職場でコンピューターを使った授業の方法を実践するための講習がありました。主にビデオを使った授業運営ですが、いくつかの問題点がありました。
生徒の発達段階や、いたずらすることに対する対策が不十分だということです。多くのソフトは利用者が対等な立場にあると想定されており、教育現場のような立場の差があるような場面に対応していません。
後は使いようだとは思うのですが、これを使いこなすためには経験が必要だと痛感しました。図らずもIT化に迫られる事態になってしまいました。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
職場でコンピューターを使った授業の方法を実践するための講習がありました。主にビデオを使った授業運営ですが、いくつかの問題点がありました。
生徒の発達段階や、いたずらすることに対する対策が不十分だということです。多くのソフトは利用者が対等な立場にあると想定されており、教育現場のような立場の差があるような場面に対応していません。
後は使いようだとは思うのですが、これを使いこなすためには経験が必要だと痛感しました。図らずもIT化に迫られる事態になってしまいました。
日々厳しい現実が報道されています。新型と冠する病魔の持つ底なしの不安が人々の冷静さを打ち砕いて行くことが懸念されます。まずは不安を取り除く、もしくは軽減するための具体的な行動が必要です。
政府や自治体の要請で営業や興行を取りやめたり、削減したりした企業や団体は無数にあります。そこに一定の補償をすることは難しい。できたとしてもその後の経済活動に致命的な打撃となります。できるのは負債の返済を軽減したり、期限を先延ばしにできる制度を早急に導入することではないでしょうか。
非常事態こそ指導者の腕の見せどころです。決断を期待します。
東京はこの時期には見合わない積雪があります。昨日との気温差が20度近くある激変で、私の住む東京の郊外でも数センチの積雪になっています。おそらくすぐに溶けてしまう淡い雪ですが、外出自粛を要請された週末にはある意味ふさわしい足止めの雪です。
東京は積雪を想定した町づくりをしていないため、わずかな積雪でも都市機能に大きな影響があります。富山にしばらく住んでいた私にとっては、この程度の雪がもたらす影響の大きさに戸惑うこともあります。けが人や場合によっては死者も出てしまう数センチの雪は、雪になれていないが故の悲劇です。
しかし、今回に関してはコロナウイルス感染予防のために外出する人は少なく、おそらくその意味での被害者は減るのではないでしょうか。感染予防のために密集空間を避けてほしいというのが国や自治体からの通達です。その意味ではこの雪は出かけないための抑止にはなります。
ただ、逆にすでに感染者が出ているご家庭や病院にとっては不安を募らせる雪になるやもしれません。春の雪なのですぐ溶けるはずです。今は治癒のために休息をしっかりと取っていただきたい。そう願うばかりです。
最近の流行語は残念ながらクラスタやオーバーシュートかもしれません。コロナウイルス流行がなければ認知度が高まらなかったはずの外来語です。
clusterは葡萄の房などを表すのが原義で小集団などの意味もあります。クラスタという長音記号を省略するのは理系出身者の外来語表記に多く見られますので、この語の出自も想像できます。ウイルス騒動が起きる前は偏狭的嗜好を持つ集団、いわゆるオタクの集まりくらいの意味として拡張利用されていた言葉でした。
overshootは行き過ぎるとか通り過ぎるといった意味らしく、想定していた以上に数値が超過してしまったときに使われています。寡聞にして私はこの機会に初めて知りました。これも電圧や力学上の世界では日常的に使われている言葉らしく、検索するといくらでも用例が出てきます。
ある大臣がツイートしていましたがこれらの語を政治家やメディアが安易に使うのには反対です。クラスタは感染者集団とか感染の可能性が高い集団などといった方がよいし、オーバーシュートは感染者急増の方が分かりやすい。感染爆発という言葉もあります。感染者の飛躍的増加を防ぐために外出自粛をというのなら、感染爆発という言葉で注意喚起した方がいいのではないでしょうか。オーバーシュートがなんだか分からない人や、オーバーシュートくらいならなんとかなると考えた人はたくさんいるはずです。
