投稿者: Mitsuhiro

枯れても負けない

 植木が枯れてしまう現象が続いている。残念だが、ベランダ園芸がうまくいない。おそらく熱心な人ならばこの猛暑でもなんとか乗り越えられておられるはずだ。私のようないい加減な園芸家は水やりや施肥を後回しにするために冒頭で述べた始末になる訳である。

 小さな鉢植えしかない我が花壇にとっては管理の技能がそのまま形になってしまう。園芸は小さな配慮がすべてに関わる。残念ながら無骨を越えて無配慮の私は全滅の失敗を何度も繰り返している。

 植物を育てることはもしかしたらとても大切なことかもしれない。小さな配慮を継続することは処世術の基本ではないか。皆さんにも植物を育てることをお勧めしたい。これだけで幾つかの社会問題が解決する気がする。枯れても負けない。次は枯らさないというマインドが必要だ。

 

転校生の夏休み

 子どもの頃のこの季節の思い出の一つが、転校後の孤独である。父の転勤の辞令が大体7月の初めに出て、その二週間後くらいに引っ越したから、1学期の終業式には間に合わず、引っ越し先の学校は9月に転入したから、その間の夏休み期間は空白の日々となる。

 ただ、私の転校先の福岡県の気質なのか、東京からやってきた転校生を近所の子供たちは学校に入る前から仲間に入れてくれた。東京弁しか話せない私に「なんばツヤつけとうね」と直言しながらも、ハンドベースとか缶蹴りとかそういう子供たちの社交界に迎え入れてくれたのである。

 いまで言ういじめがなかったとは言えない。むしろ異物排除のエネルギーを感じることが多々あった。私の場合は運よくそれを乗り越えられたが、おそらく転校生の中にはここで折れてしまう子どもも多かったはずだ。

 2学期が始まる前に近所の小学生の仲間ができ、中には積極的に助けてくれる人もいたし、目の敵として欠点を論うものもいた。子ども社会はそれで素直であり、扱いやすい。何度か転校を重ねるうちに堪えどころが自然に身についてしまった。これはいまの自分の人格形成にも影響している。

 人とは違う経験をすることもいいことがある。子どものときはほどよい危機感を経験した方がいいのかもしれない。この季節になると孤独かつ臆病で、なおかつ新しい友人との出会いのときめきを思い出すのである。

甲子園も二部制に

 今日から始まった全国高校野球大会は史上初の午後開会式となり、その後一試合が行われた。明日からは8時プレイボールで午前に2試合、午後4時過ぎから2試合という二部制で行うという。今日も各地で40℃越えとなった酷暑にあって、当然の処置である。

 このままの傾向が続けば8月の開催自体が無理になる。甲子園という聖地を離れるのは抵抗があるだろうが、ドーム球場や標高の高い地域や北部地域での開催も考える必要がある。もっとも今年の北海道の気温のニュースを聞くとそんなに単純な問題ではなさそうだ。

 かつては根性で解決できていたが、人間の身体的な制約に抵触するいまの事態にはもうそれは当てはまらない。今回は二部制で切り抜けようとしているが、その後には未明、早朝開催が来るのだろうか。いずれにしても人間の生活のリズムに反するものであり、スポーツの精神にそぐわないことは避けられない。

 自分の人生のスケールの中でここまで激変することを鑑みるとこの後のさらなる変化が恐ろしい。若い世代のためにもこれ以上の変化は止めなくてはならない。その方法が分からないのが何とも歯がゆいのである。

明日は猛暑、酷暑

 東京の明日の最高気温がところにより40℃に近づくかもしれないという。いわゆる災害級の暑さである。職場の空調はほどほどに効くが明日は家庭用のクーラーが効果を発揮しない可能性がある。ということで家族で避暑の旅に出ることにする。明日は比較的フリーなので、自宅勤務を申請し、実際には図書館や喫茶店に避難することにする。盛大なるサボりだが、一年に一度くらい許してもらうことにする。

メモリーは有限

 使っているスマートフォンの容量が底をついたとの警告が出たので、消せるアプリや一次ファイルなどをかなり削った。結果として何とか復活したものの、これからはこの繰り返しになるのだろう。エントリーモデルの機種なので過度な期待はできない。

 機械の場合はメモリーが数値で表されるので分かりやすいが、人間の場合はかなり複雑だ。いわゆる作業用記憶が加齢とともに逓減していくのは実感している。長期記憶に関してはそれよりは保たれやすいようだが、私の場合はかなり選択的で単に時間だけの問題ではない。大切なことを忘れてしまう代わりに、どうでもよいつまらないことを時々思い出す。

 何を記憶し、何を忘れるのかについて選ぶことはできるのだろうか。意志に基づいて取捨選択するのは、スマホのデーターを消すのとはかなり異なるようだ。忘れてはならないことはやはり脳以外の場所にも記録し、それに定期的に接することで保たなくてはならない。反戦の気持ちというのもまさにそれで、過去に心に結んだ強い思いも、いつの間にか日常の些事に紛れてしまう。

 思い出したくないことも場合によっては取り出し、忘れてよいことは時間の海に流してしまう。そんなこともやらなくてはならない。

やる気になれば

 やる気になれば何でもできるというのはさすがに無理があるが、若い人を励ますためには不可欠の助言である。これを言えない指導者はおそらく何かが足りないのだろう。かといってこれを真実なのかといえば、答えは否である。何でもできるということばは誰もが直感でわかるように嘘である。

