識をベースにして行っているのだと思います。このことを大人はもっと子供に語る必要がある。これは教員でなくてもできることです。

 われわれといまの中高生との大きな違いは、将来の職業観に決定的な差があることです。昭和世代の学習目標はよい大学にいけばすばらしい人生が待っている、ということに集約できました。学歴がかなりの度合いで人生を決めていた時代だからでしょう。でも、いまの若者は常日頃から次のようなことを聞かされています。「今ある仕事の大半はなくなる」と。

 AIが発達し、やがてシンギュラリティが訪れるといまある常識はほとんど通用しなくなる。勉強することも意味がなくなるのではないか。無理して漢字を覚えなくても、英単語を学習しなくてもいい。計算練習なんて無意味だ。みんなコンピュータがやってしまうのだと。

 そういう時代が来るのは避けられないとしてもやはり基礎的な学習はしなければならない。精巧なロボットができてもそれを操るのは人間でなくてはならない。操られる側になってはいけないんだという危機感を生徒に伝えなくてはならないと考えるのです。期待感というよりは危機感になってしまいますが。

 整理します。生徒の学習動機を促進させるさせるために教員や親、社会の人々全体で、子供たちの未来への期待感を演出していく必要があるというのが今回の趣旨です。大事な後継者を育成するためにも大人がへこたれていてはいけない。いまある基礎学習を大切にして、次の時代きり開く叡智を生み出すきっかけにしてほしいというメッセージをさまざまな形で出し続ける必要があるのです。

読み込む

 来年度から始まる大学共通テストへの批判が続出しています。英語の外部委託試験は延期されましたが、国語の記述式問題のアルバイトによる採点もやり玉に挙げられています。

 学習塾や予備校の実施する模試や、通信添削などはすでにたくさんのアルバイトが使われており、人選についても簡単な操作しかなされていません。これまでに示されているモデル問題では、記述式といってもかなりの程度形が誘導されており、多様な解が出ないように工夫されています。もはや記述とは言えない域なのかもしれません。

 問題文や資料、設問数も時間に対して多すぎであり、読解力というよりは情報処理の手際よさを試すものになっているのも残念です。これはAIなどにもっとも代替されやすい能力であり、優先順位は下位にあるといえます。

 作品を深く読み込み、自己の経験と照らし合わせて解答する問題の作成は確かに難しい。ですが、問題数を削ってもその方面を追求すべきです。社会の要請に見合った試験方式への変革はさらに続ける必要があるのではないでしょうか。