カテゴリー: エッセイ

脚本の性差

 脚本を考えるとき女の登場人物にはいわゆる女性言葉を使う。語尾に「わ」「よ」などをつけて女性性を表現する。でも、それを聞きながら、こんな言い方を女はしていないと思うことがある。言葉におけるジェンダーの問題は深いのである。

 演劇は現実の反映であるが、現実そのものだとうまく伝わらないことがある。現実の性質の一部を誇張したり、省略したりしてそれらしさを際立たせる。短時間で限られた設備の中で、キャラクターを造形するためにはそうした虚構が必要なのだ。作る方も見る方もその約束のもと成り立っている。

 女の話し方にしても、年齢や性格、立場、話す相手、そのときの感情によって言葉遣いは変わる。これは男も同様である。こういう人はこういう話し方をするものという社会的な約束があるから、それを利用しているとも言える。だから、実際の言葉遣いはそれとは違うことが多い。

 一方で、たとえば演劇で語尾に「わ」のつくヒロインの台詞が現実の女性の話し方をある程度決めているのだとも言える。影響力が強いテレビドラマや映画などならなおさらだ。虚構が現実を規定することも同時に起きている。

 現実社会でも私たちは一人で何役もこなし、その都度、言葉や振る舞いを使い分けている。

文学談義

 先日、偶然訪れた喫茶店で懐かしい思いをした。出先ゆえ道案内もおぼつかないので、目に入った喫茶店に入った。チェーン店ではない個人営業の店に入るのは久しぶりだ。

 年配の店長らしき人のワンオペであった。装飾なども派手ではなく、いかにも喫茶店という感じのする昔ながらの雰囲気があった。自分が学生時代に行ったのはこのような店だった。

 少し離れたところに座っている学生と思われる3人組がしきりに話し合っている。聞こえてきたのは文学作品の評価についてであった。彼らにとっては近代文学は古典に属するようでその文体や、主題についての話がなされていた。これもまた懐かしい風景だ。最近の若者は文学作品について論じ合うことは少ない。本を読まないし、まして文学のような実用書ではないものは読む価値さえもないと考えているようだからである。

 彼らは文学部の学生ではないようだ。店の場所からして東京大学の学生の可能性もある。彼らに期待していうならば、もう少し学を深めて欲しいと思った。確かによい選択はしているが、読みが浅い。ガイドブックに書いてあるようなことを言いあっても、と考えた。実用的には見えなくても必ず何らかの世界観の形成には役立つ、かもしれないのだから。

 古いスタイルの喫茶店であったからこそ、かつて自分がそうであった頃の学生時代をつい重ねてしまった。チェーン店ではない店に行くのにはそういう効果がある。

最後の真夏日なのか

 今日の東京の最高気温は31℃で真夏日になった。最後の真夏日なのかとも思うが、昨年は10月19日に30℃を超えていた。いつまで暑さが続くのか分からない。

 昨日から上着を着て出勤している。かなりの暑さを感じるが上着生活に慣れるためにはならしが必要だと感じたからだ。毎年、この衣更で体調を少し崩すことがある。

 上着を着てネクタイを締めるだけでもやることがかなり増えた気持ちになるのはなぜだろう。タイの長さがうまく決まらないときなどは特にそれを感じてしまうのだ。

 10月も高温傾向だという。汗を冷やして風邪などひかないようにこれからはまた注意しなければならない。

ドリアは日本発

 格安イタリア料理店のサイゼリヤの看板料理であるミラノ風ドリアには時々お世話になっている。小腹を満たす料理でありながら、税込み300円という安価である。実にありがたい。

 ミラノ風ドリアというものがイタリア料理なのかといえば、答えはNoである。ミラノにはこの料理はないし、そもそもドリアも存在しない。もっとも近いリゾットは見た目も製法も異なるものである。