外来語がそのまま使われるのは日本語にそれに相当する語が存在しないときなのですが、置き換え可能な語があるのに使わないのは混乱を招きます。指導者たるもの使う言葉にもご注意いただきたいと存じます。

あまりにもイレギュラーな状況にあって対応が難しい現状にあります。冷静さが必要なのですが、いまはうろたえるばかりです。
決まった作業を完璧にこなすのに長けた人がいます。またそれに次ぐ能力を持つ人がいて、さらにその次の人がいて、という風に規定のプログラムをいかに効率よく正確にこなすのかということで人は評価されがちです。
一方でそのような確たる基準がない世界に投げ出されたとき、何とかそれをやり過ごし、場合にとっては画期的な業績をやり遂げる人もいます。枠組みのない世界で以下に力を発揮できるのかということは、秩序内でのそつのない処理能力とは別の才能のようです。様々な事情で日々ルール変更を強いられる今日の情勢においては、柔軟に取り組むことができる能力が何よりも求められます。
手順が分からない現状で何とか活路を見出すことが、今求められている能力です。ウイルス流行下の社会のありかたもそうですが、そうでなくても新たな手法が試み今後の特に地方都市のあり方については常に開拓者であり続けることが必要なのです。
かつて流行した映画のセリフに「封鎖できません」というのがありました。犯罪捜査のために東京のある地区を封鎖しようとした警察官がもらすため息のような台詞です。その冗談のような響きがいまは深刻な悩みとして捉えられています。
都知事が週末の不要不急の外出は控えるようにという要請を発表しました。何をもって不要不急と断じるかは個人の判断に任されているようです。この発表にどれくらいの効力があるのかは分かりません。
別の記事でも書きましたように東京はコロナウイルスの世界的蔓延のニュースが連日伝えられる中でも停止状態にはありません。朝夕のラッシュアワーは消滅することなく、郊外の商店街には多くの人たちが集まっています。劇場や映画館、スポーツやエンターテインメント施設は閉鎖されています。閉鎖したまま春休みを迎えた生徒諸君も町に溢れています。
小池都知事の見解はこうした警戒疲れ、危機管理の判断停止に一定の注意力を喚起する意味はありそうです。逆に言うとそれ以上の効果は期待できない。東京は封鎖できません。
コロナウイルスの影響がなぜ日本で少ないのかというのが話題になっています。潜在的保菌者数は多いのかもしれませんが、死者は少ないのは事実です。学校閉鎖やテレワークの呼び掛けはある程度奏功しているかもしれませんが、どうもそれだけはない。
東京の街は実は人で溢れています。マスクをする人は多いですがマスクの在庫がすでになく入手困難です。手づくりと思われる柄入りのかえっておしゃれなマスクをする人もいますがそれも限られます。そもそもマスクの防疫効果に期待できないことは多くの国民は知らされており気休め程度です。なぜ人混みの東京で感染爆発は起きないのか。
握手、ハグなどの身体接触が少ない文化のせいだという人、花粉症に弱い身体性からマスクをつけることに抵抗がないこと、手洗いなどの習慣が子供のころから身についていることなどを指摘する人もいますが、それらも決定的な要因とはいえない。原因は分かりません。
これから感染爆発が起きる可能性は十分にあります。悲しいことですが犠牲者も出続けるはずです。ただ、東京は簡単に封鎖はできない。おそらくは少しずつ感染してゆき、免疫を集団として持っていくという流れになるのではないでしょうか。
文化的にも外来の要素をうまく取り込むことに長けた東京ですが、それが身体面にも応用できるのかは未知というしかありません。
東京のほとんどの桜は満開になりました。昨日はやや冷え込んだため、花冷えががふさわしい一日でした。今年は花見の乱痴気騒ぎもなく、かえって趣のある風景が広がっています。
桜花は豊作の予兆という信仰もあれば、疫神の発動と関係づける考え方もあります。いずれも科学的根拠はないでしょうが、この季節に人々が何を願い、何を恐れたのかを知る手がかりにはなります。そしてこの精神的伝統が響くのが今年の桜花です。
