今日はかなり強く花粉症の症状が出ている。雨上がりは花粉の飛散が活性化するのと、強風の効果もあって今日は条件がよろしくない。
対策薬を規定の半量飲んでいたのだが、今日からは決まりどおりにしたい。まったくこの季節には困ったものだ。私の場合は4月の半ばには無症状になるがそれまでは戦わなくてはならない。
毎年のことであるがその都度慌て、時期が過ぎれば忘れてしまう。だから、経験は積み重ならない。そういうこともあるものだ。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
何かを覚えさせるとき、意味のないバラバラの情報として与えるよりも、他との関連性を意識させた方がうまくいく。結果として覚える量は増えたとしても意味のつながりがあると覚えやすい。そしてできれば自分の経験に引き付け、自分の言葉として語れるようになればより確実性が上がる。
これは多くの人が指摘していることであり、目新しさはない。大事なのはどのように実践させるかである。すぐに思いつくのは点の情報を結びつけるストーリーを作らせることだ。バラバラに見えるものに因果関係をもたせ、背景を補足することでいきいきとした情報にする。作った話を他人に話してもらうのもいい。これを繰り返し自分の言葉にできるようにしていく。
受験生だったとき、世界史の知識は講談のような話を作って覚えた。「秦の始皇帝の栄光と没落」とか「ナポレオン物語」とかだ。今思い返せばかなり怪しいものだが、西暦何年なにがあったと覚えるより遥かに繋がりがわかる。
いまは国語を教える身の上だが、例えば古典文学は話のパターンを意識して覚えさせる。たとえば歌物語なら、いろいろなことが起きるがそれらは和歌を詠むことで一気に進展する。説明を重ねなくてはならないことも1首の和歌で全て解決するという事が多い。これはもともと物語であるが、文法や単語を覚えること以上に大切な知識だと思う。そして単語や文法もストーリーとともに理解すれば「あやし」とか「あからさまなり」「さへ」「さて」といった多義語や現代とは意味がずれている古文単語も覚えることができる。
なにかを覚えるときは最低限の情報だけ取り上げるのではなく、あえて周辺の関連事項を取り込んで情報量を増やしたほうが効率的に覚えられる。来年度の授業ではこれをクラスの生徒全員にやってもらうことを目標にしたい。
寒さが復活して再び厚手のコートに戻した。このコートは実は20年近く着ていてかなり劣化が激しい。両袖の表面の生地にはいくつか亀裂があり、裏生地にもほつれがある。それでも着続けているのは私が外見に無頓着ということもあるが、それ以上に愛着があるからかもしれない。
量販店で購入した布地のコートは特に高級なものではない。デザインも平凡であり、今どきの製品に比べれば厚手でその分重い。ダウンなどにすれば、もっと軽く温かいものもあるはずだ。ただ、この布団を着ているかのような重みに慣れてしまうとコートはこうでなくてはならないなどと勝手な思い込みが出来上がっているのである。
また、このコートを着て出かけた数多くの場所や、そこで味わった喜怒哀楽の数々を思い出すと、これが自分の過去の確実な一部であると感じるのだ。だから、機能面とか美意識とかそういうものとは別の意味をこの古着に感じていることも、思い込みの上塗りをしている。
東京に戻って数年後にこのコートを駅前にあったモールで購入した。当時は結構スッキリしたフォルムのように思えたし、人に褒めてもらうこともあった。それを冬になるたびに引っ張り出し、その季節は毎日来て出かけている。仕事でも休日でも着ているので利用価値は非常に高い。購入した価格を使用した日づけで割れば、一日あたりの価格はかなり安いはずだ。
最近はさすがにほつれが気になり、別のものを買おうかなどと思うこともあるが、実際には買い替える気持ちは小さい。定年までの間はよほどのことがない限りもうこれでいいかと思う。世の中には新品をわざわざ経年加工して着る人もいるらしいが、これは天然の古着であり、その意味では味のあるものと言えるだろう。もう少し付き合ってみたいと考えている。
私は歩くことが好きな方であると自認している。目的なく歩くこともときにはある。そこで何かを発見したり、それまでとは違うものの見方をできるようになることが楽しい。
