投稿者: Mitsuhiro

再び積雪か

 明日、関東地方平野部でも積雪の予報が出ている。数cmだというが、備えのない地域にとっては重大な問題だ。恐らくそれほど大変なことにはならないと考えるがこればかりはどうなるか分からない。

 かなり靴が傷んでいることに気づいた。日常的に使うものは意識しないと劣化にも気づかない。明日は無理だが、そろそろ買い替えの時期がきたと考えておくことにする。雪道を歩くのは少し危ないと思いつつ。

ローマ字表記法の変更

 70年ぶりに日本語のローマ字表記法の基準を変更することが行われそうだという報道があった。学校で教える訓令式が英語の綴りとかけ離れているためより英語に近いヘボン式に近い表記法が採用されるようだ。

 確かにサ行やタ行、拗音などの表記は訓令式で表示されるとかなりの違和感がある。Matidaは何とか想像がつくが、マティーダと読まれるだろうし、Sinzyukuは日本にある都市とはとても思えない。ヘボン式にすればまだ日本語の発音に近い読みを期待できる。

 ただ、それだけでは解決できない。最も困難なのが長音の扱いだ。長音を言葉の単位と考えている言語はそれほど多くはない。かつてオリンピックで活躍した大野選手は、現地の掲示にはOno と表記されていた。小野選手が同じ競技に出場していなかったのは幸いだった。大谷選手のユニホームにはOHTANIとあるが、長音がいつでもHで表せるわけではない。飯田選手のユニホームにはIIDAとあった。

 長音はヘボン式でも書ききれない。私がお世話になっている中央林間はなんと書けばいいだろう。アルファベットの上に横棒をつけるŌが今のところ最適解だろう。この字をスマホで出すのはOを長押しするといい。

 いずれにしても発音体系が異なるローマ字で日本語を完全に表記することはできない。韓国人の英語表記は日本よりもっと自由でバラエティに富む。イさんがなぜLeeなのか、パクさんがどうしてPark なのか。理由などない。そう決めたからそうなのに過ぎない。

 日本も自分なりの表記を決めてしまえばいいだけのことだ。それを海外にどれだけ説得できるかが国力というものなのだろう。

三寒四温のこのごろ

 三寒四温というが、最近の天気の移り変わりはまさにそれに当たる。スマホのアプリが寒暖差の予報を通知する。その差が5℃以上のときも多い。寒さになれたと思ったら暖かくなり、マフラーをおいてきたのに寒かったりする。3月はとても忙しく体調を崩せない。やるべきことをやるだけだ。せめて天気は落ちついてほしい。

梅花早くも

 町田市の薬師池公園への観梅は毎年の習慣になっている。最近、梅の咲く時期が早まっており、ある年などはほとんど散ってしまっていたが、今年は間に合った。あと少しで満開という樹もある。白梅、紅梅、さらには蝋梅まで揃っており、多くの人達が楽しんでいた。

 梅に鶯は叶わなかったが、メジロが止まるのを見た。いわゆるうぐいす色をした小鳥である。この公園までは町田駅からバスが出ているが、自家用車がないとちょっと不便な場所にある。でも、それ故に適度に人が少なく、梅を楽しむのにはよい。駐車場はあるので、車があるなら近隣の四季彩の杜の商業施設や、少し先の野津田公園などを巡るのもいい。バラ園がある。ただJ1リーグ開催日は避けたほうがいい。

 梅は万葉集の世界では中国を感じさせる花であり、異国情緒を感じさせる何かがあったようだ。その後、日本の文化に定着して様々な形で享受されている。いまは公園で見られるがかつては貴族の庭にしかなかったのかもしれない。

後で書くのがノートの奥義

巷のノート術を読んでわかったこと

 講演などのノートをとるとき、多くの場合スライドや板書(黒板などに書くこと)された文字や図だけを移すことになる。書かれなかったことでも大切だと感じたとことはメモをとることが多い。ただ筆記に熱中しすぎると肝心の話の内容が理解できなくなる。ノートの目的はあとで思い出せるようにするための鍵となる言葉や図を書いておくことなのだ。