オリンピックの延期の可能性が濃厚になってきました。様々な弊害が発生することになりそうですが、粛々と過ごしていくしかありません。いろいろな人が述べていますが、いまは現状を振り返る機会が与えられたのであると考えるべきなのです。
なんとか新学期は始められそうな状況になってきました。しかし、ウイルス流行の峠が見えない現状ではいつまた中断するのかわかりません。たとえば関係者に陽性反応が認められた時点でおそらくまた数週間の学校閉鎖という措置になることは十分に考えられます。すると、これを機にこのような事態でも効果を失わない教育方法を考えていく必要があります。
大前提として、発送の大転換をしなくてはなりません。教員は情報を伝達するのではなく、学習の仕方を教える存在にならなくてはいけないということです。自ら教えることができない事態が起きるということは今回の件で痛感しています。生徒が一人になってもどうやって学習すればいいのかをはっきりと示すことができることが教員の大きな役割になっているといえます。
学習の方法論を示せばいいというわけでもありません。もっと大切なのは学ぶ意味をはっきりと伝えられるということです。今の子供達にとって学びは将来の自分の人生を大きく左右する知識とスキルの蓄積の機会です。私自身の人生におけるそれよりも今の生徒世代の方が学びの有無による人生の差は大きく出てしまいそうな気がします。もちろん格差社会は避けなくてはならないですが、現状が格差拡大に向かっている以上、獲得できるスキルや経験は若いうちに積んで置くべきでしょう。そのことを危機感を持って、しかもいたずらに恐怖を煽ることなく伝えることは教員の重大な責務であると感じています。
根気ややり抜く力も大切であることも伝えなくてはなりません。誰もが効率よく目的を達成できるはずはない。むしろ多くの人は失敗の繰り返しです。そのなかでも挫折することなく、何度でも立ち上がる力を育てることはこれからの日本社会にとってはもっとも重要なスキルであると感じています。これを伝えることも重要です。
仲間と協力することの大切さも伝えなくてはなりません。一人の力では如何ともしがたい現実が若い世代には待ち受けています。その中で必要なのはともに考える力です。小異を捨てて大同につく力です。小さなことにとらわれて死活問題的な大問題を見失わないようにさせることがなによりも大切です。
こうしたことを新学期には生徒に伝えていこうと思います。いつ学校が中断しても自ら学びを続け、向上することをやめないい人材を一人でも作ることができたなら、私の存在価値があるというものです。

ある人が言っていました。今は何でもネットで検索できる。少々の知識などはそれで調べがついてしまう。情報提供者として必要なのはそうした公的な情報では勝負できない。大切なのは独自情報であり、独自の情報分析であると。全くその通りであると納得しました。
ネットで調べる情報の信憑性も問題があります。情報発信源がだれなのかは調べてみないと分からないです。そして、ある程度権威のある人物もしくは団体が発信したものとしても、その意図がなんであるかを考えずに情報だけを利用することは危険です。情報を利用するはずが、利用されていたということは今日ごく普通に起きていることです。
ネットで調べられないこととはなにか。それは発信者の感覚や感性による見解でしょう。多くの場合、それには根拠が希薄です。単なる思い込みかもしれない。しかし、そういう率直な考えこそが真実を判断する材料になるのです。その現場に直接かかわっている人の考えにはそれなりの価値があります。
情報はインターネット経由できたものがすべてではありません。むしろそれは遠い世界の出来事の断片的な報告であり、本当に大切なのは自分自身の周囲にあることとの関連性を見抜くことなのです。ネットから入手する情報も発信者の身辺性の高いものを重点的に見ることが大切だと痛感しています。
私もささやかな情報発信者として自分の目で見たことを、自分で感じたしっかりとエビデンスがとれないものも場合によっては述べていく必要を感じています。それがデマにならないよう自戒しながら。