ただ、定期的に襲う膝関節痛が悩みの種だ。今までに4、5年おきに発症し、水を抜いてもらったこともある。その後軽快するが、いつの間にかに痛みが発生する。一昨日あたりからその気配を感じており、またかと落ち込んでいる。
水を抜かなくてはならなくなる場合と、何もしなくてもよくなるときとある。前回は自然治癒したので今回もそうであることを祈りたい。
歩くことが楽しみである以上、膝の故障は避けたい。歳を重ねるといろいろな障りがある。それを受け入れながら生きるのが人生というものなのだろう。
中学時代の国語の授業で何をやったのか、実はほとんど覚えていない。教材の名前が上がればそのことは思い出してもどんな内容だったのかは忘却の彼方にある。だから、私が教えたことをいつまでも忘れるなとは人には言えない。
ただ一つ印象的だったのは詩の授業だった。詩は声に出して読まなければ本当の良さは分からない。そういう説明を受けたあと、ひたすら音読、朗読をさせられた。随分変わった授業だと思った。その頃の私は素直であったから、こんなことをして何になる。時間の無駄だなどとはつゆ思わず。級友と声を合わせることを素朴に楽しんでいた。
いまになって考えるのだが、韻文の楽しみはこれがきっかけに始まったのかもしれない。いまでも駄作を作り続けているのはこのときに詩歌の価値を気づかせてくれたからかもしれない。
その師はすでに天に召され、授業の目的は何だったのかを教えていただくことはできない。ただ、いまの私には何一つ心に残す授業はできていないと考えるばかりだ。
働き方改革関連法で適応が猶予されていた建設事業と自動車運転業務および医師に対して2024年4月1日からは例外が認められなくなる。結果として労働時間が月45時間、年360時間以内であることが原則となる。労使の合意があった場合は年960時間まで延長できるが、その場合は賃金の50%の割増が義務づけられる。
本来は労働者を守るための法律であるが、実際には彼らの収入を奪う原因にもなり得る。規定の時間外で得ていた収入を当てにできなくなるので、すでに離職者が出始めている。雇用者側は割高賃金を避けるために雇用者数を増やしたいが、人材は足りない。賃金を上げれば運送にかかるコストは上がり、操業自体が難しくなる。運送業に関しては軽トラ個人営業者がインボイスに嫌気がさして廃業するケースが昨年度来見られる。業界全体で人手不足に直面するのが2024年問題だ。
運送業に関しては様々な規制や安全面、さらには習慣上の問題から外国人労働者を雇用しにくい。日本で2種免許を取得するのは高度な日本語能力がいる。さらには左側通行以外の国から来た外国人は事故を起こしやすいだろうし、顧客第一の日本の商習慣も馴染むのには時間がかかる。そして、何よりも決定的なのは安すぎる賃金である。厚生労働省の2022年の調査によれば、タクシー運転手の平均年収は361万円、労働者の平均年齢は58.3歳である。これが日本の安価な運輸流通を支えてきた。外国人労働者がわざわざ条件の悪い職を選ぶはずがない。
2024年問題の解決のためには何よりも運輸業界の待遇改善が欠かせないだろう。これは一つの業界に留まらない。流通業に依存する現在の多くの産業全てに関わる。とりあえず、送料無料のサービスは今後大幅に縮小する可能性が高い。また、再配達無料も維持することが難しいかもしれない。業界ではAIなどを活用したIT化などでこの問題を解決しようとしているが、なにか一つの策だけでは解決できない。私は某宅配業者のアプリを利用して、配達予定の通知を受けている。これによって不在時の配達をあらかじめキャンセルすることができる。再配達を避ける方法の一つだ。業界外の人間にも他にもできることがあるはずだ。
物事を学ぶときには謙虚な方がいいとは昔からよく聞く話だ。これを少し別の表現で言うならば、自分が未完成であり発展途上であると自覚できることが学びの奥義であるということになる。まだ学び足りないことがあり、学習によってさらなる向上があると考えられることが必要だということである。
