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思っています

 最近少し気になっているのが「思っています」という表現の拡張である。この言葉自体には新規性はなく、むしろありふれている。自分がある考えを継続的に持ち続けているということで、「と思う」に比べてある種の立場なり主張を言うときに使われる。

 気になっているのは「(私は)〜と思っているので」のように話の前提として思っている現状を提示する用法である。私の日頃の思考形式はこうなのでということであろう。つまり自分の立場を相手に先に伝えて、自分の主張を理解してほしいという先回りの手段だ。実際の文脈で聞く限り、私はかくかくしかじかの立ち位置にいるから、これから私の言うことはそのつもりでお聞きいただきたいということが言いたいらしい。

 この用法は用語としても文法としても間違いではない。私が覚える違和感は「思い」の表明が相手への説得の前提になっていることにあるのかもしれない。私の立場はあなたとは違うかもしれない。でも、私はこのように「思っている」のでそこは譲れない。どうかこのことはお察しいただきたい。そういう手続きが感じられるのだ。

 説得の戦略としては一応成立している。ただ、相手は当然自分の立場を理解してくれるという楽天的な前提があることは確かだ。これは日本人の日常の会話形式と親和性が高い。ただかつてはこういうことは言葉には出さず、当然の前提として話が展開することが多かった。そのためうっかりすると相手の真意を掴みかねることもあるのが日本型コミュニケーションの難点であったといえる。その意味では「私は〜と思っていますので」という表現はその常識が共通概念であるのかの確認であるということもできる。

 少し前に「それはあなたの感想でしょう」という自己撞着した相手への批判があった。これはそのまま発言者に跳ね返せる。感想ではない発言がどこにあるのかといいたい。でも、言われた当座はかなりインパクトが強く、なるべくならそう言われたり思われたりはしたくない。おそらく先入観とか誤解というのを朧化しているのだろう。この「と思っている」はこのような批判への防御線として頻用されているのかもしれない。

最後まで言い切る国語力の重要性

 最後まで言い切らないのは奥ゆかしさであり、日本では美徳とされている。しかし。意図的に言い切らないのと、能力がなくて言い切れないのではまったく様態が異なる。最近は「言い切れない」事例が増えているような気がする。

 細かなニュアンスを避け、大づかみにものをいう場合に「~的」とか「~系」といった表現で済ませてしまうことはよくある。「みたいな」「っぽい」のような口語表現も含めるとかなり多い。さらには例えば「東京に住んでいる人々」を「東京住み」とまとめる表現もよく見られる。これらは会話の中で 使う分には問題ないし、同じような言葉を使う仲間内ならば親近感を高める役割も果たせる。しかし、これをそのまま文章にしてしまうと誤解が生じる可能性がある。口語的表現と書き言葉の差はまだあるのだ。

 書き言葉に会話体的な表現が多用されるようになったのはソーシャルメディアへの書き込みが普通になったことによるのだろう。それらのメディアで展開される言葉遣いは独自の進化を遂げて話し言葉でも書き言葉でもない表現を多数生み出している。ネットスラングともいうべき表現は、これも一種の仲間意識を高める言葉であり、ジャーゴンなどと呼ばれる言葉の一種である。

 四六時中ネットにアクセスしている世代にとってこうしたネット上の言葉は、日常生活とは別の次元における言語表現になっている。話し言葉でありながら文字として入力せざるを得ないという事情が独自の表現をつくり出した。そして時々それが日常生活に降りてきて、リアルな生活の中で使用されているのだ。

 幅の広い、おおざっぱな表現はネットでのチャットに向いている。多くを入力しなくても読者が察してくれる安心感がある。それを繰り返しているうちに明確な表現を工夫することを忘れていっている気がする。さらに生成型AIが文章を書くようになるとますます私たちは物事をきっちりと言葉で考えることをしなくなるのかもしれない。これは大問題であろう。

 物事を言語化して考えないとなると、判断は感情的になりやすい。また、論理的な思考を踏まなければ時々の判断は、その都度刹那的に消えてしまうことにつながる。経験がのちに生かされることもない。だからどんなに野暮だと思われてもしっかりと言い切ることは大切である。そういうことを教えられるのは中等教育の期間だろう。本当は作文やスピーチの指導にもっと時間を割くべきなのだろう。