 さまざまなノート術の本やサイトを巡覧するに、ノートには次の3つの記入欄をつくり、一覧できるようにレイアウトするのがいいらしい。

  • ① 講演を聞きながらメモを取る欄
  • ② ①を読み返しながら、その見出しを作る欄
  • ③ ②の整理に基づき、自分の言葉で内容をまとめ直す欄

見出しをつけて内容を整理する

 ②は雑然ととったメモにまとまりをつけるための作業である。つまりあとから見出しをつけることだといえる。先述したノート術指南書のなかにはここを質問形式にしてみるといいとあった。例えば「もっとも効果的なノートのサイズは?」の様に書いて、①の欄を隠して再現できるのかをチェックするのだという。それもいいが、私はそれぞれの話のエッセンスを俳句くらいの長さ(つまり17音)くらいにまとめる方がいいのではないかと考える。たとえば「書きやすく持ち運ぶにはB5メモ」とか「ノートのサイズはA4がいい」などである。これは話の要素を短くまとめる作業だ。

自分の言葉でまとめ直す

 ③が実は一番大切で、ほかは実は何でもいい。聞いた内容を自分の言葉でまとめ直すのは知識を内在化し知恵に深めることの手助けになる。この際大切なのは教師なり講師の話し方や用語そのものに拘らず、あくまで自分の持っている言葉でどんな内容だったのかを記すことだ。この方法だと正確な記録にはならない。ただ、個人がもつノートは公式記録である必要はない。自分勝手なまとめであるべきだ。逆に言えばこの自分なりの言語化ができなければノートを取る意味は半減する。

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 ビジネス用途の場合は、もともと識者の見解を正確に覚えることよりも、それを自分の仕事の中でどのように応用するかという方に関心があるはずだ。偉い先生が何を考えていようと構わない。要するにそれは使える考え方なのか、使えるならば使ってやろうというのが目的のはずだ。ならば、この欄は自分ならばこう使うという視点でまとめればいい。学問の世界とこの点は違う。

ノートの取り方は誰に習う

 学校でノートの取り方を習ったことはあるだろうか。ノートの大きさや大体のレイアウトは教えられても、どのように書くのかは教えられない。まして何を書けばいいのかとか、そのように書くのはどんな意味があるのかといったことも習わない。せいぜい字はきれいにとか、落書きするなとか、板書したことは書きなさいとかだろう。実はわたしはこれらを今は言わないようにしている。

 字はきれいな方がいいがノートの場合は自分が読めればいい。人に提出するものは別だ。落書きは関係がないものはだめだが、授業を聞きながら思いついたものなら絵でも漫画でもなんでも書けばいい。ただし、熱中しすぎると肝心なことを聞き落とすので細かく描くのはお勧めしない。板書したことを全部書く必要はない。それも話し手の思考整理のために書いているのに過ぎない。自分があとで思い出すために必要だと感じるだけ書けばいいし、足りなければ書いてなくても付け足す。

 ただし、復習の際に書くのは日本語(自分の一番使える言語)の文章でまとめるようにする。図表にだけにするとわかったつもりになってしまっていることもあるので、きちんと言語化したい。その際に自分の感想を付け加えてもいいが、まずは話されたことは何かをまとめてから、それとは別に「以上の話を聞いて」とか「以下は私の感想だが」などで書き始めるようにする。こういったことは中高生のうちに学校で教えるべきだろう。

まとめ

 以上から考えるとノートを取るにあたって復習ということがいかに大切かということだ。話を聞きっぱなしにせず、今日はどんな話をきいたのかを思い出し、それを自分の言葉でまとめ直す。その作業をどれだけ繰り返すかが学びの成果に大きく関わる。そしてこういうノートの使い方は学校で教える必要がある。

千葉県東方沖の群発地震

 千葉県の東方沖を震源地とする群発地震が起きている。プレートの境界上にある同地域で、プレート同士の干渉が起きているのが原因だという識者の見解がある。ゆっくりすべりという述語も報じられている。これが正しいのならば今後も地震は継続し、場合によっては規模の大きな地震も発生するらしい。

