老人の姿に

 老いを感じることはいくらでもあるが、それに反して実はそれほど変わってはいないとどこかで考えている。とんでもない錯覚だが、実は誰にでもあることなのだ。若い人には分からないだろうから、将来のあなたのために書いておこう。

 筋肉の低下は意外なことに顕著に起こる。私は毎日10,000歩以上歩いている。筋肉低下とは無縁だと思っていたがさにあらず。最初に異変に気づいたのは50代半ばのことだが、どうも足が上がらないために、ちょっとした高低差で躓くことが起こった。そのうち平たいところでも足がもつれることがあるようになった。月に一度あるかないかなので、気にせず対策をしなかったが、今になって考えると老化による筋力低下の始まりだった。

 老人というと腰が曲がり、杖をつく姿を思い浮かべるだろう。彼らはいきなりその姿になるわけではない。昨日までやってきたことが少しずつできなくなっていっただけのことなのだ。そしていつの日か劇的変化が訪れる。

 老人の姿を身近に感じられる年齢になって、少しでも他人に迷惑をかけたくないと考えるようになった。そのためには最低限の体力維持のための努力はしなくてはなるまい。もう自分のためという枠を超えている。

 

猛暑予報

 今夏も暑くなることが予想されている。かつては部活動の間に水を飲むこと自体が難しい雰囲気があった。日射病は身体が弱かったり、精神力欠如が問題だと言われたこともあった。今から考えると恐ろしい誤解だ。

 そういう論理が通ったのも、今ほど気温が上がる日が少なかったからなのだろう。いわゆる真夏日やその上の猛暑日はここ数年で格段に増えている。東京の猛暑日は1990年代から増え始め、2000年代以降は毎年かなり多くの猛暑日がある。昨年は22日もあった。根性では乗り切れないのだ。

 今夏も猛暑の予報が出ている。ラニーニャ現象で海水温が高くなりがちであるのが要因だという。すでに4月の平均気温が高く、このままの傾向が継続すれば史上最も暑い夏になる可能性もある。

 各所で聞く暑熱順化もさることながら、公的機関が休憩室を用意したり、木陰の多いまちづくりをするなど様々な取り組みが必要なのだろう。再び根性論が目覚めないようにしなくてはならず、インフルエンサーによる注意喚起もあった方がいい。

 

ブログを書く人工知能

 このブログのアイコンは先日始まったWordPressのアイコン生成AIサービスを利用して作ったものだ。瑠璃色、別荘などとプロンプトを並べたらできた。タイトルを決めてくれたり、要約を書いてくれたりもする。これらも使ったことがある。何なら本文も書いてしまう。整然とラベリングとナンバリングを施した文章を立ちどころに書く。これだけは採用していない。その椅子を取られたらもう私の居場所がなくなる気がするからだ。

 人工知能は音声入力にも反応するようになるらしい。反応速度も人間並みになり、多言語の同時通訳も実現が近づいてきた。昔、中国の映画で役者が自国語で演じ、あとから中国語を当てて作ったのを見たが、それが実現することになる。日本語と中国語で会話しながらイヤホンでは同時通訳された声が聞こえているというふうに。

 言葉の世界に人工知能が踏み込んでくるほど、人間はその能力の高さに圧倒されそうになる。そして著しい無力感が伴う。これから英語を勉強する意味なんかあるのだろうかなどと考えてしまうのだ。

 よく考えればAIのしているのは瞬時の記号の置き換えと確率的に高い組み合わせの合成であり、個々の意味を理解している訳ではない。言葉にはその場に応じて使い分けなくてはならないものがある。機械にはそこまでは判断できない。言葉は音声や意味を表すだけではないようだ。

 ならばやはり私たちは母語の知識や運用力を挙げなくてはならないし、外国語の学習も不可欠だ。人工知能に何でもお任せという訳にはいかない。

 このブログは今のところ私がスマホで入力して書いている。毎日ネタがなくて苦労している。いっそ今日のブログを書いてと人工知能に命令したくなるが、この苦しみだけはやはり譲りたくはないと思い返すのである。

苦手なものは誰にもある

 人には適性というものがある。オールマイティと言われる人もよく見れば苦手なことがある。彼らはその苦手なことを目立たないようにするのが得意だ。だから、何でもできる人のようについ思ってしまう。

 私のようにいろいろな面で難渋している者には、言う資格はないのかもしれないが敢えて言おう。苦手なものがあることは個性であってそれ以上ではない。できないことがあるのは当たり前で、その点だけ取り上げて非難するのは間違いだ。そういう君もできないことがあるはずなのに、何を偉そうにと私などは思ってしまう。直接言えないが。

