今朝は気温が上がらず雨も降り続いている。はっきりと季節が変わったことを感じさせる。
昨日彼岸花のことを書いたがそういえば萩もいつの間にか開いていた。もう少しで咲きそろうのだろう。一気に進む季節には驚くばかりだ。

日々の思いを言葉にして
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そう言えばしばらく秋刀魚を食べていない。殿様が目黒で偶然食して感動したように、子どもの頃、秋刀魚は私にとっては高級魚であった。庶民の味の代表であったはずだ。
ところが最近は事情が違う。気候変動に加え、近隣国の漁獲量が増えたことも関係して、秋刀魚は文字通りの高級魚になってしまった。出回るのは型の小さな冷凍物ばかり、秋刀魚を骨も残さずきれいに食べるのはかつては賞賛の元であったがいまは切実な問題となりつつある。
春夫の詩をどのように読むのか。これも秋刀魚の相場と関係するような気がしてならない。秋刀魚のはらわたを食べられると大人になった気がしたのも懐かしい思い出だ。秋刀魚なんて魚も昔はよく話題になっていましたねなどと考古学的に語られる時代が来るのではないかと危惧している。
小の月であるので今日が月末となる。強烈な残暑は下旬まで続き、最近ようやくそれらしい陽気になってきた。台風の影響でまだ一時的な暑さは続くらしい。しかし、もう半袖は片付けるときになった。
新暦においていつからが秋なのかについて悩むことがある。かつては9月がその初めだった。夏休みが終われば秋と考えていた。それが最近はなかなか夏が終わらない。旧暦の基準でも収まらない。何しろ中秋の名月はとっくに終わってしまったのだから。
気候変動を嘆いてばかりいられない。間もなく衆議院は解散し新内閣が組織される。石破氏に関しては様々な論があるが世間が騒ぐほどの変化はないだろう。特に経済政策について大騒ぎしている方々はおそらく変動を創出したいのに相違ない。むしろ変わりそうもないことが懸念材料と私は考える。
秋からもいろいろなドラマが展開されそうだ。それらに振り回されず、うまく乗り切ることを目指そう。そして、あくまで他人事にしないようにしなければ。
昨日は東京の最高気温が23.7℃だったらしい。おかげで鼻水が止まらなかった。猛暑に順応していた身体にとって20℃台の温度は対応不可能なのだ。
ようやく上着を着ることができた。暑苦しさの象徴のような格好をして、服に健康が守られていることを再認識したのである。もはやおしゃれという範疇ではない。私は衣服によって人生を守られていた。そのことを再認識したのである。
生身の体はいかにも弱い。それをようやく救うのが衣服というものなのである。夏になるとその恩恵を忘れがちになる。でも人間の弱さというのはそこにある。
話が大きくなった。私が言いたいのは 人間がコントロールできる気温というものはごくわずかということだ。ほんの少しの気温差で体調が変わる。それは私たちの調子が気温に左右されているということだ。
今日はまた暑くなる予報が出ている。日中は上着を衣紋掛に掛けることになりそうだ。これも久しぶりである。
今日も暑かった。ただ、どうもこの暑さもそろそろ区切りとなる。彼岸までということだ。ただ、懐かしい秋はまだ先なのかもしれない。秋の風情を文学作品で語っても、若い世代には注釈が必要になる。昔の夏は8月半ばで終わっていた。新暦でも9月半ばは秋を実感していたのだと。
詩境深まるのはやはりゆきあいの時期である。行く季節を惜しみ、来る季節におどろく。我が国の詩の世界はこれに救われてきた。そのゆきあいが昨今曖昧になり、夏冬のデジタルになりつつある。気候変動が人間の感性に及ぼす影響を危惧しているのである。
秋の儀式がある。秋刀魚を旨く食すこと、栗飯もいい。紅葉に過剰に反応し落ち葉に心震わすこと。そうした過去の感性を高齢者は無理やり再現するのがいい。それに付き合ってくれる若い世代が少しでもいれば古典的感性は引き継がれるかもしれないから。