 ゆっくりすべり、スロースリップと呼ばれる現象は大きな地震を発生させずに地殻の歪みを解消するものであるはずだが、そんなに都合のよいことばかりではなく、これが要因となって大きな地震を発生させることもあるらしい。詳細な因果関係は分かっていないようだ。

 考えられることとして、千葉沖で今後大きな揺れを感じる地震が起きる可能性がきわめて高まっていることである。沿岸部に行くときはニュースに気をつけたい。できればネットに繋がなくても聴けるラジオがあるといい。持っていたがどこにやったのか思い出せない。ごちゃごちゃの部屋をどうしよう。これは地震対策以前の問題ではあるが。

学校で使うデジタルデバイスはレンタルでいいのではないか

 一人一台のパソコンなりタブレットを小学校や中高生に使わせる教育方法の推進は、昨今の主流であるが、様々な障害を抱えていることも確かだ。その一つが購入させたデバイスの故障が多く、授業で使えなかったり、保護者の負担が増えたりすることがある。故障については機器そのものの問題もあるが、子どもの機器の扱い方の問題もある。子どもの中には機器を乱暴に扱ったり、意図しなくても落としたり水没させたりして故障させてしまう事例が多いと思われる。もともと使いたくて買ったのではないし、子どもが使うにはあまりにもやわなのである。

 そこで私はいくつかの提案をしたい。まずは機器のメーカーについてである。デジタルデバイスはすっかり海外勢に席巻されて、日本の個人向けコンピュータは風前の灯といってもよい。安価でそこそこの性能がある中国などのパソコンは個人で使うのには十分な性能がある。かつては高級品であったがいまは家電としてコモディティとなっている。ただ、教育用に特化した機器があるのかといえば十分ではないと考えている。最高のスペックや突出した処理能力はいらない。求められるのは第一に堅牢性であり、故障の少なさだ。バッテリーも6時間程度持てば良い。後述するように私案ではモバイルとしての軽さや、特殊なインタフェースもいらない。壊れにくく、授業のある時間は充電が不要ということが満たされていれば十分だ。

 次に流通業者に提言したい。学校に絞ったビジネスプランを提示し、安定的かつ恒常的な契約を取り付けるべきだ。学校へは機器をレンタルするかたちとし、故障機は交換できるようにする。学校には保証費を提示し、故障時に一部負担をしてもらえるようにしておく。これを年度更新していくことで、安定した収入を確保できる。少子化が進んでいるとはいえ、学校はなくなることはない。契約を取り付けられれば心強い収入源になるはずだ。

 学校関係者へは次のように言いたい。デジタルデバイスは学校でレンタルし、家に持って帰らせないようにすべきだ。デジタル機器による授業やその他の学習は確かにいろいろな利便性があるが、子どもの学習成果を阻害することも多い。家庭学習はデジタル機器ではなく、紙と鉛筆でおこなわせることをおすすめしたい。

 学校には生徒個々人のデジタル機器を保管でき、充電もできるラックのようなものを用意することを提言したい。家庭学習の宿題はデジタル機器を使わなくてもいいものにすべきだ。生徒が登校したら決められたデジタル棚から取り出して授業で使用し、放課後はまた同じ棚にもどす。充電にかかるコストなどはあらかじめ保護者に示し、負担をお願いする。

 保護者にお願いしたいのはデジタル機器はあくまで学習の道具であるという理解をしていただきたいということに尽きる。レンタル料ばかりを請求され、家庭では使えないとなると負担を渋る家庭もあるはずだ。

 授業でのみ使うレンタル制のデジタル機器ならば故障のリスクも家庭への負担も減らせる。日本の学校の実態に合わせ、教育的効果を配慮した使用制度を確立すれば、当初の理想に近づける。