そんなことは知っている。それは聞いたことがある。そういう発想は学習を阻害する。知っているのに更に学習するエネルギーを費やすことは無駄だと感じてしまうからだ。無駄なものにエネルギーを使わないことは生きるうえで必要な進化上の獲得物である。それ以上の知識や技能は要らないと考えると知的な進歩は止まる。
ならば、学習を促進するためには好奇心を保つのが要件となる。学びたいと思う気持ちを持つためには、自分の無知をどれだけ自覚できるかが問題になる。自分には知らないことがたくさんあり、学ばなくてはならないことが山積している。そして、それを知ることは楽しいことであり、少々の努力は苦にならない。こういう心の持ち方が求められるのである。
こんなことを書きながら、私自身が学習意欲の低下を自覚している。脳の経年的機能低下とか、体力の低下による集中力の維持が困難になっていることなどが主因であろうが、それと同じくらいあるいはそれ以上に問題なのは、好奇心の低下だと考えている。ある程度の経験を重ねた現在の私は、新しい知識なり、やり方なりを学び直すことが億劫だと無意識に考えている。手持ちの工具でなんとか処理できるから、新しい道具はいらないというのと似ている。
ならば、学びのためには自分が少々劣った存在であると自認できる必要がある。逆に言えば自分より優れた人物が存在すると思えることである。宮本武蔵ではないが、我以外皆師と思えるのは学習者としては理想なのかもしれない。そう思うためには誰からでも学ぶことができると思えることだろう。これが謙虚であるということなのだ。街で偶然出会った老人からも学ぶことができる人はおそらくかなり効果的な学習ができる人だ。
韓国で医師が大規模なストライキをしたことが報道された。理由は政府が医学部の定員を増やしたことだという。韓国は先進国の中では国民一人あたりの医師の数が少なく、日本以上に進行中の高齢社会に備えて医師の絶対数を増やさなくてはならない事情がある。なぜ韓国の医師は仲間が増えることを歓迎しないのだろうか。
報道によると医学生が増え、医師が増えることで現在医師である人たちの待遇が相対的に落ちることを嫌っているからだという。医師の数が増えれば自分たちの価値が下がり待遇も悪くなるということだ。もし、これが事実ならば、既得権者が自分の利益を守ろうとする利己的な行動ということになる。
しかし、これは事実なのだろうか。ますます多忙になる医業の実態からすれば、同僚が増えた方が結果的に利益になるはずだ。自分の給料が下がる可能性があるというだけでストライキなどするのだろうか。
韓国の事情は分からないのでこの推測はここで止めよう。話を日本に切り替える。日本でも医師は高額所得者の印象が強く中には半ば事業家のような人もいることは確かだ。ただ、多くは自らの健康を犠牲にして患者のために邁進する人が多い。もし、韓国と同じように医師の数を増やすと宣言したら、彼らは怒るのだろうか。
もし反発が起こるならば医者に対する待遇が悪すぎるのだろう。深夜勤務が続く医師が、仲間がもうひとり増えることによって自らの過労死リスクを低減できる。給料が減るのと寿命が縮むのといずれかを選ぶならば、答えは明白なはずだ、
医師が命よりも収入をとるならば、その医師に私たちは自らの生命を委ねることはできない。医者のあり方は生命の存在意義と直結する。
韓国の医師が利己的な打算で行動しているとは考えにくい。報道されていない何かの原因があるはずだ。それを知ることは我が国の医療の未来を考える上でも必要だと考える。
今日の日中は汗ばむほどの陽気だった。関東地方で夏日を観測したところもあるという。2月にして夏というのは異常というしかない。ところが、明日は気温が急降下し、更に今週末にかけて低温傾向が続くという。週間予報では雪のアイコンが付いている日もある。全く激しい変化だ。最高気温が10度以上下がる地点が多いのだと聞く。
咲き始めた梅花の勢いはもう止められないだろう。しばらく寒い日が続いても高温傾向には変わらないようで、桜もかなり早くなるのかもしれない。このところ桜は入学式の花というより卒業式の花となっている。さらに気候変動が続けば、私たちの季節感はかなり変わったものになるのだろう。
このころは気温や天候の変動が激しいことが特徴である。季節が変わるときの身震いのようなものと考えている。