投稿者: Mitsuhiro

監視カメラの列を過ぎ

 東急の電車には監視カメラが付いている。出口前の照明の一つにカメラがあるのは周知の事実であり、緑色のランプが点いて稼働中であることを知らせている。車内で起こるさまざまなトラブルを抑止するためにも必要だと思う。

 ただ、私たちの日常は以前よりはるかに監視されていることを自覚しなくてはならない。商店や個人宅に設置された録画機能付監視カメラに加えて、自動車に搭載されたカメラも日常を記録し続けている。かつてはどんなに録画しても、それを解析するのに時間がかかるので無意味と言われていたが、人工知能の機能を活用すれば驚くべき短時間で記録の検索が可能になっている。

 時間は流れ、そして消えてゆくものであったはずなのに、それが記録され蓄積され、ときに目的に応じて再生される。何とも窮屈な時代になったものだ。私は今だけに生きたいが、過去をむしかえされる恐怖に常に怯えなくてはならないのだから。

 さしたる悪事も善行も積んでいない身でかような心配は杞憂であると言われそうだが、いわゆるパノプティコン社会で暮らす身の生きづらさは、微かながらも確実に我が身に迫ってくるのである。

読書自慢

 高校生の頃、国語の教科書の後ろにある年表に掲載された作品をどれだけ読んだことがあるかを競っている級友がいた。漱石や鴎外だけではなく、文学史では名前を聞いたことがあるが読んだことはないという作品を彼らは面白かった、そうでもなかったと論じていたのである。私はついにその輪に入ることはできなかったが、密かに対抗心を燃やして読んでみたものもある。多くは意味不明で理解不可能だった。私は読み始めたら、とにかく最後のページまではめくらなくてはならないと勝手に思い込んでいたので、難行苦行の読書体験が続いた。

 それでも島崎藤村の詩集にであったことは私にとっての幸運であった。自然主義文学の世界はどこか納得いかなかったので、同じ作家の作品とはなかなか判別できなかった。西田幾多郎の哲学の本とか、葛西善蔵とか太宰治とか読んでも実感がわかない小説とかもとにかく濫読してその多くは内容も忘れてしまった。文学者になる人との分かれ目はそういうところにあるのだろう。

 そして受験勉強の大義名分をもとにそうした目的なき読書は中止してしまった。大学の教養時代に少しだけ復活したが、世は効率を求める時代になっており、何がいいのか分からない読書の経験は価値が低いものと考えてしまったようだ。

 でも、愚直にあの網羅的読書を続けていたら私の人生はもっと違ったものになっていたのではと思うことがある。その方がよかったのかどうかは分からない。ただ、先人があれこれ悩んだことの経緯をショートカットしないで辿っていたら、今のような器用だけれど実感を持てない味気ない毎日はなかったのかもしれないなどと勝手に考えてしまうのである。

 高校時代に読書自慢をしていた彼らはどうなったのだろう。その輪にはやはり入っていた方がよかったといまでは思う。

冬のオリンピックは

 ミラノ・コルチナオリンピックの中継を観ながら、冬季種目はつくづく自分にはできないことだと思う。もちろん例えば陸上競技でもアスリートにはとても叶わないが、まだ競技場を走ることはできるが、スキーもスケートもできない私にとってはとても真似のできないことをやっている。

 スケートは日本選手も活躍している。スノーボードもメダルを取った。ただアルペン種目やノルディック種目はほとんどがヨーロッパ選手が上位を占め、アメリカとカナダの選手がそれに混じるというのが現状だ。アジアの選手は日本を除けば中国と韓国の選手が少しだけ。明らかに欧米中心の大会だ。

 雪や氷の上で行うスポーツの性格上、競技人口は限定される。ただ、夏の大会では存在感が薄い北欧の選手が脚光を浴びるこの大会は価値があるのだろう。日本のように四季があり、さらに地域差もある国は世界的には稀であり、どちらの大会にも出場出来ることは幸運だと言うしかない。

見極め

 日本企業が世界で主導権を握れないのは検証をしすぎるからだという意見がある。万一のための試験を繰り返し、失敗をしないように実験や調査を繰り返す習慣が、国際的競争力を奪っているのだという意見だ。ある意味当たっているのかもしれない。せっかくいいものを作り出しても、検証に時間と資金を使っているうちに他国との競争に敗れてしまう。そういう話はいくつも聞く。

 日本がこのように慎重になるのは、過去の公害や健康被害などの経験を繰り返しているからだろう。それは大切な教訓であり、消費者利用者に対する信用を極めているということなのだろう。だから、この慣習をあながちまちがっているという批判はおかしい。それでも、現状では日本の技術開発なり、商業戦略なりは負け続けることになりそうだ。だから、できたところからすぐに公開して利益を出していくということは大切なのだろう。人材不足は今後の課題である。少子高齢化に加えて、海外企業への転出が続く中で、優秀な人材は貴重になる。人工知能などの活用で、機械的な作業は極力省力化して、クリエイティブな方面の人材を増やすことが必要になる。

