スマホ1日2時間条例

愛知県豊明市で市民の仕事や勉強以外でスマートフォンの使用を一日2時間以内を目安とするという条例ができたという。10月1日に施行される。ただし強制力や罰則はないので、事実上は努力目標ということになる。

 スマートフォンが過剰に使われているのは周知の事実だ。私の場合は通勤定期、乗車券、決済、各種会員書など多方面に利用しているから、これを休止することはできない。ただ、そのほかに例えばソーシャルメディアを見たり、ニュースメディア、ソーシャルメディアなどを見ているとあっという間に時間が過ぎる。ある人は時間が溶けるという言い方をしていたが、まさにそういう感じだ。多くの情報を閲覧しながら、その大半は印象に残らないのは不思議である。

 1日2時間は朝昼夕に分ければ1回40分程度ということであり、達成できそうな気もする。私はゲームはやらないのでそう思うのかもしれない。気が付いたことを検索することで一回30分は使っていない。問題なのは他人が作ったほどほど面白い短編動画をみることだ。これは面白いと感じると次の動画が用意されているので止まらなくなる。

いわゆる「スマホ脳」なる現象は現代人にとっては克服すべき大問題だ。法令で規制するのがよいのか分からない。もし、この法令に罰則規定が付いたらとか、規制のために個人の閲覧記録が監視されたならと考えると別の問題が出来する。自律が最善なのだが、人間はこれを克服できるのだろうか。

何に注目するのかは人によって異なる

 私たちには都合の良いところだけを見るという能力がある。私たちの眼前に広がるのはさまざまなバリエーションの一つに過ぎないのに、ある側面だけをフォーカスしてその優れた面を中心にして評価の対象にする。美女美男というのが典型的で、美しさという極めて流動的な基準をその場で設定して、あたかもそれが絶対的基準であるかのように論う。美意識というのが普遍的なように見えて実はかなり流行に影響されることはいろいろな歴史的な知見から伺うことができる。

 逆に他者にとってはどうでも良いことに悩んだり、劣等感を持つこともある。他の人にはほとんど気がつかないし、気づいても決して非難の対象とはなり得ないものに、異常に執着して動けなくなることがある。髪型の一部が少し崩れているとか、よく見ないと見つけられないほどの服のシミを気にしたりとか、自他の関心度の格差が大きい場合はこの種の問題につきあたる。気になっているのは自分だけであり、他者にとってはどうでもよいこと、というより思慮の枠組みにも入らないことがある。それでも本人にとっては一大事であり、それを乗り越えなくては何もできない。

 私たちの価値観というものが、実はかなり流動的であり、様々な変容をすることに気づくことが最近はとても増えている。でも、そうはいっても細かいこだわりからは解放されることはなく、相変わらず他者にとってはどうでもいいことに悩み、他人の良いところばかりに注目して尊敬したり、逆に劣等感を覚えたりする。その反対に対極から見ればそれほど変わらない他者に対して非難したり差別したりするもの一続きの現象と言えるのかもしれない。

 社会的な動物である人間にとって共時的な価値観に縛られることは仕方がない。他者のふるまいは羨ましいし、逆に疎ましくも憎らしくもある。勝手に定めた価値の物差しのどの位置にあるのか。自分と他者とを勝手にプロットして一喜一憂するのである。インターネットによる高度情報化社会ではそれがネットを通しての空想、妄想に肥大している。物事の良しあし、美醜、価値の有無といったものが、あたかも同時代人に共有されているかのような錯覚をしてしまうのだ。落ち着いて周囲を見れば、だれにでも共通の価値観などほんのわずかしかない。

 何に注目するのかは人によって異なる。注目した対象をどのように扱うのかも人によって違う。例えば日本人なら同じ価値観を共有しているというのはザルの目を粗くすればその通りだが、少しだけ細かくすると結果は全く違う。無理やり一緒だと思い連帯感を結ぶのは場面によっては大事だが、大抵の場合は息苦しさを生み出す。個々人の興味・関心、好き嫌いの好みなど、非常に複雑なグラデーションになっていることを忘れてはならない。

  

学の独立?

