投稿者: Mitsuhiro

被災地で起きたことをどう報じるか

 能登の穴水で起きた被災者による自販機の破壊に関してさまざまな報道がなされた。混乱の中での報道ではあるが、看過できない問題点がある。災害時のメディアの報道の在り方について考えさせるものであった。

 避難場所になっていた穴水高校に設置されていた自販機が被災者によって破壊された。被災者たちは破壊行為をみて悲鳴を上げたがどうしようもできなかったと読売新聞が報じると、地元紙である北國新聞は緊急時のために取り出し、取り出した商品は避難者には配布されていたと報じた。

 読売新聞の初期報道は裏が取れていないまま報道してしまったことになる。それだけではなく、被災地において無道な窃盗事件が起きていたと報じることは日本人の矜持を傷つける大問題である。この点の配慮もなく、報じてしまったのは痛恨のミスだ。読売は記事の訂正を行わず自販機の設置会社が被害届を出したことを中心に報じた。初期の報道に間違いはなく、現に被害届が出されたと弁明しているかのようである。ところが、まだ続報がある。先日の報道によると設置会社は破壊を申告してきた人に対し、請求を行わないことを発表したという。被災者の心情を考え、賠償請求は行わないというのである。ただし被害届は器物の保障のために必要なので取り下げないということだ。

 被災地の「火事場泥棒」の報道はほかにもいろいろある。中には自衛隊の服装を偽装して倒壊した建物から金銭を盗み出しているなどといった報道があった。これらも本当に裏が取れているのだろうか。

 限界状況で人々がどのように行動するのかは誰にも分からないし、とても関心がある内容だ。そこに報道が焦点を絞るのは分かるが、事実無根の情報を流せば人心を乱す原因にもなるだろう。報道の責任を感じてほしいことである。

はからずも受け継いだもの

 認めたくはないのだが、自分の風貌が年老いた亡き父に似てきつつあることを自認せざるを得ない。残念だが確実にその方向に向かっている。

 父に対しては複雑な思いがある。苦労人で人当たりの良さで乗りきってきたキャリアであったようだ。子どもの視点で見れば泥酔して帰るだめな父親であったが、面倒見がよかったらしく、部下からの信頼は厚かったようだ。父のおおらかさに救われた人は多かったようである。

 私もその気はあるとは思うが、肝心なところで突き放してしまう冷たさを持っている。深く関わらないことが美徳と考えているのだ。これは相手を傷つけないが、代わりに何も残らない。

 父親は懸命に生きたあまり、無意識の残酷さもあった。自分の尺度でしか世の中を見ることができず、常に調和を重んじ、突出することを嫌った。だから、大きな損失がない代わりに現状打破のエネルギーがなかったのである。これは子どもの可能性を狭めるものだった。

 この方面の精神性はかなりの高い水準で受け継いだ。挑戦よりは現状維持を重視することは紛れもない事実だ。すべてを親のせいにするつもりはないが、環境も含めて遺伝した可能性は大きい。最近、これに気付いた私は結構破れかぶれの行動を厭わなくなっている。失敗する余裕ができたということなのだろう。

 父が亡くなってから、私はその思い出をなるべく封印しようとしてきた。思い出せば何かが壊れてしまうように感じていささか恐ろしかったのである。少し客観的になれるようになっているいま、何を受け継ぎ、何を捨て去るのかを考えられるようになってきた。

 

 

スズメがいなくなった

 いつの間にか変わってしまった風景がある。その一つにスズメがいなくなったことがある。私の住む東京の郊外には比較的街路樹や公園などがあり、都心部に比べれば野生動物も住みやすいと思う。にもかかわらず、かつてはどこにでもいたスズメに出会うことが少なくなってしまった。

スズメの写真

 公園などに訪れる野鳥は圧倒的にハトとカラスが多く、メジロ、ウグイス、シジュウカラなどを季節によっては見つけることができる。ハクセキレイは少ないが印象的であり、ヒヨドリやムクドリは群れて飛来すると圧倒的である。ところがかつては最も多かったスズメがほとんどいない。