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難読漢字

 ネットのニュースサイトの読み物記事に難読漢字の読み方というのがある。外来語や外国の地名に対するあて漢字はそれとして、「質す」「亘る」「覆う」「躓く」「跪く」などの訓読みはクイズとしては難問に入るようだ。

 中にはほとんど使わない当て字の問題もあるが、かつての日本人であればほとんどが読めたはずの文字が現代では難読になっている。それにはかつての活字文化ではルビ(読み仮名)つきでこれらの語が印刷されていたため、知らないうちに読みを覚えてしまうということがあったのだ。デジタル表記でもルビを打つことはできるが、それほど一般的ではない。

 もう一つの理由が漢文の素養の低下なのだろう。漢文は高校時代に学習し、大学入試で読む以外には接することがなくなりつつある。中国の古典に対する知識も庶民レベルで低下している。「三国志」や「水滸伝」などに接していれば、漢字文化への親和性は保たれていた。

 漢字は同音異義語が多い日本語にとって、意味のニュアンスをかき分けるツールになる。知っておいて損はない。ただ、スクリーンに文字を読み書きする毎日のなかでは習得できる機会は減っている。

把握

 若い世代がよく使う「把握お願いします」は何かおかしい。把握はこの場合、理解するということなのだろうか。

 資料をいくつか示されたあとでこの把握をお願いされた。これは理解しておけということなのだろう。ご承知おきくださいではなぜだめなのだろう。承知に上下関係を感じるのだろうか。知っておくことを超えた把握を求められているようだ。

 把握の意味が異なるのかもしれない。いろいろ言いたいことはあってもとにかく一掴みで飲み込んでくれというニュアンスがあるのだろうか。ならば新しい表現だ。承知置くにも十分な威圧感はあるが、それより大きいのかもしれない。

大丈夫ですか

 大丈夫というのは安心ができる安定した状態をいうことばと子どものころは思っていた。ただ最近は確認や拒否の場面で用いられている。むしろこの方が多い気がする。例えばレジ袋はいりますかと店員が聞く場面で「レジ袋は大丈夫ですか」と尋ねる。客は「大丈夫です」といえば拒否の意味になる。

 「大丈夫」という名詞の意味は立派な男子ということで、剛健な男子が安泰であることを意味にしたのだろうか。それが安定状態という言葉に活用され、副詞的に使われるようになった道筋は想像できる。それがなぜ確認の文脈で使われ、拒否の回答で意味をなすようになったのか。

 思うに日本語によくみられる婉曲の表現の一つと考えるのが最もわかりやすい。確認するのも、拒否も本人の意思がむき出しになりやすい。そこで、用件の許諾そのものではなく、人の心理状態の方に置き換え、意志の確認を是か非かではなく感情の問題にしていることがこの受け答えの背景にあるように思う。

 私自身は最近の大丈夫の使い方にはなじめずにいる。変な気遣い無用などといきがってしまう。これは彼らの使用の意図とは異なっているから、私の憤懣はお門違いなのは分かっている。ただ、大丈夫ですかといわれるとそこまで窮地には陥っていないなどと勝手に考えてしまうのである。

意味の組み合わせ

 生成型AIを使っているとやはり意味の解釈という段階において難があると感じる。よく言われるようにAIは意味を理解しているのではなく、語の結合の確率の高さで回答を組み立てている。

 ただ、それならAIを辞書代わりに使えることの理由はなんだろう。例えばある熟語の意味を説明せよと指示するとかなり適切な答えが返ってくる。反対語や類義語を聞いてもそれはできる。おそらくこれはAIが得意なことのひとつなのだろう。それはある語の意味を検索して答えることには、少々複雑な表現になるが意味の解釈が行われていないからだ。

 最初に述べた意味の解釈をしていないというのは文脈の中で他の語との関係でいかなる意味を表現しているのかということなのだ。今のところこれが機械が苦手なことなのでChatAIの珍回答が生まれてしまうのだろう。