ただ、やる気がなければ何もできないということは事実だろう。私たちの行動は、自然に自動的に行う行動もあるが、多くは動こうという意志に支えられている、心臓の鼓動や消化のような意志とは無関係に行う行動に関して人が悩むことは通常少ない。私たちが困惑するのはやろうと思ってもできないという意識が生まれたときである。これはやる気の問題ではない。

 私たちがやる気と結果のギャップに悩むのは、やる気次第で何とかなる範囲が自覚できるときである。やる気があるのに結果が出ないというのならばまだ何とかなりそうだが、大抵の場合やる気がでないので結果が伴わないということだ。結果的に無力感が残るので、成功例なり達成感なりが生まれにくい。今後、さらなる非人間的な意思決定が定着すれば、やる気の問題はますますわかりにくいものになる。

誰もが二刀流

 二刀流というと宮本武蔵の剣術のことだったが、今は大谷翔平選手のことを想起させる言葉になっている。プロ野球において投手と打者の両方で一流であることは難しく、大谷選手がそれをアメリカで実現していることが賞賛されている。

 二芸ある人を二刀流と呼ぶこともある。職業を掛け持ちしている人といえば、かつては兼業と呼ばれた。地方に行けば会社員でありながら農繁期は米作をするいわゆる兼業農家は普通にいる。農業が専業ではやっていけないことから生まれたスタイルだと思うが、今考えてみればまさに二刀流であり、理想的な生活スタイルだ。

 農業ではなくても、二つの仕事をこなしている人はたくさんいる。会社員でありながら、土日はスポーツ少年団などのコーチであったり、塾の講師であったりするのはこれも二刀流だ。私も前の仕事では、学生に授業をすることと、自分の研究をして論文を書くこと、社会人のための講座の講師をやることなど二刀流をやっていた。それがもしかしたら、当たり前の人生のあり方なのかもしれない。

 ここ十数年はすっかり専業体制になってしまった。それが一流であるならばいいが、私の場合はそれ以下である。誇れるのは欠勤が少ないことと、自分が至らないことを自覚できていることくらいだ。二刀流という言葉からは程遠くなってしまった。

 矛盾することを言うようだが、人は誰でも兼業で生きている。例えば運転手なら、一日中運転手という訳ではない。家に帰れば父親としての役割があるのかもしれないし、趣味の時間はそれなりのこだわりの行動をする。それらのどれもに自信をもっていれば立派な二刀流プラスアルファなのだが、多くの場合その矜持はない。でも実態は人は何役もこなしている役者なのである。

 自分がやっていることにもっと意味づけをし、それらに誇りを持たねばならないと思う。自分の生活の多面性を認めれば、何か一つの基準に縛られていらぬ劣等感にさいなまれることはない。自分の可能性をいろいろな面で生かせれば、そこに利他的な側面も現れ、結局本当の意味での社会人になれるのだろう。収入に直結することではなくでも自分はいろいろな役を演じながら、社会のためになることをしていることを実感したい。人は誰でも二刀流で、しかも一流の社会人になる可能性があるのだ。

8月始まる

 8月に入ってものっぺりと暑い日が続いている。およそこの夏は何か狂っている感じがする。子どもの頃の夏休みのことを思い出しているのだが、ここまで暑かったかどうか思い出せない。

 プールで何とか泳げるようになろうと練習し、親戚のうちの近くでカブトムシやクワガタを取って貰って喜び、近くの神社の祭で金魚すくいをした。そんなことばかりでここまで暑さに苦しんでいた記憶がない。家にも学校にも冷房はなかったし、扇風機でさえ我が家には一台しかなかった。それでも何とか過ごせていたのだから、今よりましだったことになる。

今年は終戦して80年、戦争に関するさまざまな情報や、エピソードが披露されることが多いと思う。せめて、冷静に歴史を学ぶことが大事だと思う。暑さに大切な感覚を奪われていないか。それを自己点検しておかねばならない。

機械任せ

科学的に考えるとか、合理的思考とかかつてはよく言われた。まるでそうでなくてはいけないかのように繰り返された時代があった、

最近は何が科学的なのか、合理性をどこに求めるのかでさまざまな可能性が出てきた。だから何をもって正解とするのか分かりにくい。それならば判断に困るのかといえばそれも違う。判断をしなくなっている気がする。

人工知能なり何かの上位科学(と考えられてるもの)にすべてを委ねて、自分の大切な選択を機械にさせてしまっているのが現状である。

それならすべて一人でやりますかと言われれば、そうもいかない。結局何もできないという現実からは逃れられない。そんなジレンマに日々悩まされている気がする。

津波警報

 カムチャッカ半島を震源とする地震で津波が発生し、日本の各地でも津波が到達している。津波は時間をおいて何度も押し寄せ、場合によっては第二波以降の方が高くなるという。今のところ40㎝が最高位であるが、この後も油断できない。なお30㎝の津波でも人命を奪う威力があり、全く油断ができない。津波は線ではなく、面として海面が上昇することで、人間の力では耐えることができない。なるべく早く避難するしかない。被害者が出ないことを祈る。