読解力が導く新しい世界

 後に大家と呼ばれる作家のデビュー作の中にも酷評を受けたものが多数あるという。読むに値しない作品だ、などというのはまだいい方で、作家の人間性を傷つけるような行き過ぎたほとんど誹謗中傷というものまである。

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 これにはいくつかの要因があるようだが、その第一は読み手としての受け入れ方法が見つからなかったことにある。新しい表現法、新しいテーマ、新しい視点といったものは新奇性というより、奇異性の方が先行する。結果としていかに読めばいいのかわからないのだ。

 時代を変えるような作品の中にはそれを受容する側の能力との釣り合いが求められることがある。その均衡が図られるまでは作品が評価されることがないのかもしれない。作家が先行しても読者がいなければ作品は浮かばれない。

 物差しのない中でその作品の価値をなんとなく見抜くのは実は才能なのかもしれない。よく分からないけれどなんだか凄いと感じる。そういうことができる人が現れてくると新しい作品が生まれる。こうした読解力を持った人が真の読者というべきなのだろう。

 小説の話で書いているが、これはどんな方面にも当てはまる。新しいもの、今までになかったものにどういう評価を下し、どんな価値を与えるのか。それには奇異と映るものを粘り強く受け入れることが要求される。そしてそれが達成されることで新しい世界が始まるのだ。

伝説と昔話

 民俗学を学ぶものはごく初期に伝説と昔話の分類について学ぶ。昔話は桃太郎や一寸法師などの例を想起すれば分かるように、定型があり、聞き手側がある程度非現実性を認めていることだ。

 すなわち、関東地方の例では話始めが「むかしむかし」であり、終わりは「めでたしめでたし」である。またあるところという不特定情報が提示され、登場人物の素性についても極めて曖昧である。昔話の聞き手、もしくは読者はそういった詳細情報には無関心で、一部虚構であることも承認している。

 それに対して伝説というのはとにかく核となる物事があり、それが真実だと考えられている。話す方も聞く方もかつてあった本当の話として語り継がれるのである。それが昔話との大きな違いである。伝説には話法においては定型はない。その代わり、核となる事物が今でも存在し、話者も聞き手も話されている内容が事実であると信じている。話の定型はなく。不可思議な話が次々に展開される。

 伝説のいくつかはその現場に行った経験があるはずだ。特定の自然物もしくは人工物が、何らかの由緒をもって語られる。義経、秀吉、家康のような歴史上の人物がその主人公になっている場合もあれば、不特定の人物がその代わりになることもある。その誰であるにしても、語り手は(そして聞き手は)本当の話として語り、聞いているのである。

 都市伝説という言葉もある。これは現代社会における伝説をいうものだが、従来の伝説と類似していながら、少し異なるところもある。伝統的な伝説ではあくまで話者も聞き手も完全にその内容を信じており、それを語り継ぐことに意義を感じていた。しかし、都市伝説にはそのような伝達主義はなく、もっと余裕がある。信じなければ天罰が当たるといった考え方はなく、むしろ流言飛語のように受け流しても構わないというくらいの位置づけである。伝説の後進としては変わり者で、不真面目でもある。

 ただ、これも気をつけなくてはならないことがある。どんなに怪しい話でも現代の都市伝説は、メディアにのってしまうとそれなりに説得力をもってしまうのだ。実は冗談から始まったことだとしても、それがあたかも切迫した事実のようなふりをする。現代の伝説は別の意味で信用される可能性があるのだ。

 冷静に振る舞うためにはここまで述べた民俗学的な知見を知っておいた方がいい。話はいかに展開し、変化していくのか。民間の言説の特徴を理解しておいた方がよい。

立て直し

 急に涼しくなったせいか昨日は一時体調が急落した。少し目眩がし、貧血気味になった。暮らし方を変えなくてはならないのに、油断してしまったのである。

身体が冷えていたことに気づき上着を着ると少しおさまった。そう言えばあまり食べていないことを思い出しいつもより多めの間食を取るとさらに回復した。なんとか立て直した。