アメリカの大学で多様性・公平性・包括性(DEI)に関する方針が後退したという。トランプ政権が補助金の停止などをちらつかせてこうした方面に抑圧をかけているのだという。ハーバード大学がDEIに関係する部門を閉鎖していることからもその深刻性が分かる。自由の国と思われていたアメリカ合衆国にして大統領の意向に従わざるを得なくなっていることに大きな衝撃を受ける。

 同じことが日本で行われたらどうなるだろう。日本人ファーストが受けた最近の動向ではあながち妄想とはいえない。例えば国立大学の留学生の数を減らし、政府の意向に合わない政治経済思想に関する学問領域の補助金を削減することが決まったらなどと考えてみる。官立学校が政府の役人養成のために作られた我が国の国立大学の歴史を振り返れば、アメリカ以上に政府の統制が浸透する可能性は高い。私立学校はそれに対抗して学の独立を貫けるのか。これもかなりあやしい。日本の大学はあまりにも企業化しすぎており、建学の理念だけで生きていける学校はほとんどない。

 ならば、アメリカの現状を招来の日本の在り方の予告編とみることができる。大学が権力者におもねり、それに対する批判は抹殺される。そうなれば全体主義の一歩手前だ。その事態が間近にせまっていることを認識しなくてはならない。先の大戦でも優秀な先人は多数いたのに戦争の結果を予測できず、敗戦までのストーリーを見通せなかった。これはいかなる美談への変換もできない事実である。

 少なくとも良識のある国民を育成する学校を死守すべきであり、その頂点としての大学の在り方を考え直すべき時は来ている。東大に入ることは決して個人の幸福を追求するためだけではない。学生たちが自分の将来について自由に論じ合える場所を提供することが大学人の使命だと心得る。

8連続猛暑日

 東京は今日で猛暑日が8日連続となり、史上初ということだ。お陰で30℃を涼しいと感じてしまう。感覚が狂っている。

 長期予報によれば10月まで高温傾向が続くとのこと。春と秋が絶滅危惧になっているという考えに納得してしまう。

 明日から少しだけ気温が下がるらしいが、それでも8月下旬の陽気にしては暑すぎる。少しずつ体調の異変を覚えるこの頃である。なんとか凌いでいくしかない。

自由工作

 夏休みの宿題に自由工作というのがあった。なんでもよいから作品を一点提出することといったことだろう。7月の転校が続いた私にとって宿題の提出は結構逃れられることが多かったが、どうしても出さなくてはならないときは、「水族館」で切り抜けた。これは空箱の一面を縁取りを残して切り取り、セロファンを貼って水槽の壁に見立て、中に糸で吊るした紙の魚を吊るというもので明らかに手抜きであった。

 ある年は転校がなかったのでどうしても作品を提出しなくてはならず、水族館もさすがにためらわれたため、木工のマガジンラックを作ることにした。すると途中で亡父が手伝ってやるということでいろいろ手助けしてくれた。そのうち、やりたいことがやりたくなった父は、丁寧にやすりをかけて、ニスを塗るとなった前に何を思いついたのか金色のスプレー塗料を吹きかけてしまった。子ども心にもこれは変だと思ったが、もうそのときはどうしようもなかった。

 夏休みの宿題に父の作品を出した後の気持ちはあまりよくなかった。褒めてくれた人がいたかと思うが、あまり覚えていない。水族館でよかったと思った記憶は微かにある。

納豆は欠かせない

 子どもの頃は納豆が好きではなかった。嫌いではなかったがどうして面倒な糸を引く食物を食べなくはならないのかと考えていた。いまは不可欠な食材である。

日本食の中でも先鋭的な食材とされる納豆だが、日本人でも納豆嫌いは多い。だから、外国人に納豆が食べられなければ日本人の味覚は分からないなどというのは間違いである。おおまかに行って、かつては東日本の人は納豆を日常的に食するが、西日本はそうでもないと言われていた。私がかなり前に北陸に住んでいた頃、そんな話があったが、近隣のスーパーで普通に納豆は売られていた。