 教育の方面もただ就職するための学歴を磨くというより、想像力や創造力を発揮できるような基礎知識と自由な発想をする機会を提供することが必要になるはずだ。それはもしかしたら、今のようないたずらな情報処理能力の追求ではないのかもしれない。もっとじっくり物事を考え、これまで考えもしなかった独創性を発揮できるようにするべきなのだろう。

 日本チームがオリンピックでメダルが取れているのは選手の能力と努力はもちろんであるが、それを引き出すような環境が揃っているからだという。長期的なものの考え方と機を見て方針を変えていく思い切りの良さをとを両立させることが求められている。

 話は単純ではなく、さまざまな方面を効力してそれを統御していかなくてはならない。個人の力をまとめて、それを実現していくより俯瞰的なものの考え方が求められているのかもしれない。その見極めのできる能力こそが未来を拓いていくのだろう。

受光時間

 毎日つけている腕時計は太陽電池で駆動している。この季節は袖の下に隠れることが多く、充電状態がよくない日が続いている。僅かな受光時間で動き続ける性能に感謝している。

 ここ数日は高めの気温で推移する予報だが、それでもコートを着ずに出かけるのには難しい。枯れがれになっている時計にエールを送りながら自分も何とかしなくてはと考えたりもしている。

 2月も半ば、いろいろなことが終わり、始まろうとしている。

花粉症対策

 花粉症の対策薬を数日前から服用し始めている。私の場合はフェキソフェナジンの薬が合っているようで、副作用が少ない。かつてはこの時期は難行苦行の感があったが、いまはそれに比べればはるかに楽だ。子どもの頃は不治の病のように言われ、絶望的な気分になったこともあった。

 花粉の飛散の少ない杉への植替えが少しずつ行われているらしい。ただ、林業の分野も後継者不足と、木材の価格が逓減しつつある中で、手間のかかる植替えは進まないと聞く。恐らく私の人生の中では解決されないだろう。

 杉が日本の文化に果たしてきた役割は大きい。杉は日本の固有種といわれ、さまざまなな民俗の中で取り上げられてきた。そういう大切な樹であるからこそ、花粉症の問題は何とか乗り越えなくてはならない。

読書感想文のあり方

 以前も書いたことがあるが、読書感想文を書かせることは大事だと思う。ただ、それは書評ではないことを踏まえるべきだ。

 生徒の書く読書感想文を読むと、相当な割合であらすじや本の紹介が含まれている。中にはそれが大半であり、これならば他人のレビューを引用したり、人工知能に書かせたりでできてしまう。極端なことをいえば、まったく読まなくても書けてしまうものである。

 でも、それを自分の感じたこと考えたことだけを書くとしたらどうだろう。本文の設定やストーリー展開に縛られることなく、自分を語ることを中心にするのだ。読書は自分を語るためのきっかけであり、触媒のようなものである。

 ならば読書感想文は自分を見つめ直す大きなきっかけとなる。特に若い世代でこれをすることは意味がありそうだ。

立憲民主党の今後

 立憲民主党の一人負けが際立った選挙になった。ポピュリズム政党が議員数を獲得したのはひとえに立民の失策によるものだ。

 立憲民主党は野党第一党であり、政権経験者でありながら、存在感を示すことができず、中道左派という位置づけを払拭できなかった。政権交代を求めるならば振れ幅は少ない方がよい。革命のような過激な変化は国民の求めるものではない。そのことを理解しているのが立憲民主党であるはずなのになぜか失策ばかりである。

 民主党時代の政権を悪くいう人は多い。でも、既得権を持つものだけが勝ち続けるという図式を少しだけ壊したことは意味があった。昔の政党の有様から考えれば、民主党は十分に保守勢力であり、労組の支援を受けているといっても、十分に資本主義的な政策であった。何よりも政権交代可能な勢力があったことが幸福な選択肢をもたらしていた。

 ところが東日本大震災という不幸があり、政権交代の経験値の低さもあり、失策ばかりが強調されることになった。民主党が右派と左派で分裂したのも残念だ。自民党は派閥によっては別の政党といつていいほどの多様性を抱えているのに、野党はその微差が乗り越えられない。結果として長期政権が継続し、腐敗が表面化しても結局生き残ってしまう。淘汰が起きない政治が継続してしまうのである。

 政権交代ができないこの国のもたらす自浄作用のなさは問題がある。かといって基本政策が違いすぎる政党には任せられない。その選択肢を担う可能性があった政党が没落してしまったのは残念だ。

分かりやすく直感的に

 同時代人を決してけなすつもりはない。ただ、あまりに無効な行為を繰り返す行為をどこまでも続けられるだろう。ある有名人がこんなことは当たり前というと、それが自明のことのように考えられる。おかしいと思いながら、簡明さには勝てないでいる。

 ならば納得のできる分かりやすい説明がいつでも正義なのかといえば、決してそのようなことではない。分かりやすさと正しさは必ずしも関連しない。

与党圧勝

 大方の予想していた通り、衆院選は自民党の圧勝だった。政策よりも首相人気がそのまま結果につながった感がある。壮大なポピュリズム選挙となった。こうなれば、与党の良識を頼むしかない。自民党自体が他党連合のような組織でもあるので、党内での議論も期待したい。暴走することがないことを祈る。