 ドリア自体は横浜のホテルニューグランドの初代料理長のサリー・ワイル氏が即興で作った料理をもとにするようで、米の上にグラタンの様なものをかけることで食べやすさと栄養価を演出したものらしい。ワイル氏はスイス人とのことだが、横浜生まれの日本料理ということもできる。

 サイゼリアがミラノ風と称するのは、ボローニャ風のトッピングをしていることによるが、ミラノはボローニャではないことからいろいろな意味でミラノとは無関係なのだ。ちなみにミラノ風ドリアはサイゼリヤのオリジナル商品であった。

 日本はさまざまな文化を受容し、それを自国風にアレンジすることにかけては無二の技能を発揮する。数々の「風」料理の中でも庶民の味方のこの料理がどこまで今の値段を保てるのか。注目している。

自然にリュックが開かないように

 先日、運転していたらバイクが歩道寄りに突然停車して、降りた運転手の青年が歩道を歩いていた女性のもとに駆け寄るよるのが見えた。少し緊張して見ていると青年は女性の背負っていたリュックのファスナーが半開になっており、閉めた方がよいと告げているようだった。女性は何度もお辞儀していた。

 私もこの女性と同じようなことをかつてはよくしていた。多めに荷物を入れてしっかりとファスナーを閉めないと、少しずつ開いていってしまう。背後にあるので気づかず、ものを落としたり、盗難にあったりする可能性もある。

 そこで私は簡易な鍵を作って留めることにした。百均などで売っている小さなカラビナをファスナーの引手に一つずつつける。なるべく小型の方がいい。私のは4個で税抜100円だ。これをファスナーを閉めた時にカラビナ同士も掛けて置く。すると万一ファスナーが開き始めてもカラビナが止めてくれるのだ。留めるのは簡単で、外すのはそれに比べると少し手間なので鍵としてもちょうどいい。

 カラビナをものを吊るために使っている人は多い。こんな使い方もあるという紹介をしてみた。

コンピュータ読み上げの影響

 コンピュータによるテキストの読み上げの技能は年々向上している。すでに人間との判別が難しい域まで発達したものもあり、感心してしまう。

 ただ、詳細についてはいろいろな問題点がある。漢字の読みを間違えて読む場合はもっとも分かりやすい。最近動画サイトにこの間違い読み上げが非常に多いのだが果たして情報発信者はそれが間違っていることを知っているのだろうか。

 アクセントの問題になるとよりあやしくなる。例えば地名の場合本当のアクセントはどうなのかは、非常に分かりにくい。有名なの静岡県の磐田市だ。地元の読み方を関東地方のほとんどの人は間違っている。

 これを機械に読ませるとより複雑な事態になる。現地の読み方と東京人の読み方に加えて機械の読み方が並立するからである。何を基準とすべきなのか。もう何も分からない。

 コンピュータはAIなどの操作を通して、万能と考えられている。しかし、法則に則ったやり方は意味や習慣の問題を軽視しがちだ。読み上げという作業にそれが表れるのは象徴的である。

NHKはネットにどう対応するのか

 来月から放送法が変わり、放送局にもインターネットでの情報発信が義務付けられる。NHK ONEというサービスではネットによる同時配信が始まる。いままでは放送時間終了後、もしくは時差で配信していたのが、テレビの代わりにスマホで番組を観ることが可能になる訳だ。

 便利になる反面、テレビを持たなくても受信料を払う義務が発生する。いわゆるインターネットテレビはテレビではないから受信料を払う義務はないという方便が封じられる可能性がある。今も受信料を払わずにNHKをインターネットで視聴しようとすると画面の一部が遮断される手法が取られているが、これがより明示的に行われるはずだ。災害情報などは例外的に無料開放されるという。

 NHKも他の有料チャンネルと同様に課金を前提に番組を提供することとなる。AmazonやNetflixと違うのは独自コンテンツを制作しているか否かだ。課金するならばもう観ないと突き放す人が増えればNHKの経営は厳しくなっていく。これは私にとってはゆゆしき事態に思える。

