カテゴリー: エッセイ

リスク分散

 リスク分散にはいろいろな意味がある。一時的な利便性や経済的な理由で選択肢を絞ると有事に危機に陥ることはさまざまな事例で確かめられている。便利だから安いからと一つのルートに限定するのは危険な試みということだ。日本という国家がいま、その間違いに直面している。石油を中東に依存し、経済活動の多くを中国に依存し、安全保障をアメリカに依存する。それぞれの部門においてほかの選択肢が貧弱で、いざとなれば八方塞がりになる。

 リスクを回避するためには損を見込まなくてはならないもっとも効率的な選択で全てを満たさず、敢えてコストなりリスクなりを伴う手段を捨てずに維持するのだから、結構難しい決断だ。有事に備えて無駄を取る勇気がいることになる。これを実行でき、国民に説得できるリーダーはいるのだろうか。

 他人事よように話すのはやめよう。私自身の毎日も効率性とか経済性とかだけを追求して、それらが破綻したときに共倒れにならないように、リスクヘッジをすることを忘れまい。富裕層のようには振る舞えないが、日本列島に住む国民としてもしものことを想定した生き方をしたい。

満たされていない幸せ

 あまり物事がうまくいかなかったときに、ふと思い出す過去の瞬間がある。それは必ずしも古きよき思い出ではなく、むしろ満足するには幾重の克服すべき課題を残していた段階の記憶である。満たされていないときは、いろいろな悩みがある。でも、その悩みこそが幸せの源なのである。

 それをもう少し考えてみると、やはりものごとに主体的に真剣に向き合っていたときのことはたとえそれが失敗に終わっていたとしても価値があると考えるということだ。あんなにやったのに出来なかったは、適当に済ませて結果が出なかったより遥かに尊い。もちろん挫折とか屈辱とかそういう負の感情は避けられない。それでもやることをやって敗れたのなら、次に繋がる何かがある気がする。

 何かを達成して満たされる幸せがあるのは言うまでもない。でも叶わなかった思いのかけらも実は大切なのものであったりする。

今の形になる前の

 都会に住んでいると、ここがもともとどんな土地であったのかを考えることを忘れてしまう。始めからアスファルトに覆われ、高いビルが建っていたのではない。人間生活がもたらすさまざまなものだけが表面にあって、そのほかが目隠しされているような毎日にすっかり慣れてしまっているのだ。

 今の形になる前を思いやるには地形を俯瞰的にみるのがいい。もちろん整地されて形は少しずつ変わっているが、山や丘陵はそう簡単には動かない。河川は移ろいやすいものの、水源から河口までの経路はある幅をもって変動している。そういうものを感じ取る必要がある。

 そのためには実際に歩いてみなくてはならない。その傾斜を実感することでその地がどういうところだったのかを想像することができる。ただ、歩ける範囲だけでは時間がかかるので、乗り物に乗って移動することも同時に行わなくてはならないであろう。そして、過去の資料を調べることも必要だ。近世以降なら古地図もあるし、絵画として残っているものも参考になることがある。

 自分の住んでいるところがかつてはどんなところであったのかが分かれば、いまそこで生活していることのありがたさや素晴らしさが確認できるかもしれない。そういうことを忘れて、今を消費するだけの生活をしていると、よくないこともしてしまうような気がする。

ガソリン価格急騰

 ホルムズ海峡封鎖の報道やアメリカとイスラエルの出口戦略なき戦争の影響で各国の経済は混乱をし始めている。トランプ大統領は恐らく致命的なミスを犯してしまった。政権の寿命を著しく毀損してしまったようだ。日本にとっては深刻な問題だ。ガソリンスタンドの価格表示がいきなり高騰した。

 エネルギー資源が一部の国家に偏在していることは永遠の課題である。ただ、見方を変えれば、国際的な協力なしでは世界は成り立たないことをこの状況は明確に示してくれる。日本のような国は、国際貿易が大前提であり、その秩序を乱す振る舞いを断じて許すわけにはいかない。

