カテゴリー: エッセイ

検索の意味

ネット社会になって大きく変わったのは大量の情報の中から超高速で検索ができることだ。私が学生の頃は索引という本があればそれに頼り、なければカードを使って自分で索引を作った。それも一冊の本なら何とかできたが、本棚全部の検索となると諦めなくてはならなかった。恐らくいまの世代の人に話したら笑われるだけだろうが、ある言葉の用例を探すために本棚いっぱいの本を何日もかけて探し続けるというのが学生生活の大半を占めた。

何でも検索で分かる?

 いまはデータベースさえあればその労苦はない。さらに最近は人工知能が検索の先のことまで提案してくれる。検索した結果を表やグラフにしたり、そこから読み取れる内容を提案してくれる。学生時代に何ヶ月もかけてやったことが、1分足らずでできてしまう。

 ただ、これで万能になったわけではない。人工知能は尋ねたことに対して極めて上等な返答をするが、何を問題点として何を考察するのかという道筋に対しては示さない。特に常識から外れる思考については元から除外しているようで、突飛な発想ということに関しては役に立たない。

 検索した情報をどのように組み合わせるのか、何を応用して何を除外するのか。そういうことは人間の判断に任されている。

ハナミズキの紅葉

 ハナミズキの紅葉が見頃になっている。もつとも、今年は紅葉の色が濃い樹木とそうでないものとの格差がある。日当たりのいいところの樹木は燃えるような赤が印象的だが、日陰がちの場所の木は褐色の方が目立つ。街路樹の場合、方位や周囲の建物によって、日照の状態が変わり、それがハナミズキに反映されているらしい。

 ハナミズキはアメリカからもたらされた植物である。ソメイヨシノと交換されたらしい。だが、今となっては日本の風景を彩る大切な樹木である。花の方に注目が集まるが、真っ赤になる紅葉の時期にも見どころがある。街路樹としてもよく使われるが、あまりの赤さに立ち止まる人も多いようだ。

 私にとっては通勤の道筋にあるささやかな楽しみなのだ。

泣かせどころ

 感動の入り口は方々にある。人を感傷的にさせようと企むならば文学を学ぶべきだろう。感情を操る方法は何通りもあり、それをどのように運用すればいいのかについても、様々な見解があるはずだ。

 ただそれは根気のいる仕事であり、飽きっぽい現代人には向かない。すぐに数十秒の動画かなんかができてそれを見れば分かった気になれるという方が人々に受け入れられるはずだ。そしてその浅い知識は結局役に立たないことが判明し、だから文学なんて役に立たないという結論に短絡される。結局、凡人にはできないことだと、知ったかぶりが吹聴することになる。

 でも、そうだろうか。誰でも人を感動させた経験を一つは持っているのではないか。それは何らかの技巧を弄したわけではなく、ただ思ったことを語ったところ、感激したというリアクションをもらったという経験のことである。巧まずして人の感動を引き出すことはあるのだ。

 私自身、日常のさりげない光景に思わず感動してしまうことがよくある。突然訪れる感覚なので自分でも説明不可能だ。見慣れた風景がかけがえのないものに見えてくると感動のトリガーが出現する。そして多くの場合、それを引いてしまい、涙腺に刺激を与えることになるのだ。

 泣かせどころを心得ているのは表現者の大切な資質だ。俳優はそれを経験を通して知っている。だから、特別な仕掛けがなくても他者の感情に働きかけることができるのだ。

 プロの表現者のような技能は無理だとしても、私のような凡人にもできることはないわけではあるまい。他者を感動させるためにはどのように振る舞うべきなのか。それを考えることを諦めたくない。

特別な記憶

 覚えていることの中には、いわゆる特別な記憶というものがある。その多くが自分の生き方に深く関与し、多大なる影響をもたらしている。

 妙なものだが、若くして死んだ友の葬儀に立ち会い、焼き場にまで付き合ったことはいまでも深く心に刻まれている。棺桶が焼かれるところへ移動するときの扉を閉める音は、この世とあの世の境界として深層に刻印されている記憶だ。

 他にも特別な記憶はいくつかあって、何かあるごとに想起される。随分昔のこともあるのに、そこに出来するのは常に瑞々しい記憶なのだ。

 特別な記憶の多くは類型的な誇張がなされていて、真実そのものからは遠い。でも、その中で考えたことは虚偽ではなく、必ず一面の真理を踏まえている。そのような記憶が飛び交い、場合によってはその記憶で横溢されるのも意味のあることだと思う。私たちは新しいことを始めるのは苦手だ。だから、過去の記録をそのまま受け入れるのではなく、いまの生き方にあわせて過去を改変することも、残念ながらあるのである。

作られた動画

 写真をもとにそれを動画として表現するということが人工知能の力によって実現されている。過去に撮られた写真から、それを動画化して好きなように動かすというものだ。動画サイトにはいくらでもそのような例がある。過去の偉人の写真を動画にしたり、若かりしときの女優の白黒写真をカラーの動画にすることもできるのである。

 合成した動画が偽物であることは分かつていてもそれをみたときの衝撃は確かに大きい。1年ほど前の生成動画にはいろいろな不自然さがあったが、日々その違和感は修正され、限りなく本物らしくなっている。