 最近、ある局面だけで他人を見下す人が増えているように思えてならない。恐らく見下す人もどこか自己肯定感を持てておらず、他人をけなすことでようやく自己を保っているのかもしれない。哀れだがこれは互いを低め合う悪行である。本当に相手を貶す意味はあるのか。自己満足のために他人を巻き込んでいないかは考えて見るべきだ。

 人間は集団の生物であり、ある意味互助で進化の過程を切り抜けてきた。その精神が失われたとき、弱い生物に転落するのだろう。残念ながらいままさにその過程にある。

 自分の不完全さを知り、同族に助けてもらえる知能を獲得できていることを思い出す必要がある。援助をAIに求めるならば、人間はますます分断されていく。私の人生の尽きるまではそう間がないが、その間にヒトの生き方を思い出す機運ができればいいと思う。

 

人生の分岐

 それなりに波瀾の人生を歩んできた自覚がある。もっと安易な生き方も可能だったはずだ。また、今のように細々したことにこだわりすぎる生活はおかしいとは思いながら、すべてを受け入れてきた。そのことを後悔はしない。なるようにしかならなかったのだ。

 自分にはもっと高い所に進む可能性があって、いまは不遇なだけだ。そう思うことは慰安の言葉としては最上級だ。実際は偶然掴んだ高みだとしても人は謙虚にはなれない。自分には計り知れない可能性がある。いまはそれを発揮できないだけなのだ。時が来れば一気に駆け上がるのだと。誰もが思う幻想だ。

 私はこの幻想を否定しない。妄想でもなんでもいい。成し遂げたいと思うことをこなしていく。そういう達成感の中で生きるのは一つの見識だろう。日常生活ではままならないことが多すぎる。それでも自分の中で描いた物語の主人公として生きられるならばそれは意味があることだ。

 どんな成功者も転落の憂き目にあっていると思っている人も、実は偶然の人生を生きている点では同じなのかもしれない。それを仕方がないものと諦めるのか、自分なりの意味を見出していくのかで印象は大きく異なる。

眼鏡を外して

 結構な近視に老眼をかけ合わせた面倒な目を持っている。最近、それでも眼鏡を外して歩くことが増えた。細かいものは殆ど見えない。男女の区別は出来ても、表情は読み取れない。

そういう視力で世界を見るとかえっていろいろ考えるようになった。見えない分だけ想像するようになるらしい。そして、反対に余計なものを見なくなる。これはむしろいいのではないか。

 もちろん、瞬時の判断を求められる場面においては視力不足は致命的だ。スポーツ選手が引退するのは筋力よりも視力の衰えによるのではないか。それほど瞬間の判断やそれに伴う行動は視力不足には厳しい。

でも、さほどの緊迫感がないときは、むしろ余計なものがみえない方が都合がいいような気がしている。

木漏れ日

 昨日はとても暑い一日だった。ただ、まだ湿度がそれほど高くはなかったので日陰に入ると涼しさを感じることができた。近隣の公園に行くと小さなテントを立てる家族が沢山いた。簡易に立てられるテントがあるらしく、登山の時のような専門的技能はいらないらしい。小さなテントで親子連れが横たわっているのは少し羨ましい。

 私は木陰ができているところに行ってみた。すると木漏れ日が独特の影を落としている。しかもおそらく光の屈折かなにかの効果で独特の縁取りになっている。それが絶妙な半日陰を作り出していた。涼しさに加えて心地よさを感じさせるのは光彩の力なのかもしれない。

 木漏れ日に落ち着きを感じるのは原始の記憶が呼び覚まされるからだろうか。そんな非科学的な妄想を次々に考えてしまう。森に抱かれていたころの人間は今のような生活には耐えられないと思う。

 これからさらに暑い日々が訪れる。冷房に頼りすぎて引きこもってばかりはいられない。それでは精神が病んでしまう。大切なのは猛天下でも適度に外界と関係をもつことなのだ。そのときに木漏れ日の優しさを思い出したい。

夏日確定、その上も

 週末は晴れの予報が出ている。しかもかなり暑くなるらしい。今日も関東の内陸部では30度に迫るらしいが、明日は関東南部もそうなる可能性が高いという。順化はかなりできてきたがまだ不安もある。給水、休憩を心がけたい。

本を読む時間

 最近、本を読む時間が不足している。自分の仕事を能率的にするほど、わたしの場合は読書から離れてしまう。物事をテキパキこなすことと教養を蓄えることとは違う回路が必要なようだ。

 残念ながら、いまは日々の仕事をこなすことに手一杯だ。それには教養は要らない。雑念を捨てて作業をこなすことだ。今の世の中はこれが求められているから厄介だ。自分を仕事の機械にしていく。それで満足している人があまりにも多いのは不思議だ。

 いまは耐える局面と心得ている。生産性という大義名分の元に犠牲になっている生き甲斐というものを取り戻す準備をしていこう。面従腹背、わたしは性格がよくないのである。