 一部の国から都合よくものを買い取り、自分の利益になることだけを重ねる。そういう方法が今後の我が国には通用しなくなることは間違いない。経済的にも超越的な地位ではなくなり、技術力も他国に抜かれつつある中で、国際的競争力は下がりつつある。その中でまずは少し昔の先人の持っていた精神を思い出すべきであり、新機軸を打ち出すことに躊躇してはならない。

 でも、その前に分断が進む世界のあり方にきちんとした提言ができる人材をこの国から出す必要を感じる。平和構築、対話の促進、そういったことをリードできる人材を育成するのは日本の使命だと考える。

 今回の石油危機で考え直さなくてはならないことはたくさんある。地球規模で物事を考えることをもう一度思い出さなくてはならない。私にできるのは、少なくともそういう危機感と対応力とを持った若者を応援することだろう。私は諦めてはいない。

線路際の土筆

 線路際の小さな空間にたくさんの土筆が芽を出しているのを見つけた。かつてなら当たり前の風景だったが、アスファルトに覆われた地域に暮らしていると特別な光景のように思える。

 土筆はそれを見たり摘んだりした様々な過去を思い出させるきっかけにもなる。子供のころの思い出、人生の節目の行事に向かう途中で見た風景、困難の最中に救われた風景の映像、それらが湧き上がるように思い出されるのである。その意味ではタイムマシーンのスイッチのような植物である。

 土筆は杉菜の雌花のようなものであり、雑草にあたるものだが、土筆の愛らしさがその価値を保証している。その理由を説明しようとすると結構難しい。

手前の地面に土筆があるのが分かりますか?

 様々な思い出とともに、これからの困難な時代を乗り切るためのエネルギーをこの雑草は与えてくれるのである。

怒りの表現

 東京富士美術館で開催中のゴヤの版画の展示を観てきた。大変暗い筆致の風刺画で観ていてつらくなるような作品だった。宮廷画家であったゴヤは本来、時代を美化する役割を持っていたはずだ。それがフランスの支配を機に体制批判の作品を連続していく。その数の多さに今回は圧倒された。かくまで深い傷を負ったのかと察せられたのである。

 西洋の美術は神話や王族や貴族の理想的な姿を描いてきた歴史が長く続いて、その中で風景画の技法も磨かれてきた。ある意味、理想的な一瞬の再現が絵画だったのである。それがゴヤのように時代の告発のような作品が生まれるに及んで新局面が生まれてきたのだろう。美術は怒りも表現できることを証したのである。

 現代、この役目を果たすのは何なのだろう。時代を批判する力は芸術にあるのだろうか。悲しく辛い対象にも目を背けない芸術に注目していきたい。

中東頼み

 日本のエネルギーは中東の原油に過度に依存しているという。資源のない日本がなぜ先進国を名乗れるのかといえば、このオイルラインのおかげなのである。しかもその大半がタンカーによる海運による。単純化すれば港に着く物資があって始めて生活が維持されているということだ。島に来るものがなくなれば生活レベルは急激に低下する。

 そんな当たり前の現実を私たちはすぐに忘れてしまう。永遠にネオンが輝き続けるかのように、豊かな水資源が電力によって制御され、地下鉄の漏水が電力で汲み出されていることを。それは島の向こうから渡ってきた資源のおかげなのである。

 電力を自給しようという悲願はいろいろな制約に妨げられる。代替エネルギーは一長一短で化石燃料に代替できるものはない。石油は使わず太陽光発電にしましょうというのは簡単だが、実は今のような生活をおくれるエネルギーはまったく作れない。いまのところは中東の原油に頼るしかないのだ。