 フェイクであることを非難するのはもちろん正しい。が私たちには虚構を楽しむという心性もあってその線引きが時々分からなくなる。目的によっては偽動画を受け入れたい場面もあるのだ。死んだ先人の笑顔が見たいと思ったときに人工知能にそうさせることは罪ではない。

 そう遠くないうちに全編人工知能の生成した映画が上映されることになるかもしれない。その次は作品世界に没入するような仕組みが開発され、作品鑑賞そのもののあり方が変わるのかもしれない。

秋を見つめる

 二季という言葉が今年の流行語の候補になっている。この言葉自体は前からあって、私のブログでも2022年に使っていた。それ以前から春秋のやせ細りは危惧されており、気候変動を具体的に示す言葉として使われ続けている。

 されど秋の情緒はやはり感じたい。先日紅葉の色づきのことは書いたが、自然の推移から受けるさまざまな感情はどんなに小さなことでも大切に味わいたい。夏から冬への過渡期ではなく、秋そのものの蓄えているものを見逃さないようにしよう。

 類型的な速断はやめて現実に向き合うことがいまの生活には必要なのだ。

新機軸

 知識は学習の蓄積からなる。それは疑いようもない事実だ。この点に関しては人工知能が人間の先に行きつつある。これまで人工知能に対して未熟であると否定的に捉えてきたが、この方面では考えを改めなくてはならないと考え始めている。

 今日Microsoftのコパイロットと連句を巻いてみた。式目に沿って付句をしてくるのを見て、少なからず驚いた。確かに感情はないが、過去の多くの人たちがどのように反応するのかという傾向は瞬時に分析し、即座に言葉に変換してくるので文学を理解しているかのように振る舞ってくるのだ。現代人の類型的な思考回路などすぐに克服してしまう可能性が高い。

 ならばこれから人間がやることは何か。思うにこれまでにない考え方を敢えて試してみるという勇気を出すことであろう。しかし、こうしたやり方はこれまでの社会通念とは乖離している。なるべく失敗しないように、過去の成功例を参考にしてそこから逸脱しないことが、いわゆる必勝法と信じられているからである。

 私のように教育の現場に長く暮らしたものとしては、いわゆる「常識」を完全に習得し、そこから大きく逸脱しないようにさせることが人間形成の基本と考えてきた。突飛な考え方は矯めるべきものであり、それが本人のためになると信じてきた。

 でもどうだろう、過去の蓄積だけでいまを考えて行くことは人工知能に凌駕されてしまった。必要なのは学習の果てに起きる飛躍だ。その振れ幅をこそ大切にすべきなのである。いまの我が国の社会にこうした考え方を持つ人は少数派だ。かくいう私も言うは易し、されど本当にそんな場面を見れば、ついそれは違うと口出ししてしまうかもしれない。

 もしかしたら奇妙な考え方、奇怪な行動が真実なのかもしれないという寛大な見方が必要なのだろう。そのためには過去の知識の価値を認めながらも、後生の示した新機軸も認める必要がある。多様な方法のうち、本当に通用するものが生き残り、それが時代を進める。その可能性を高齢世代が奪ってはならないのだ。

 最近の若いものは、と言うのが非難の言葉だけにならないようになればいい。青二才がこんなふうにやってみたぞと言えば、それもありかもなとするのか、はなから否定するのかでは未来は大きく変わる。

色づき

 11月になって紅葉が進んできている。近隣の街路樹などのそれをみる限りではどうも色づきがよくない。感覚的なことなので正確かどうか分からないが、赤みより褐色の度合いが強いように感じた。

 紅葉の原因とされるアントシアニンという物質は秋になって葉の中で生成される。赤い色味を表現する色素である。生物学的には葉の老化の過程で太陽光から受けるダメージを軽減する働きをしているらしい。この色素の生成には光合成と寒暖差が必要とされるが、今年の場合、9月と10月の日較差が例年より小さかったために十分にアントシアニンが生成できていないのではないかというのである。

 これだけではないが今年の紅葉は色づきが足りないというのは概ね理屈は成り立つようだ。いわゆる異常気象は人体にも相当な影響を及ぼしていると考えられるが、不動のように見える樹木にもかなりの打撃であるらしい。

 それでも場所によっては綺麗な紅葉を楽しめる。余裕があれば出かけていって観賞したい。ただ、街路樹の必死な営みにもあわれを感じてみたいのである。

シロナ

富山に住んでいたころ、自炊するときによく使った野菜にシロナがある。白菜と書くと別の野菜になるが、実は近種ともいう。巻かないのがシロナであると説明する説もあるが真偽は分からない。ただとてもあっさりした味わいと、煮込むと味が染みやすいのは共通している。

とても安価で申し訳ないほどだった。これを醤油とバターで炒めると結構な美味であった。かさが少なくなるので思いきり使うことがコツだ。魚の煮物に添えたり、新鮮なときはサラダにもした。

ほうれん草は法菜と書かれていた。こちらの方がしっかりとした味があり、おいしく感じたのは言うまでもない。それでもときにシロナを食べたくなるのだが、近隣では売っていないようだ。