 鳥に詳しい方の書籍やサイトによると、都市部のスズメの減少は大変顕著な現象のようだ。その原因として営巣場所が現在の建築物では確保しにくいこと、耕作地の減少で昆虫などの餌の確保が難しいこと、騒音や排気ガスなどの与えるストレスが繁殖力に影響を及ぼしていることなどが挙げられている。おそらく、そのいくつかの原因が相関しているのだろう。

 スズメは源氏物語に幼い紫の上が飼育しようとしていたエピソードが書かれているし、枕草子にも登場する。スズメを図案化した文様はいろいろある。文化に溶け込んできた動物である。子どものころ籠を伏せてスズメ獲りに挑戦した人は多いだろう。雛を拾って育てたこともある。そういう身近な動物が少しずついなくなっている。

週末はまた雨

 今週末も雨らしい。今朝は重い雲がたれこめて今にも降り出しそうな空である。気温も下降しており、場合によっては雪が交じるかもしれないとのこと。雨は困るが乾燥が和らぐのはよい。それだけで随分楽な感じがする。明日も雨の予報が出ている。

自動改札が人をモノにした

 駅の改札に駅員が並んでいたことを知る世代が少しずつ減っている。改札という言葉の持っていた重みも正比例の関係で軽くなりつある。便利だが大切なことを忘れつつある。

 先日、駅の自動改札機をうまく通れない人がいた。後ろから来る人がぶつかって来た。スマートフォンを見ながら歩いていたのだろう。ぶつけられた人は不愉快な顔をしたが、スマホ男は謝りもしない。改札をうまく通れなかった人が悪の元凶のような風をしている。

 自動改札は人間を通過する物体に変えた。そこに求められるのは支払いを無難に行うことだけである。その人の思いとか、考えとかそういったものはまったくいらない。便利さと引き換えに私たちは乗客から移動物体になったのだ。その居心地の悪さは物体らしく振る舞えなかった他者に対して起きる。ここに私は強い違和感を覚えるのだ。

 こうした利便性と人間性の引き換え現象は随所にある。普段は気にならないがあるときにわかに不快な感情に襲われるのだ。

手持ちの道具で

 旅行者の視点というものをこれまで何度も考えてきた。日常生活の風景は次第に新鮮味がなくなり、それを語る意欲を失わせる。それが旅人の視点になると、同じものが感動の原点になることもある。

 文学でも絵画でも音楽でも、異邦人が切り拓いた作品は数多い。非日常の風景に感動することが作品を生み出す原動力になるからだ。私はこの旅人の視点こそが文化を動かしてきたと考える。

 異国にたどり着いた創作者が持っているのは、自分が使い古した表現のための道具である。それが言葉なのか画法なのか、はたして音階なのかは表現手段によって異なるだろう。でもいずれにしても手持ちの道具で表現するしかない。その対象を表現するのに最適な方法はまだわからない。ただ描くしかないのだ。

 自分の知っているやり方で、いままで扱ったこともないものを描くのは難しい。だが、それでも表現したいという気分が勝れば新しい表現が生まれる芽が出るのだ。持っている道具は同じなのに、その使い方に革命が起きる。

 この意味において旅することには効用が大きいと言える。本当に身体をどこかに移動する旅でも、精神的に非日常の空間に身をおくのでもよい。旅することには大切だと考えるのである。

ボロボロになるまで参考書を使い倒す

 はるか昔のことになるが、受験生のころはこれさえやればなんとかなるという根拠不明の言い伝えがあった。英語の場合はいわゆる「出る単」(試験に出る英単語)をやればいい、国語は『新釈現代文』と『古文研究法』、世界史・日本史は山川出版社の一連の参考書をとにかく初めから終わりまで解きとおすこと、できれば二回以上やるといいなどと言われていた。私はそれを妄信して学習をしていた。時代は変わり、別の書籍に置き換えられたかもしれないが、基本的にこの考え方はいまでもある程度支持されているようだ。

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 参考書を一つに絞り、それを繰り返し読むことは今考えても合理的であり効果的と考える。評判のいい参考書や問題集を複数買っても、結局途中で放棄してしまうのなら意味はない。ある程度評価されているものを見つけてそれを徹底的に習得した方が成功する可能性が高いのである。受験勉強のような決められた範囲内での知識を問う学習にとって大切なのは定着させることであり、網羅的にあれこれ手を出すより、これと決めたものを繰り返した方がいいのだ。