 そのために日本の企業や団体は中東諸国との友好関係を築いてきた。歴史的に対立している欧米諸国とは違う関係を持ってきた。でも、同盟国アメリカが仕掛けた今回の戦争で日本の立場はかなり危ういものになっている。戦争には関わらず、民生の復興に協力することが我が国のするべきことではないか。イランの政治には疑問点が多いが力で変えるのではなく、我が国の寛容な精神と技術力を示すことで、彼の国に内的変革を促す方がよさそうだ。

 戦争は長引きそうだ。アメリカの大統領は恐らく偽りの勝利宣言をして自らの手柄とするつもりだろう。でもそれがむなしい雄たけびに過ぎないことはこれまでの歴史が証明しているではないか。

震災の次の日

 震災の日の驚きはいまでも時々思い出す。ただその日は事態に対応するだけで精一杯だった。その時点ではスマートフォンを持っていなかった私は緊急地震速報なるものを同僚の機器から耳にした。その日にはそれが何度も響き、その後も定期的に行くことになった。

 でも、事態の深刻さを知ったのは翌日からだった。衝撃的な津波の映像、福島の原発の爆発、放射能被害の切迫した報道、すべてが未知だった。電力の供給が止まるかも知れないとか、その後の計画停電とか知らなかった言葉が次々に横溢した。世界が大きく変わり、不可逆の別次元に入ってしまった感があった。

 これは一面、いまでも継続する真実だ。諸行無常を知識ではなく経験で痛感したのだから。恐らく日本で暮らす人々の価値観が大きく変わった気がする。ただその信念でさえ無常の掟から逸脱することはできない。電力需要の困難に直面し、原子力発電の功罪を痛感したのにも関わらず、人工知能を駆動する大量の電力を消費し続けている。電気自動車は環境によいと信じている人も多い。

 震災の次の日の呆然とした気持ちと、それを乗り越えようと決意したときの思いをもう一度取り戻すことには意味がありそうだ。

非効率のすすめ

 コスパとかタイパとか効率性を称賛するのはいかにも現代的だ。しかし、効率性を追求するのは場面と状況を選んだほうがいい。無駄を認めること、時間をかけることがその後の発展、現状打破に繋がることもあるからである。

 学ぶことに関してはなんとかパフォーマンスは選ばない方がよさそうだ。結局、自分で考えないことは身につかない。多くの無駄に思える時間を積み重ねていくうちに、あるとき突破口が見える。継続することの愚直さが実は何よりも大切なのだ。

 大器晩成という言葉は現代で第一の理想とはされない。むしろなかなか成果が出ない人への慰めの意味しかない。しかし、人工知能が何でもやってしまう時代においてはじっくりと考え続け、少々の失敗にへこたれない心性こそが求められているのではないだろうか。

 こうした感性は子どものうちから自分でものをなしとげる経験の蓄積から身につくはずだ。成果が出ないとすぐにやり方の変更を強制するのでは自主的な進展の道は開けない。親や教員がすぐに口出ししないことも大切なのだ。効率性偏重の考え方は今後上手くいかなくなりそうだ。地道に練習を重ねることの意味を理解している指導者を増やさなくてはならない。

マフラーをもう一度

 このところ寒さが戻り凍えていた。しばらく廃していたマフラーをつけ直してみると実に快適だ。こうして寒さをしのいでいたのだと思い出した。

 もうこれまで何度も書いてきたが、私たちの感性というものは決して絶対的なものではない。常に何らかとの比較をもとに形成され、何を比較の対象とするかで大きく印象が変わるのである。このところの冷え込みが厳しく感じるのは、途中にかなり暖かい日々を挟んだからだろう。もし厳冬の日々を重ねていたら、ここ数日の陽気に春の訪れを感じたかも知れない。現象と印象は別物なのである。

 感覚を相対的に感じることができるのは、人間のような知性を獲得した者の特権なのかもしれない。過去の記憶を基準に現在の感覚を調整するのは人間ならではの認知のあり方なのだろうと考えるのである。

 マフラーを巻くことは間もなく終わるであろう。でもその温もりを、快適さを覚えておかなくてはならない。