 東日本大震災のとき、地震発生時からの初期報道を滞りなく行えたキー局はNHKだけであった。ある局は大阪発の番組の切り替えができず、大阪も揺れている程度の情報で済ませ、ある局は揺れる無人のアナウンス席を放映して不安を増大し、他の曲は通常番組を流し続けてかなり後になって字幕で震度などの情報を伝えた。あの時ほどNHKのネットワークと非常時対応力を実感したことはない。それが受信料批判などでとある団体から非難されたのは残念というより国家的損失を招くのではないかとも感じたのである。

 ネット世代の人々は自らも情報発信者になれることを知っているのだが、信頼と信憑性のある情報には金がかかるという事実に気がついていないのか敢えて無視している。

 今回NHKがネット情報に重きを置くようになったのはよいことだが、無責任な批判に屈して情報の質を落とすようなことがあってはならないと思う。オールドメディアなどと揶揄する者には、情報の質と公平さで対抗してほしい。

季節の変わり目はいつなのか

 9月下旬となってさすがに猛暑ではなくなった。半袖では少し肌寒いと感じる朝もある。ただ、日中はやはり暑く、端境であることを実感する。長期予報では10月も高温傾向であるという。やはり四季から二季への変化が起きていると言わざるを得ない。

古書街巡り

 神保町は古書街である。学生時代、私は何度となくここを訪れ、いろいろなものを買い、さまざまな経験を積んだ。

 私は公務員の息子で、親も節約生活を送っていたのは身に染みていたので、金銭の感覚は極めて渋いものがあった。外食はなるべく避け、しても最安値のものしか頼まなかった。大学にあった140円のカレーをほぼ毎日食していたのは別にやりたいことがあったからである。

ただ本を買うことには特別の意味があった。いまの様に資料がデジタル化されている時代ならば、ある程度は書籍への拘りはなくなっていたはずだ。当時はどれだけの書籍にアクセスできるのかで学問の業績がある程度決まったので、書籍獲得は必須の課題だった。

そんな訳で神保町に乗り込むときは私はかなりの覚悟で望んだ。場バイトで稼いだ金に、奨学金を加えて必要な本をまずは探す。100円でも安い本屋を探すために半日以上を費やした。買った本は韋編三絶とまではいかないとしてもヘビーローテーションで使い倒した。

いまはある書籍を使い倒すのは難しいです

自分とは何か

 自分とは何かという問いは誰もが一度は行う。容易に答えが出ないので、多くの場合は思考停止となる。そんなことは分からなくても日々の生活に困ることはない。むしろどうでもいいことをあれこれ考える方が時間の無駄ということになる。

 でも、自分を失うと厄介なことが起きる。現代のように常に他者の発信する情報に囲まれていると、果たして今の判断は私のものなのか、流行りの意見に迎合したのかが分からなくなる。迎合の意識があるうちはまだいい。自己判断を停止したままで周囲の環境に自動的に合わせて、それに違和感すらなくなっている人にとっては、最早自分の判断というものが消えている。彼らに自己責任を問うことはたやすいが言われた方には戸惑いが起きるだろう。私は決めていない。流行りに従ったはずだ。多分そうだと。

 こういう時代には自分が他者に操られる事態を起こしやすい。最近の流行語であるインフルエンサーは、他者への影響力が強い者という意味と心得ているが、この語が流通しているのは真のインフルエンサーが本当は少ないことを意味している。でも、多くは動かせないがいわゆるクラスタクラスの影響はあることになる。

 もし強力な影響力を持つ存在が権力の野望を持って登場すれば、容易に独裁者になれる。現代はその下地が整っていると言える。自分とは何かという厄介な問いを後回しにしているうちに事態は予期せぬ展開をするのである。

 多くの人が是といっても何かおかしいことがあればそれを指摘できる気概は保持しておくべきだ。多くの人にそれは変だけどと言われても、変と言っている貴方が変だと言える自己にならなくてはならない。情報社会において自己を保つのは難しい。でも、それができなければ危険な未来が待っている。