投稿者: Mitsuhiro

ひっくり返す

 悪条件は克服しなくてはならない。そう考えるのは自分の中にまだ可能性を信じていたことだ。そして、その状態であるということはまだ戦えるということになる。

 言うは易し。そういう気持ちになれないことの方が多い。劣勢に立つとあらゆる言い訳と、敗退後の惨めな状態を考える。恐らくこれも大切な知恵であろう。予めワクチンを打つのだ。でも、これだけでは事態を切り抜けられない。

 苦境は事態を改善するための手段だと考えられたらかなりの前進だ。改善策はまだなくてもいまの状態を過程として見なせば次がある。解決策は自分で考えるだけではなく、他人の言動の中にある可能性も考えられる。だから、短慮を避け時機に備えるのだ。

 事態をひっくり返すことを諦めてはならない。そう時々自分に言い聞かせることにしている。

 

自分のことばで語る

 自分のことばで語る力はこれからますます必要になる。もっともことばほ本来他者との交換によって成立するから自分のことばというものは厳密にいえば存在しない。他人と意思疎通可能な中でいかに自分なりの工夫ができるかということになる。

 こういうことをいうと必ずもはや人工知能が文章を書く時代だからという人がいる。よく考えてほしい。文章を書くためには他者の書いた文章を理解できることが必要であり、他人の話を理解する力が不可欠だ。機械任せにすれば文章は書けなくなるし読めなくなる。その負のスパイラルが繰り返されれば、私たちの精神生活は貧困に陥る。

 だから、いかに下手であっても自分で説明することは必要なのだ。そのためにはたくさん話し、書く経験を増やさなくてはならない。しかもそれは阿吽の呼吸では伝わらない相手に対してである。

 教育の現場にいる身として直ぐにできることは生徒のアウトプットを増やすことだ。その型を教え、さらにその上で自由に語らせる。性急に正解を求めず、生徒個人内での完結性、生徒同士の意思疎通を重視する。そんなところだろうか。ことばは思考の基本的な材料だ。教育をおろそかにしないことがこの国、世界のためになると信じている。

初雪

 夜に車を走らせていたら、突然ゆっくりと落ちるものが降ってきた。それが今年の初雪だった。ほとんど晴天で雪など降ろうはずないと思っていたが確かに舞い落ちていた。

 数分のうちに止んで元の関東の冬に戻った。強烈な寒波のために雪雲の成れの果てが最後の役目を果たしたのかもしれない。そう考えてみると愛おしくも感じる。

 今回の寒波は1週間ほど居座るという。雪国の皆様には無理せず無事にお過ごしいただきたい。相対的にはそちらの方が豊かなことは知っている。雪下ろしの際に油断は禁物だ。

 関東に移り住んでもう20年以上も経つと雪の害も益も分からなくなる。ただ、降雪は試練ではあるが、それ以上に恩恵も大きい。

 東京で数分降った雪に心を乱している事自体がすでに変質してしまったということなのだろうか。少なくとも脊梁山脈の彼我に暮らした経験は、無駄にはならないと考えている。

寒波再来

 2日間の暖かすぎる日々が終わり、再び寒波がやってきた。今回も日本海側にはかなりの降雪をもたらしそうだという予報がある。関東は雪は降らないが乾燥した寒風が肌を刺すかのように吹き荒れる。

 気がつけば2月も後半になり、梅の咲くのもわずかだ。人の心も自然と浮き立ちやすい。それを戒めるかのような寒さだ。それはそれなりに意味があるのかもしれない。

 一年の中で2月がもつとも寒いのは日照時間の短さが遅れて気温に影響するからと学んだことがある。私としては春の暖かみを味わうためのアクセントと考えることにする。二月は逃げる、三月も間近だ。

経験知というもの

 ドキュメンタリー番組である地方の漁師は風雨の到来を山にかかる雲の色や形で予見するのだというのを知った。それが気象学的に裏付けられたとしても、漁師の判断はそれとは別に行われる。

 経験知という括りでは広すぎるが、理屈ではなく経験上の知恵として知っていることは実は多い。理論は後付けであり、幾度か修正されて現実に近づく。

 私がかつて住んでいた所では山がいつもよりはっきりと見えるときは雪が降る前兆ということだ。かなりの確率で当たり、その明瞭度が高ければ高いほど積雪が多かった。

 都会に住むようになってこうした体感的な知識の要素は著しく縮小してしまった。第一、空の様子とか、遠くの風景を眺めることが減ってしまった。人工物だけを見て毎日を過ごしている。天気はスマホの画面から確認する。現在の気温ですら肌で感じる前にスクリーンで確かめている。