これからは風邪をひかないように、また太り過ぎないようにバランスがいる。

見ていても見えていないもの

 よく読む文庫本のページを凝視すると驚くべき発見があった。ツルツルとした白紙の上に活字が印刷されていると思っていたのに、どうもそれは思い込みだったらしいことが分かったのである。

 紙面をよく見ると細かな模様があり、製紙の段階で紙という形となる以前の形態が想像できたのである。紙は始めから平面で筆を滑らすに適した表面をしていた訳ではない。様々な工程の上で紙となり、何事もなかったよう装っている。しかし、紙の表面の実態を知ってしまうとその物語に気がつくのだ、

 現代人には当たり前だと考えている紙や、電気を動力源としたスクリーンなどは、皆いわゆるメディアであり、実物の存在感を持つことが少ない。でも、あるときその質感を強烈に感じてしまうことがある。紛れもない実体がそこにはある。見ていても見えていないものはたくさんあるし、見えだすと気になることもしばしばあることだ。

冷たい雨

 今朝は気温が上がらず雨も降り続いている。はっきりと季節が変わったことを感じさせる。

 昨日彼岸花のことを書いたがそういえば萩もいつの間にか開いていた。もう少しで咲きそろうのだろう。一気に進む季節には驚くばかりだ。

彼岸花の風景

 先日、近隣の町を訪れたとき、多くの彼岸花が咲いているのを見た。中には鉢植えにして玄関前で咲かせている家もあった。所によっては美しいが不吉な花とも言われているらしいが、この地域の人たちはもっと親和感を覚えているようだ。

 多くは印象的な赤だが白花もあった。球根で増えるこの植物は交配することがほとんどないらしく大半はクローンらしいが、ときに変異が生じるようだ。一斉に咲くのは同じ遺伝子で構成されているからだという。

 彼岸花の名の由来は秋の彼岸頃に咲くからという。今年は猛暑が続いたこともあり、今が見ごろということなのだろう。曼珠沙華とも言われる秋の花を楽しみたい。

料理と知的生活の関係

 料理をしなくなったことが知的生活の停滞を招いているというのは極論のようでいて、案外的を射ているのかもしれない。こういう話は日常の雑話の中でしばしば出てくるが、根拠がないのでその場限りの愚痴のような扱いになりがちだ。ただ、先日理科の教員が生徒諸君の実験授業の際の手際の悪さを料理しないことと結び付けて話しているのを側聞して、やはりそうかもしれないと考えたのである。

 料理は素材を組み合わせ、手順を踏んで調理していき、無駄なく最短の時間で行わなくてはならない。加えて自分がもっている調理器具や食器、コンロの数などの制約も考慮しなくてはならない。それらを総合したうえで、さらに食事の時間まで間に合わせるという時間的制約も加わる。これらは総合的な企画力が必要ということである。

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 そしてその成果は味となってすぐに評価の対象になる。どれほどの努力をしようとも、失敗を乗り越えようとも食べる側がうまいと思わなければ成功したとは言えない。すぐにフィードバックがあるのも料理の特徴である。味の基準は個人差がある。提供される側の好みも考えるとなれば、また考慮すべき要素が増える。

 いまはコンビニエンスストアにいけば完成した料理はいくらでも買える。万一、それが売り切れていても冷凍食品があり、これらは思った以上に美味だ。かつては添加物とか塩分量とか気になることもあったが、最近の製品はそれらが考慮されているものがある。だから、そういったものでいい。無理して自分で作らなくていいと考えるのは自然の成り行きだろう。

 しかし、そうした便利さと引き換えに調理する能力を私たちは失いつつある。先に述べた通り、食卓に提供するまでの総合的な企画力が問われる料理という行為を喪失しかけているといえる。やはり少々不便ではあっても自炊の楽しみは維持すべきなのだろう。料理することがもたらすのは食欲の充足だけではない。