今日から三月

今日から三月である。私の仕事にとっては年度末のいろいろある時期で無難に乗り切りたいとばかり思う。切れ目節目の時でもあり、私としても今年度で終わる小さなことを仕上げ、次に続く何かを模索していかなくてはならない。やるべきことを書き出して、優先順位をつけてと、毎年やることを今年も始めよう。今年は少々緊張感をもって。

資料を捨てられない理由

 高名な学者が書いた学習法の本に、覚えたことは資料ごと捨てるべきだと書いてあった。効率よく学習し、よりクリエイティブな思考をするためには個々の資料に拘泥してはならないという考えであったように記憶している。これはこれでもっともであり、説得力がある。ただ私にはどうしても受け入れがたい意見であることも確かだ。この違和感はどこから来るのだろう。

 それは私の歩んできた学問の性質が関係しているのかもしれない。先の学者というのは物理学の専門家であり、世界を法則で捉えようとする学問の大家である。法則を発見することに全力を注ぐ学者にとって、個々の資料はその手段に過ぎない。なんと書いてあろうと期待する法則性を立証するために役立てばいいのである。

 対して私が学んできた古典文学は資料そのものに多様な意味がある。たとえばなんという言葉が使われているか、どんな紙にどの様な字が書かれているか。こうしたことがすべて大切だ。必要なのは記号化された文字情報だけではなく、それが書かれたもの自体に意味がある。これは資料には様々な意味が包含されていることを意味する。

 そしてたとえ出版物であっても、世間に流通した件数が少ないこともある。そういった資料はここで逃すと二度と出会えないかもしれないという気持ちで大切に扱う。そして、使い終わっても廃棄できない。その資料が再び使える日が来るとどこかで思っているからかもしれない。

 私がいつまで経ってもものが捨てられないのはこの様な学問的な背景があると考えてみた。私のような考え方は今の時代にはあっていない。情報はなんでもデジタル化され、高速な検索と編集の技術によってデータベースになっているから、学習者は個々の資料を特別なものとは思わない。

 私のような考え方は冗長で無駄が多いと思われる。瑣事にこだわり前に進めない思考法とみなされている。おまけに片付けることができないことを非難材料にされることも多い。効率が悪いとも言われる。対して最近流行りの学習法は効率を追求するあまりに物の本質を見失っているか、意図的に見ないで済ませているのではないだろうか。彼らにとって進むべき道は最短距離の一本道で、迷うことなく通り過ぎることをよしとしているのだ。

 資料を切り捨てる人たちの考え方はとても洗練されており魅力的な気がする。その反面でなにか大切な側面を忘れていないか気になる。多くの切り捨てられた部分はその局面では不要なものだったかもしれないが、見方を変えればそこに意味があったのかもしれない。私はいつか光るかもしれないガラクタの石をいつまでも持っていたい気持ちなのである。

最初の一歩

 毎日文章を書いていると、何を書いていいのか分からない日がある。そんなときは天気の話題でごまかしているのだが、実は書くことが決まると次々に書けるものである。換言すれば最初の一歩さえ踏み出せればなんとかなるということだ。

 ただし言うは易く行うは難し。その最初の一歩をどこに置けばいいのかで迷うのだ。おそらくその一歩を踏み出す前は、それがある程度継続して自分なりの目的地にたどり着くことを考えている。だから目的地のことばかり考えると行き詰まる。最短距離で苦労することなく進んでいこうと無意識で考えるからだ。でも新しいことを考えたり、始めたりするときはその後の展開は予測不可能である。予測できるものであればそれは新しいものではなく、既に経験したものであろう。だからこそ、最初の踏み出しには困惑と不安がつきまとう。

 そういう意味では最初の一歩はむしろなんでもいいのかもしれない。とにかく始めることによって、考える糸口が生まれる。糸口が分かれば紆余曲折はあっても思考が重ねられる。目的地が仮に北にあったとしても、最初の一歩が南を向いても構わない。最短距離ではないが、道中で得られることは多いはずだ。

 私のブログは大抵がとても短い時間で書くので、論理の破綻や無駄が多いかもしれない。それでもいいと思っている。結果的に何も考えなかったことよりも、下手な思考をした方がいい。