 体感的な要素を失うことに不安を感じる。昨日と今日はかなり気温が高い。この時期、こういう日の後は天候が荒れて極端に寒くなりやすいということは感じている。これももはや他からの知識なのか経験知なのか分からなくなっている。でも、自ら感じ取ることはやはり大切だ。

大学受験と学びの本質を考える

 大学入試も大詰めである。私は大学受験に関しては結果的にはうまくいった。第一志望は地方の国立大学だった。運よく合格できたが、結局都内の私立大学に進んだ。親の希望もあったが、要するに一人暮らしをする覚悟が足りなかったのだろう。

 受験生のときは自分にとっては目標志向型の生活ができていた。参考書を何度も読み、自分なりにストーリーを作り覚えた。インプット重視の受験勉強には対応できたのかもしれない。高校2年生まではふるわなかった成績が受験というフレームの中ではまずまずの出来だったのだ。結果として大学に滑り込むことができた。いまから思うに受験とはいかに大学に行きたいかと思う志向性と、それを実現するために努力を続ける愚直さの合わせ技で決まる。持って生まれた賢さがある人には理解できないだろうが、凡人は自己暗示と単純な作業の継続力が大切だ。

 受験生の頃はそれがうまくはまった。しかし、その後の学生生活はそういう受信型な学習ではどうにもならないことを知る。高校までの授業のように大学進学という目標があって、それに対してすべての教師が表面上は様々なあるが結局同じ答えを導くように教えていく。対して大学の教授陣にはその意識はなく、自分の専門領域をひたすら開陳する。特に私が進んだ文学部ではそれが顕著だ。世の中の役に立つ学問は偽物だと言い切る先生もいた。勝手に講義が進み、教員によって結論に齟齬があることが普通にあった。その学派ではそうかもしれないが、実は間違っているなどと。

 大学生になってからは自分自身に目的意識がないとうまくいかない。当時の学生が講義にあまり出なかったのは怠惰だけが理由ではない。与えらた情報をとにかく記憶し、試験という決められた時間内で要領よく吐き出すことしか教えられてこなかった人たち、特にその方面では素晴らしい才能を発揮してきた人たちの多くは大学進学以外の目的意識がなかったのである。ある程度の大学を卒業すればそこそこの就職ができると信じられていた時代である。入学時点でほとんどの目標が達成され、あとは落第せずに卒業すればいい。持ち前の要領よさだけが発揮され、学問への傾倒は期待できない。

 それでは高校までの受信型学習は無意味なのかといえばもちろんそうではない。物事を考える前提となる知識や技能がなければその先の展開は期待できない。漢字の読み書きができ、語彙力があり、基本的な読解力をもち、方程式が解け、幾何の問題を解く作法を知り、過不足なく証明を書く技能は成績がどうであれ、実は現在の行動の根本にある。理科・社会で学んだ知識は丸暗記だったが、それが現実と照合したときに生きることがある。英語は話せなくとも外国語を知ることで自国語の特徴に気づく。実際に英語で仕事をする人は中等教育で受けた授業が基本になっているはずだ。

 受験生の頃は大学に進学する手段としてしか勉強を考えていなかったが、今になって考えると人生を豊かにし、他者そして社会を知るきっかけを得ていたことが分かる。いま教える側の立場になって、職業上の任務として大学合格者を多数出すという不動の命題はやはりある。いかに効率よく最短距離で成績をあげ、合格通知を生徒に受け取らせるのか。それが目的だと考えている同業者は多い。しかし、従前の自分の経験に照らすと、それに加えて学問をする目的も少しずつ考えさせた方がいい。ときに生徒を混乱させるかもしれないが、なぜ学ぶのかを考えさせた方が結局その後の彼らの人生に資することになる。

見ることの大切さ

 視力と集中力はかなり関係があるように感じる。はっきり見えるか否かで対象に対しての注意はかなり変わる。あるものだけが見えなくなるのではなく、すべてが朧々とするのだから影響は大きい。

 その意味で老眼の進行は深刻だ。脳機能の低下と、視力の衰退が一層の注意力減退に繋がる。眼鏡をかけたり外したりする生活に対応せねばなるまい。こうした身体的変化は少しずつ顕在化するので気づいたときにはかなり進んでいる。