実用主義と基礎研究の対立

 科学者にとってノーベル賞は自分の業績を評価してもらうための大切なものらしい。特に基礎研究をしている人にとっては、一般人が何のためにやっているのか、何に役立つのかを理解するのが難しい研究領域を、一気に知らしめるきっかけになる。日本人はこの基礎研究の分野で一定の評価を受けてきたようで、多くのノーベル賞受賞者を輩出している。彼らの研究はその後の応用科学や技術を導き出している。

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 ところが、今後受賞者が減るのではないかというよくない予測が出ている。その原因の一つに実用主義に偏向した補助金支給の在り方にあるのではないかという批判がある。何らかの利益に結び付きそうなものには金を出すが、基礎研究は序列を下げるというものである。話を大きくしてしまうが、これは理系分野のみならず、学問、教育の分野全般に言えることではないだろうか。役に立ちそうなことはやるが、どうなるか分からない知的活動は軽視する。

 いわゆる知識人と呼ばれる人の中に、日本の教育の中にはやっても意味がないものが多すぎる、それらを止めて、もっと実用的なことをする時間を増やすべきだという人がいる。一理あるような気もするが、それでやめるべき対象として文学や古典、歴史、理科の一部分野、さらには体育や美術などの実技科目などがあげられる。その根拠は将来役には立たないからというものだが、そう言っている論者の多くは中等教育においてそれらの科目からいろいろな知識を得ているように思えてならない。

 役に立つ立たないという区分けをしてしまうこと自体が知的活動の芽を摘んでしまう。何が役に立つのかは一人の人生の範囲の中では分からない。後になって発見があるかもしれないし、極端なことを言えば人生が終了した後で、後生によって価値が発見されることもある。思うに教養にも短期的なものと中長期的なものがある。昨今の人々は教養というものをどこか古臭いものと考え、非実用とする。少々心得のあるものでも数年から十数年くらいの人生で役に立ちそうな短期的教養は尊重するが、それ以上のものはなくてもいいのではと考えているように思える。

 ノーベル賞のようなブレークスルーにつながる業績を残す人は、短期的実用主義とは縁遠い人が多い。ただ、自分の知的好奇心に沿って思考を進め、そのためには一見無駄と思われることもし続けている。また、最近注目されているのはアート分野への関心がある人が多いということだ。想像力と芸術は類似する点が多く、大変親和性が高いという。文学や歴史もそうだろう。そういったものが背景となって知的活動が成立する。だから、そういう背景となるものを取り去って、新しい何かを考えろというもは実に本末転倒なのだということになる。考える行為にまで利益を考えなくてはならないほど、精神的貧困が進んでいるということなのだろうか。

ポケットが増えて

 このところ流石に涼しくなっている。10月だからあたりまえなのだが余りにも極端なので体力が追いつかない。上着を着て仕事に行くようになったが、そうすると持ち物の管理がひと手間増える。どこのポケットに入れたのか分からなくなるのだ。

 数年前から上着にはなるべくものを入れない。入れるときには同じ位置に入れることを習慣づけている。それでも慌てるとつい行方知れずの体たらくとなる。残念だが歳を重ねるほどに増えている。

 それでもまだそれを意識できているうちはいい。無頓着になりすぎると悩みは減るが損失は増える。上着を着るときは特に注意すること。必要なもの以外、持ち歩かないことなどを再認識しておきたい。

秋刀魚

そう言えばしばらく秋刀魚を食べていない。殿様が目黒で偶然食して感動したように、子どもの頃、秋刀魚は私にとっては高級魚であった。庶民の味の代表であったはずだ。

 ところが最近は事情が違う。気候変動に加え、近隣国の漁獲量が増えたことも関係して、秋刀魚は文字通りの高級魚になってしまった。出回るのは型の小さな冷凍物ばかり、秋刀魚を骨も残さずきれいに食べるのはかつては賞賛の元であったがいまは切実な問題となりつつある。

 春夫の詩をどのように読むのか。これも秋刀魚の相場と関係するような気がしてならない。秋刀魚のはらわたを食べられると大人になった気がしたのも懐かしい思い出だ。秋刀魚なんて魚も昔はよく話題になっていましたねなどと考古学的に語られる時代が来るのではないかと危惧している。