 受験生のときはとにかくそういうものだと思い込もうとしてしていた。どれだけ参考書を手択本にするかが成功のカギと信じていた。今のように情報がすぐに取り出せ、さまざまなメディアを通して学習できる時代はかえって迷ってしまう。参考書にしてもいろいろなレビューを見ているうちに迷いが出て学習に踏み出せない。ただ、私たちの頭はデジタルのデータベースとはやはり異なるインプットする情報量をただ増やすだけではなく、何かに絞って繰り返す。割り切ったぶんだけ集中するという方法が大事なのだ。

 受験生のときはできたのに、いつの間にかこの基本を忘れていた。最近、このことを思い出しやはりボロボロになるまで参考書・問題集を使い倒すことを目標にするようになった。受験勉強の大半には問題が内在していると感じるが、こうした基本的な方法は見直さなくてはならない。

共通テストの国語を解く

 大学共通テストの国語は来年から形を変えることが発表されている。そこで現行の形態としては最後の問題を解いて感想を書き留めておこう。

 まずは相変わらずの分量の多さである。表紙を除けば50ページにもなる問題を最後まで解ききるにはそれなりの練習と、くじけない気持ちが必要だ。さらにあまり時間をかけられないので大づかみに内容をとらえることも必要になる。これらは機械で代替できる能力と私は考えるが、センター試験時代から情報処理能力、もしくはマニュアル力重視の傾向は変わらない。

 受験生にはそういう批判をしている暇はない。とにかく解かなくてはならない。現代文ではまずさきに注に目を通し、どんな文章なのかを予想する。次に共通テストの場合は先に設問を見たほうがいいようだ。特に各大問の最後にあるいわゆる新傾向の問題は、出題者が問題文をどのように読ませようとしているのかを示しているものなので、そこに目を通すべきだ。

 基本的に選択問題ばかりなので、ダミーとなる選択肢を見抜かなくてはならない。間違い選択肢を3から4ほど作らなくてはならない出題者は、文中に書かれていないことを含める、因果関係の矛盾、極端な強調、別の論点からの引用などの手法を用いる。選択肢を選ぶ前に自分なりの解答を作ってからでないと迷うことになる。

 古典分野のうち古文は脚注から見るべきだ。今回は江戸時代の擬古文であるが、そのことは実は後半の設問に書いてある。だから、古典においてもまず設問のすべてに目を通しておいた方がいい。今回はストーリーとしては難しくはないはずだが、和歌の贈答がなによりも優先される高雅なコミュニケーションであるということを知らないと何を言っているのか分からない。

 漢文は漢詩と史書の組み合わせという特殊なものであったが、やはり玄宗の楊貴妃に対する溺愛や、安史の乱などの世界史的な知識があった方が理解はしやすい。百姓の意味など歴史の知識があれば即答できるものもある。語彙や句法などを知っていればできるなどと思わず、歴史的背景に関心を持つことが大事だ。

 難易度的には難しいという訳ではないが、とにかく分量が多すぎる。手際よくできる問題から解答して失点を抑えるという方法が求められている。分量に圧倒されないよう、受験生は普段から長文の問題を読む練習をしておいた方がいい。そして大切なのは数をこなすことだ。残念ながら熟読玩味の能力は問われていない。多くの出題の型を体験し、高速で解答することを目的として練習しよう。

 そのためには高1や2で語彙を増やし、漢字を書き、古典文法や漢文句法を繰り返し学習することが肝要である。私の理想とする国語学習とは程遠いが、こういうテストが課される以上は対応せざるをえまい。

能登万葉

 大伴家持が越中国守だったとき能登を巡行したことがあった。天平20(748)年のことあった。当時、越中の国は現在の富山県にあたる地域に加え、現在は石川県に所属する能登地方の羽咋・能登・鳳至・珠洲4郡を含めた地域であった。家持は国守の務めとして国内の視察を行ったのである。

