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リモコンの夢

 子どもの頃、リモコンで走る車や船の模型はとても欲しいものだった。結局、一度も手に入れたことはない。空想の中で操縦して楽しむのが関の山だった。

 それがいまはドローンと呼ばれるプロペラ飛行体かでき、玩具でもかなりの高さまで操縦可能だ。値段も手の出ない額ではない。残念ながら、かつてのように操縦してみたいという欲求はなく、結局まだ触ったことがない。

 リモコンは私にとって子ども時代の夢であった。しかしこの夢の機械でいま厄介な戦争が行われている。ミサイルは究極のリモコン機器だが、他にも無人機による攻撃が実際に行われているという。ウクライナや中東の戦場ではそれらが飛び交い、人のいない攻撃がなされている。

こうなるとリモコンは夢の機械でもなんでもない。恐ろしい兵器であり、凶器だ。大変残念だが、それが現実である。

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学校で使うデジタルデバイスはレンタルでいいのではないか

 一人一台のパソコンなりタブレットを小学校や中高生に使わせる教育方法の推進は、昨今の主流であるが、様々な障害を抱えていることも確かだ。その一つが購入させたデバイスの故障が多く、授業で使えなかったり、保護者の負担が増えたりすることがある。故障については機器そのものの問題もあるが、子どもの機器の扱い方の問題もある。子どもの中には機器を乱暴に扱ったり、意図しなくても落としたり水没させたりして故障させてしまう事例が多いと思われる。もともと使いたくて買ったのではないし、子どもが使うにはあまりにもやわなのである。

 そこで私はいくつかの提案をしたい。まずは機器のメーカーについてである。デジタルデバイスはすっかり海外勢に席巻されて、日本の個人向けコンピュータは風前の灯といってもよい。安価でそこそこの性能がある中国などのパソコンは個人で使うのには十分な性能がある。かつては高級品であったがいまは家電としてコモディティとなっている。ただ、教育用に特化した機器があるのかといえば十分ではないと考えている。最高のスペックや突出した処理能力はいらない。求められるのは第一に堅牢性であり、故障の少なさだ。バッテリーも6時間程度持てば良い。後述するように私案ではモバイルとしての軽さや、特殊なインタフェースもいらない。壊れにくく、授業のある時間は充電が不要ということが満たされていれば十分だ。

 次に流通業者に提言したい。学校に絞ったビジネスプランを提示し、安定的かつ恒常的な契約を取り付けるべきだ。学校へは機器をレンタルするかたちとし、故障機は交換できるようにする。学校には保証費を提示し、故障時に一部負担をしてもらえるようにしておく。これを年度更新していくことで、安定した収入を確保できる。少子化が進んでいるとはいえ、学校はなくなることはない。契約を取り付けられれば心強い収入源になるはずだ。

 学校関係者へは次のように言いたい。デジタルデバイスは学校でレンタルし、家に持って帰らせないようにすべきだ。デジタル機器による授業やその他の学習は確かにいろいろな利便性があるが、子どもの学習成果を阻害することも多い。家庭学習はデジタル機器ではなく、紙と鉛筆でおこなわせることをおすすめしたい。

 学校には生徒個々人のデジタル機器を保管でき、充電もできるラックのようなものを用意することを提言したい。家庭学習の宿題はデジタル機器を使わなくてもいいものにすべきだ。生徒が登校したら決められたデジタル棚から取り出して授業で使用し、放課後はまた同じ棚にもどす。充電にかかるコストなどはあらかじめ保護者に示し、負担をお願いする。

 保護者にお願いしたいのはデジタル機器はあくまで学習の道具であるという理解をしていただきたいということに尽きる。レンタル料ばかりを請求され、家庭では使えないとなると負担を渋る家庭もあるはずだ。

 授業でのみ使うレンタル制のデジタル機器ならば故障のリスクも家庭への負担も減らせる。日本の学校の実態に合わせ、教育的効果を配慮した使用制度を確立すれば、当初の理想に近づける。

半導体不足

 交通系ICカードのPASMOがカードの発行を抑制している。半導体不足が原因だという。

 半導体はかつて国産のシェアが高かったが、海外の安価な労働力による価格競争に敗れたため、多くの企業が撤退してしまった。その後の設備や研究開発の投資も遅れたため、技術的優位性も保証できなくなっている。