 納豆には身体によい栄養素が多数含まれているようだが、中でも血液をサラサラにするビタミンKは注目すべきものである。動脈硬化などの対処に納豆は必要な食材らしい。私は親戚も含めてこの種の病気に弱い家系なので、納豆は摂らなくてはならないものの一つだ。

 とは言え、納豆を定期的に食べるのは簡単ではない。余裕のあるときはパックの納豆を食べるが、そうではないときはコンビニの納豆巻きのようなもので済ませている。巧妙なパッケージは食べられるようにするまで開封するのに工夫がいるが、納豆巻きのために手順を完璧にマスターした。

 子どもの頃には苦手であったのに、いまは毎日のように食べているものは他にもある。食文化は後天的なものであり、それを意識するのにも時間がかかる。文化とはそういう側面があるから、表面的な現象で異文化を批判することはできない。自国文化でさえ理解するには相応の時間が必要なのだから。

ダチュラ

 近隣に印象的な花を庭に植えていた人がいた。調べてみたらダチュラというのだそうだ。チョウセンアサガオともいう。この異名はかなり興味深く、チョウセンといっても朝鮮とは無関係で、アサガオとは異なるナス科の植物である。植物には罪はない。迷惑な名前をつけられたものだ。

 ダチュラはインドが原産と考えられ、高い気温に適応している。日本には江戸時代に薬草としてもたらされたようだ。次第に観賞用となり、品種改良もなされるようになった。庭に植える人もいるわけだ。

 もともと生命力が強い花らしく、先にあげた近隣の庭にはすでにこの花がないが、道路脇のわずかなアスファルトの裂け目にこぼれ咲きしている。迫力ある花なので誰も雑草扱いしないのだろう。

 ところがこの植物には毒性があり、摂取量によっては死に至る。根がゴボウに似ているとか、ナスの接木として利用するとかがよくないようだ。美しいものには毒がある。

 花が初めは上に向いているのに、次第に下垂するのも面白い。大きすぎる花に進化したのはなぜなのだろう。いろいろ考えさせられる。

TokyoかTookyooか

ローマ字表記法が見直される。日本語のローマ字表記には学校で教える訓令式と、英語の発音に近いヘボン式があるが、どちらも日本語の音を正確に置き換えることが難しい。

 訓令式は五十音図の概念で日本人が定めたものだが、タ行やザ行などは訓令式では外国人には読みにくい。アメリカ人のヘップバーン氏が考案したヘボン式は発音面は英語圏の人に読みやすいが、英語にはない長音の概念を表せない。小野も大野もOnoである。大谷さんがOhtaniと綴っているのは、後の工夫で加藤という野球選手のユニホームの背中にはKATOHとあったが、これは必ずしも海外からは読みにくいらしい。

 今回の改訂ではローマ字表記の基本をヘボン式としながらも、長音はマクロンをつけるか母音を繰り返すことが推奨される。KATŌかKATOOになる。個人的には記号付きでいい気がする。なおマクロン付きの文字はiPhoneの場合は該当する文字を長押しすると候補が現れ選ぶことができる。

英語圏で嫌われるnとbの連続は今回は考慮不要とのこと。また人名や地名など定着していたりこだわりがあるものは変えなくてもいいという。TokyoやOsakaはそのままでもいいということだ。