 どのような行程をとったのかはおおむね推定されている。越中の国府は現在の富山県高岡市伏木にあった。ここから志乎路(しをぢ)を通って羽咋に向かっている。

志乎路からただ越え来れば羽咋の海朝凪したり舟梶もがも(巻17・4025)

 家持らは能登半島の付け根部分を西に横断してまず羽咋の郡衙を目指したのだろう。それほど急峻ではないが山道を抜けるのには労力が必要だったはずだ。家持は馬上にあったのだろうか。日本海側に出ると羽咋の海は朝凪で舟遊びをしたいほどの素晴らしい光景が広がっていた。

 次に能登郡を目指す。郡衙はいまの七尾市あたりにあったと考えられている。

とぶさ立て船木伐(き)るといふ能登の島山 今日見れば木立(こだち)繁しも幾代(いくよ)神(かむ)びそ(4026)
香島より熊来をさして漕ぐ船の梶取る間なく都し思ほゆ(4027)

 4026番は旋頭歌という形式の歌で作られている。古風な雰囲気を表現するのに使ったのだろうか。能登の島山が能登島のことならば、その島陰には神を感じさせる何かがあったことになる。4027番歌は七尾市あたりの香島から現在は鹿島郡中島町に比定されている熊来を目指して航路で旅したことを伝える。「梶取る間なく」はおそらく常套的な表現だろうが、辺境の地に身を置く奈良の貴族の旅愁は伝わる。

 次に鳳至郡を目指す。現在の輪島市にあたる場所だ。万葉集には次の歌がある。

妹に逢はず久しくなりぬ饒石川(にぎしがは)清き瀬ごとに水占(みなうら)延(は)へてな(4027)

 現在、仁岸川という川は河口が門前町剱地というところにある川で、熊来から鳳至に向かう街道から考えれば遠回りをすることになる。水占がどのようなものであったのかは分からないが題詞を信じるのならばこの地に赴いての作だ。水占が「延ふ」ものであることが分かるが、何かを流してその状態で占うのだろうかおそらく珍しい地域信仰に触発されて作った歌なのだろう。

 そしておそらく鳳至の郡司の接待をうけたあと、能登半島の先端部の珠洲郡を目指す。珠洲の郡家は現在の珠洲市役所の付近にあったと推定される。富山湾側にあたる。能登の4郡をめぐり終えた家持一行はここから水路で一気に越中国庁を目指したようだ。

珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり(4029)

 珠洲の海岸を朝に船出し、往路で見た能登の島山をもう一度みながら富山湾を南下して当時は渋谿(しぶたに)と呼ばれた伏木付近の海岸に到着したころには月が出ていたというのだろう。当時の旅がどれほど大変であったのかは分からないが、国守巡行は任務として行うべきものであった。この職務があったせいで奈良時代の能登の風景が残されたのである。大伴家持の作品の半数は越中国守時代のものであるが、その中に能登の地名が残されたのは様々な偶然の結果である。

 この巡行とは別に万葉集には能登の国の歌として、

梯立の 熊来のやらに 新羅斧 落し入れ わし
かけてかけて な泣かしそね 浮き出づるやと見む わし(3878)

梯立の 熊来酒屋に まぬらる奴 わし
さすひ立て 率て来なましを まぬらる奴 わし(3879)

香島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て 石もち つつき破り 速川に 洗ひ濯ぎ 辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて 母にまつりつや 愛づ児の刀自 父にまつりつや 愛づ児の刀自(3880)

 という古体を残す歌謡のような作品が残っている。能登は万葉歌人にとってひと時代まえの雰囲気を持った地であったのかもしれない。

 私はこれらの作品の比定されている場所を何度か尋ねたことがある。最初に行ったときはバスで廻った。かなりの長旅だったが奈良時代の旅に比べればはるかに快適だったはずだ。富山県に務めていたころは自家用車で尋ねた。珠洲の灯台に行ったときには不思議な達成感があった。この万葉の歌枕のある土地が今回の大地震で多大な被害にあったことに心を痛めている。旅の途中でお世話になった方々のことが思いやられる。皆さんのご無事をお祈りしたい。

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