 こういうときに自給率という問題が出てくるように考えられる。その他の産業でもこの問題は考えた方がいい。自由競争に委ねるというのが日本の行政の立場だが、こういう横綱相撲を続けている限り負け続けるのは必定だ。国のレベルでのリーディングを期待したい。

 いざというときにどれだけ準備ができるのか。それが本当の国の力と言うものだろう。

自動改札が人をモノにした

 駅の改札に駅員が並んでいたことを知る世代が少しずつ減っている。改札という言葉の持っていた重みも正比例の関係で軽くなりつある。便利だが大切なことを忘れつつある。

 先日、駅の自動改札機をうまく通れない人がいた。後ろから来る人がぶつかって来た。スマートフォンを見ながら歩いていたのだろう。ぶつけられた人は不愉快な顔をしたが、スマホ男は謝りもしない。改札をうまく通れなかった人が悪の元凶のような風をしている。

 自動改札は人間を通過する物体に変えた。そこに求められるのは支払いを無難に行うことだけである。その人の思いとか、考えとかそういったものはまったくいらない。便利さと引き換えに私たちは乗客から移動物体になったのだ。その居心地の悪さは物体らしく振る舞えなかった他者に対して起きる。ここに私は強い違和感を覚えるのだ。

 こうした利便性と人間性の引き換え現象は随所にある。普段は気にならないがあるときにわかに不快な感情に襲われるのだ。

陽光の恩恵

 太陽光発電の腕時計の充電の度数を表す表示が少しずつ減少している。日照時間が減っているのに加えて、コートの袖などで時計が隠れることが多いためだろう。

 師走も上旬が終わろうとしている。一年の中でも夜の長さが長い時期だ。出勤時には月と明けの明星が冴えていた。ソーラー発電にとっては不利な季節だが、せめて歩くときは時計の盤面を少しでも当てるようにしよう。

 陽光の恩恵を実感することは少くなっているが、私はこんな場面で太陽のありがたさを思うのである。

外見とは違う

 見た目は昔のものだか中味は最新型というものに魅力を感じる。最近、折りたたみ携帯電話型のスマートフォンが発売されてかなり惹かれている。

 クラシックカーを電気自動車にしたり、見た目は昭和の電化製品なのに中身の機能は最新の技術に溢れているというものが他にもある。わざわざ昔のデザインに合わせるのはかえってコストがかかると思うがそういう遊び心はあっていい。

 エイジド加工ならぬ見た目を骨董品に見せる方法もあるとよい。小型化した現代の機器を昔の道具の中に忍ばせて使うのも面白い。リサイクルショップで外側を探してみよう。

教材としてのパソコン

 学校で使用しているコンピューターやタブレットに故障が相次いでいるという。子どもたちにこうした機器をどのように使わせるのかについては議論があるが、まずは故障にどう対応するのかを決めなくてはなるまい。

 究極の策としてBring Your Own Deviceがある。自分で用意するというものだ。これは少なくとも初等中等教育の場面では無理がある。セキュリティ面もそうだが、それより家庭間の格差や操作方法の指導ができない可能性などがあるからだ。

 現在学校で使われているデバイスのほとんどが海外製品だ。供給量の問題、価格の問題がある。教育利用目的に絞りスペックを抑え、代わりに強度やメンテナンスサービスなどを付加してビジネスを成立させる日本企業はないのだろうか。

壊れるのが当たり前の子どもたちの使用方法に耐えられる設計とか、保証のあり方とかを考えれば安定的な収益が見込める。教育の場面で成功できれば色々な応用が可能だろう。

修正する機能

 私たちの脳には不思議な機能がある。それは文字の連続の中に意味を感じ取るこである。木当はただの線と点などの連続に過ぎない文字の羅列に意味を感じ取る。きらにその文字列に間違いがあつたとしても、勝手に脳が修正し、意味を解釈てきるようにしてしまうのだ。

 実は前段落に意図的に誤植をしてみた。気づかれた方が多かったろう。それが5箇所あることはおわかりだろうか。わからなくても仕方がない。それが脳の働きなのだから。

 不完全な情報に一貫した意味を感じることはおそらく長い時間をかけて人類が獲得した能力なのだろう。大抵の場合、手に入る情報は不完全かつ断片的であり、それを元に判断しなくてはならない。類推する能力が高ければ、危険回避の可能性は高まる。