私の名前にも長音があるが、当面は従来の表記で、余裕のある時はマクロンをつけようと考えている。

ケイトウ

鶏頭、鶏冠とも表記されるケイトウは秋の季語ではあるが、実は5月から10月にかけて長い花期をもつ。今は暦の上では秋であるが、連日35度以上の真夏日が続いている。にもかかわらず近隣の花屋にはケイトウの鉢植えが並んでいる。店頭に置かれた鉢には強い日差しが当たることもあるようだが、特に問題はなさそうだ。

 この植物の原産地はアジアもしくはアフリカの熱帯と考えられ、本来暑さには強いようだ。そのため夏の園芸種としても歓迎されており、しかも秋まで楽しめるのだからよい。逆に寒さには弱いので冬越しはできず、あくまで一年草の扱いである。

万葉集には「カラアイ」として登場する。「韓藍」ということだろう。すでに園芸植物になっていたようで、山上憶良の歌に、

 我がやどに韓藍蒔き生ほし枯れぬれど懲りずてまたも蒔かんとぞ思ふ

 がある。カラアイには恋人の存在の寓意があるといわれているが、やど(邸前の庭)にカラアイを播種することがあったことをこの歌は教えてくれる。この花の鮮やかさは恋人の面影に比するにふさわしかったのかもしれない。

 同じ万葉集の、

 恋ふる日の日長くしあれば我が園のからあいの花色出でにけり

 ここも園芸種とみられるケイトウだ。そしての花の色合いは恋の歌にふさわしかったのだろう。

 鶏頭の十四五本もありぬべし

 という正岡子規の句は賛否両論ある。子規がこれを作ったのは1900年のことであり、早逝した俳句創始者ともいえる人物がこの世を去る2年前の作だ。写生の論を主張した子規にとって十四五本という曖昧さや「ぬべし」という推量表現が観念的だと考えられる理由になっている。でも、この作品の感動の中心は鶏頭そのものにあり、それが複数ある。手指にも足りないほど多くということで、鶏頭のもつエネルギーのようなものに圧倒されていることをいうのだろう。子規の人生と絡めてしまうと余計に痛切な意味を感じるが、それを入れなくともいい句である。

 鶏頭は古来から人の心を揺さぶる力を持っていた植物である。

AIを道具にできるのか

 私のようにAIに関しては慎重な者でも、最近は使う機会が増えている。いわゆる壁打ちと呼ばれるアイデアの醸成に使うことがその一つだ。スマホのアプリでも簡単なことはできるので、相談役になってもらうことがある。どんなに浅はかな提案でも、非難することなく持ち上げてくれるのは、プログラム上のこととは分かっていても悪い気にはならない。私にそれと同じことはできない。嫌なことは言動にすぐに出てしまう。

 適当な(曖昧なという意味)プロンプトで指示すればそれなりの結果を返してくるのも人工知能の優れたことだ。ただ、いまのところ忖度のような非言語要素はできていない。言われたことをそのまま形にするのは恐ろしく得意だ。

 よく言われるように人工知能の言語処理は意味をよりどころとせず、形式を元に確率が高い組み合わせを瞬時に繰り出してくることと言える。人間の使う言葉も大半はこの確率論的な語の組み合わせで生活しているから、AIの回答は間違いではないと感じることが多い。ただ、やはり私たちは言葉を意味を基準として運用することが多く、用例的な確率とは異なる。私のような捻くれた人間は人の使わない表現を使うことを常に求めているから、人工知能的な言語活用に不適合になることが多い。

 それでも、これから先の社会において人工知能の効用を利用しない手は考えられない。今やっているのは、事実関係の事象が大半だが、そのうち心理的な問題もAIに尋ねることになるのだろう。その際にどんなに自分よりきれる能力を持っているように見えても、それは人外食作り出した道具だということを忘れないようにしたい。届かないものに対して杖が使われ、速く走るために靴が発達し、もっと速く移動するために車や飛行機が生まれた。手や足の代替である。今度は脳の代替が出てきたわけで、道具を使う人類の営みには変わりはないということになる。