 文脈の中で解釈するとは国語教師の口癖のようなものだ。つまり、この物言いは人間らしい思考とその表現をせよということだったことになる。

比喩の力で自分を救う

 行き詰った状況の時に突破口になるのが比喩の力である。現状を何かに例えると少しだけ気持ちが整理される。そのときにどのような心理が働いているのだろう。

 ここでは直喩を例に挙げる。「のような」「みたいな」などを使う比喩の方法である。今は大変な状況だがそれは「ジャンプするまえにかがむようなものだ」とか、「夜明けの前の暗闇みたいなものである」といった比喩である。これは自分の中にある悩みとか弱みを一般化することで深刻さを緩和する効果があるのかもしれない。

 ただたとえるものを間違ってしまうと逆効果になる。暗澹たるもの、終末的なものに例えてしまうと現実はそれ以上に深刻化する。自らを励ますためにはそれなりの語彙力が必要だ。明るい色合いの言葉をたくさん持っていることが自分を救う。

漢字は書いて覚えるのに

 子どもだけではない。漢字を書けない人が急増している。簡単な熟語をひらがなで書いても恥ずかしいと思わなくなっている。なぜだろうか。

 実証できないが一つの要因に文字を書く機会の減少が関係していることはほぼ間違っていないはずだ。漢字のような複雑な文字は継続的に書く経験を持たなければ忘れやすい。薔薇や叡智のような画数の多い文字は措くとして、日常的に使う言葉の中にも書けない漢字が増えている。

 手書きの文字をほとんど書かないという人は多いはずだ。スマホでほぼ全ての筆記を済ませればペンは要らない。変換してくれるからいいと考えていると漢字自体を知らず選べなくなる。漢字のない日本語はとても貧弱だ。それと同じようにその人の思考も寂しいものとなる。

 大人はぜひ漢字を使う意味を子どもに語ってほしい。そのためにも手書きで漢字を使う機会を作ってほしい。

だいじょばない

 「だいじょばない」は大丈夫ではないの意味で使われている俗語だ。不調を表す言葉を敢えて文法破りで表現することで戯けた雰囲気を出す。大丈夫ではないと言い切るより多少気が楽だ。こうした感情の朧化表現はいくらでもある。

 この場合の「ない」は打消の助動詞であり、未然形に接続する。「走る」に「ない」をつけると「走らない」になるように、「だいじょうぶ」という名詞を動詞にしてそれを未然形に活用して、「だいじょうば」とし「ない」をつけたあとで「う」を脱落させて言いやすくしたのだろう。

 ならば「だいじょぶ」はバ行五段活用の動詞であり、連用形は「だいじょび」となるから、「だいじょびます」となり、仮定形を使って「だいじょべば」とか命令形の「だいじょべ」、意志の「う」を後置して「だいじょぼう」とかがこの後登場する可能性がある。

 そもそもNo problem の意味で「大丈夫」が使われ始めたときからこの語の変貌は始まっていたのかもしれない。

 因みに「だいじょべ」という命令形はどんな場面で使われるのだろう。そら恐ろしくも感じる。

国語の関守

 語彙の貧困化について同僚と話していく中で、やはり国語の教員が使う言葉を意識して、時流に流されないようにすることが大事だということになった。言葉は時代とともに変化するものではあるが、それを堰く存在も必要だ。

 「やばい」「めっちゃ」「オワタ」などの流行語は汎用性が大きいのが特徴である。他の表現を駆逐してしまう毒性もある。善くも悪しくも急激に心が動き、印象深いときにやばいと言い、それを強めるときはめっちゃをつける。どの程度どうなのかは「めっちゃやばい」からは分からない。

 教員仲間でもこのような表現は普通に行われており、曖昧な言葉を使っているという自覚もない。生徒諸君にとっては繊細な感情表現の方法を学ぶ機会が限られていることになる。だから、国語科の教員はせめてもの言語表現の伝統の保守的伝達者になるべきだと言うことになる。

 そもそも人間の心の動きは複雑で名状しがたい。嬉しさも悲しみも様々あって、実は厳密に言えば一回限りのものである。それを限られた言葉で切り分けるのは無理というものだ。だが、そう思っても言葉の力を諦めないことが人間の叡智と言うべきものだろう。

 切なく震えるような心の動きを何というか。言葉探しを忘れてはならない。流行語に逃げ込んでしまうことは容易だか、まずは自ら言葉を探し思いを言い当てていく面倒な試みをさせるべきなのだ。その役を国語科の教員はかって出るべきなのだろう。