 この類推する能力は最近のAIに接したときの人々の反応にも見て取れる。先日、生成型AIの講習を受けたとき、講師がチャットの回答はAIが単語の連続の確率で組み合わせているだけで、言葉の意味を理解しているわけではないと説明した。すると同僚の一人は回答文には感情が感じられるので、講師の言っていることは間違っているという感想を述べていた。これも類推の能力がなせるわざなのだ。

 AIの作成する回答に人情を感じ取るのは、文章を読むときの私たちの基本的な姿勢のせいなのだ。文字列の乱れを勝手に修正して読むように、実は確率的な語彙の羅列であっても、そこに意味を感じ、心まで読み取る。AIとの付き合いでこのことが余計にはっきりとしてきた。

 逆に言えばこの能力こそ機械にはできないものの一つであると言える。豊かな想像力とおおらかな推測力、矛盾を乗り越える何かは人間の生物としての能力なのだろう。

 

人格の保存

 あくまで仮の話だ。人工知能の発達は日進月歩だが、もしある人物の性格とか信条や思考の癖を記録し、再現することができるシステムが出来上がったならば、どのようなことが起きるだろうか。

 さらに空想を重ねよう。外見上ほとんど本人と変わらない容姿を持ち、極めて自然な動きをする機械に先ほど述べたある人物の人格を記憶させた人工知能を搭載したとすれば何が起こるのだろう。

 この話の延長上にはある人物そっくりのもう一人の彼または彼女が出来上がるということだ。そんなことは藤子不二雄の漫画のパーマンに登場していた。コピーロボットでもう一人の自分を作り、活躍中の不在を埋める時間稼ぎをしていた。鼻のスイッチを押さない限り、他人からはそれがロボットだと気づかれることはない。

 この問題を考える上で欠かないのは、人格とは何かと言うことだろう。性格と思考や行動の様式、さらには身体的特徴が一致していれば同一人物と言えるのだろうか。これはクローン技術という文脈でも語ることができるが生命倫理に抵触しないと思われる人工知能とロボット工学の組み合わせで考えている。

 もちろん直感的にも経験的にも同一人物とは思えない。完全なコピーがなされたとしても別の人格のように思える。なぜなのだろうか。仮にマスターの動きを完全にシンクロナイズするコピーが行われたときは間違いなくコピーの方に人格を感じられない。モノマネ機械と判断する。ただ、どちらがマスターでコピーか判別できないときはどうだろう。

 次に、コピー側が自主的に行動する場合はどうか。自ら考え、意見を述べ行動する場合はもうコピーとは思えなくなる。マスターとコピーが会話をしたり、争ったりしたら完全に別人格と感じるだろう。外見がそっくりの双子の姉妹のどちらにも人格を感じるのと同じように。

 人為的にそっくりというより等しいものとして造られたコピーは、性能が高ければ人格を認めていいのだろうか。

 さらに屋上屋を架す。例えば尊敬してやまない先人の精神と肉体を完全にコピーして、我が家の一員として迎えた場合、彼もしくは彼女は家族の一人なのだろうか。それが認められたなら人格の保存はできるのだろうか。何か非常に根本的な部分で間違っているように感じる。それをまだ説明できない。

意味の組み合わせ

 生成型AIを使っているとやはり意味の解釈という段階において難があると感じる。よく言われるようにAIは意味を理解しているのではなく、語の結合の確率の高さで回答を組み立てている。

 ただ、それならAIを辞書代わりに使えることの理由はなんだろう。例えばある熟語の意味を説明せよと指示するとかなり適切な答えが返ってくる。反対語や類義語を聞いてもそれはできる。おそらくこれはAIが得意なことのひとつなのだろう。それはある語の意味を検索して答えることには、少々複雑な表現になるが意味の解釈が行われていないからだ。

 最初に述べた意味の解釈をしていないというのは文脈の中で他の語との関係でいかなる意味を表現しているのかということなのだ。今のところこれが機械が苦手なことなのでChatAIの珍回答が生まれてしまうのだろう。

 文脈の中で解釈するとは国語教師の口癖のようなものだ。つまり、この物言いは人間らしい思考とその表現をせよということだったことになる。