 かけ続けている眼鏡の度を見直し、疲れやすい現実を克服しなくてはならない。

維持している人たち

 よく日本の街はきれいだというが、その際に想起しなくてはならないのはそれを維持している人がいるということだ。単純にマナーやモラルの問題だけでは片付けられない。

 ゴミが落ちていないといわれる駅前でも、やはり捨てる人はいる。意図的に捨てる人は少ないが罪の意識なしに捨ててしまう人は多い。そして、他人が落としたゴミを拾う人は少ない。最近はごみ箱を置いていないところが多いので、拾っても始末に困ることもあるが、マナーの良さは他人のゴミ拾いまでには及ばないという訳である。

 ゴミが落ちていないのは清掃する人が定期的に巡回しているからだ。彼らがゴミを集めてくれているお陰で新たなゴミを捨てにくい環境が保たれているともいえる。その役割の大切さを訴えたい。

文学的視点の復権を

効率化が大切だという人の多くは、実は人間生活を答えのある法則性の中だけで捉えている。なんでも数値化でき、その中で演算をするから効率などという数字を持ち出す。そもそも世の中の多くは定量化できず、不規則で予測不可能だ。そのような方面を注意深く無視して、数えられる現象だけを取り上げて計算する。効率化の多くが自然から乖離しており、それゆえにその矛盾に人々は苦しむ。

こうしたことに気づくためには、やはり文学のような他者の心情や行動を考えるものの考え方が必要だ。実際の社会は決して法則的ではない。外れ値だらけの現実をそのまま受け入れる感性も必要なのだ。

 昨今の風潮はこの大切な流れを忘れているように思える。なんでも方程式に当てはめようとする態度は人生の機微を無視してしまう。こんなことをいうと感情論であり無意味だというが、はたしてそうなのだろうか。不規則な毎日に無理矢理物差しを設定し、測れないものはなかったことにするという考え方自体が無意味だと反論できる。

 学校教育における文学的文章の軽視は現代社会で誕生したエリートたちの犯した大きな間違いだろう。少し後の時代の人々が21世紀始めの社会を批判することになる。あの頃は科学だけで何とかなると信じていた時代だったと。文学的な視点が軽視された不幸な時代だったと。

小学生に説明して

 私は授業の中で文中の用語や、表現を説明させるとき小学生でもわかるように説明してほしいという注文を出す。5年生くらいを想定している。何がいいたのかといえば、難しいことをいかに分かりやすく置き換えるかが大事ということだ。ただし、易しくしすぎて元の意味が分からなくなってはならない。あくまで言い換えでなくてはならないのだ。

 ご存じの通り、現代文の設問の大半は「~とはどういうことか」か「~であるのはなぜか」である。前者は文脈に沿って意味をとらえ、それを別の分かりやすい表現に言い換えよという意味である。多くの生徒は文中のことばパッチワークのように組み合わせ解答を作るが、中には出来上がったものが何を言っているのか意味不明のものもある。大半は本文の表現をそのまま切り取ってきているため、ピースを組み合わせると非常に不自然になるのである。この種の問題が求めているのは文中の語の組み合わせではなく、結局何が言いたいのかを表現を変えて説明することだ。

 小学生に説明してほしいとは過剰な要求かもしれない。まず述べられていることを解釈し、自分なりの表現に変換してさらに相手の語彙レベルとか認知のレベルを考えて調整しなくてはならないのである。相手が小学生ではなくて自分と同等の人に話すという前提でもよい。大切なのは自分ではない他者に自分の観察したことを適切に伝えられるかということである。

 多くの教育関係者の文章に「知ることとは何か」というテーマがある。それらを読むと単語として丸暗記し、それを試験で一気に吐き出すという行動は勉強の質としては高くないという。極論すれば意味のないことを丸暗記して、一定時間後にそれをアウトプットするだけでは知的行動にはならないということだ。個々の用語がほかの語彙と結びつき文章となったとき、そこに一定の意味を生じる。それが分かることが「分かった」という境地だというのである。小学生にも分かりやすくするというのはこの自分なりの概念を構築を求めるからである。

 難しいことを難しく語る人は実は良く分かっていないという人もいる。本当の賢人は難しいことを分かりやすく語ることができる人だという。私自身もそれを心がけていたい。