投稿者: Mitsuhiro

時間はかかる

 オリンピック組織委員会の森喜朗会長の不適切発言に端を発し、それを擁護する自民党の長老が的外れな発言をしたことや後任として指名した川淵三郎氏がメディア等から密室人事の指摘を受けたことを機に辞退したことなどから事態は混乱している。これは日本社会の体質を象徴化したものとも評されている。

 女性が多い委員会は時間がかかるとの指摘はまったく根拠がないばかりか性差別とも捉えられる発言だが、問題はそれだけではない。時間がかかることを非とする考え方が不適切なのだと考える。民主主義は決定までの手続きにやたらと時間がかかる。面倒でもやらなくてはならないことは飛ばせない。川淵氏は日本のプロスポーツを営業ベースで成功させたリーダーであり、オリンピックの指揮者としてもふさわしい。ただ今回の件で大事な人材の活躍の場は損なわれた。

 時間をかければいいというものでもない。日本社会が衰退している原因の一つに決定の遅さがあるといわれている。いつまでも決めないのはかつては美徳であったが、場合によってはそうではない。今回のようにオリンピック開催が危ぶまれている事態においては早くリーダーを決めなくてはならない。待ってはいられない。そこでどのように誰がなるのかを公開し、それに乗っ取って決めるべきなのだ。多くの人に納得がいく方法で。そこに時間をかけるのは仕方がないのだ。

 次のリーダーは女性にすべきだという意見もある。ふさわしい人もいるはずだ。ぜひ次は手続きを踏んでほしい。大切なのは皆に納得させる手順を踏んでおくことだ。それがあれば性別も年齢も限定すべきではない。

芸術家

 芸術家の定義はいくらでもあると思う。ただ、私が思うに、芸術家とは価値を創出する能力のある人のことを言うのだと思う。絵の描き方が上手な人はそれだけでは職人というジャンルに属する。その作品が一定の評価を得て、しかも他とは代えがたいなにかを感じさせるものを作ることできたときに芸術家になるのだろう。

 おそらく厳密に言うとこの世に生まれた人の全てが芸術家だといえる。誰一人同じ人生を歩めない。同じように生きていると思わせるのは巧みな社会の仕組みによるものである。誰一人同じ人生を歩んでいないことを考えれば誰もが芸術家になる素質はある。

 ただ芸術家であるかどうかはその独自性を個人が受け入れられるか否かだろう。人と違うことをすれば変人と思われ、場合によっては共同体から追放される。その覚悟があるものだけが芸術家と称されるのだろう。

建国

 建国記念の日という日本の祝日は不思議な日である。日本の国家としての歴史は長く天皇制という軸で考えれば有史以前にさかのぼるのかもしれない。だから建国は伝説の世界にあり、特定の日に位置づけるのは本当は無理なのだ。初代天皇とされる神武天皇の即位日を現在の暦に換算したところ2月11日だというのが一応の理由だが、そもそも実在したか不明の人物のことは根拠にはできない。

 今日は国とは何かを考える日であろう。利益が共通する周囲の人物と共同体を立ち上げ、公共の福祉を優先しつつ、他国と協調し、時に争い集団を形成する。それが国家の始まりならば、今のような形態はどこまで続くのだろう。人が知り合える限界を様々なテクノロジーが飛躍的に拡張した。時空を超えて知り合える機会を創出できている。でも、真の意味で理解し合える人の数の限界はそれほど簡単には増えない。ソーシャルメディアで「友達」になるとは意味が違うのだ。

 国とは何なのか友達集団よりもはるかに大きい。でもイデオロギーなり文化なりを共有していると幻想できる人々の集団だ。そこには愛国心のような感情も現れる。オリンピックで自国の選手が活躍するとわがことのように喜んでしまうこともある。一方で国より自己の利益を優先することも多い。自国の業者がいくらコストダウンしても、海外製品には価格面で全く太刀打ちできない。だから安い海外製品を買う。それが自国経済に打撃を与えることを知っていても。

 国とは何かを考え直す一日にしてみたい。

タイムトラベル

 最近の通勤電車はとても空いており、かつての過密はない。座ろうと思えば座れるときもあるくらいだ。日本有数の混雑路線でこれなのだから他はどうなのだろう。

 これから訪れる人口減少社会の風景を先取りしているのかもしれない。ただ、それには乗客の年齢が多少若い気がするのだが。

 今後どのような人生が待ち受けているのかなど誰にも分からない。あるのはあまり変わりようがない数値だけだ。そして己も老いていくこと。きれいなデクレッシェンドを演奏できるよう準備を進めたい。

 大きな音、激しいリズムだけが正解ではない。まだできることはいくらでもある。

レンタル

 クルマを久しぶりにレンタルすることを検討している。今までは所有するのが当たり前だったがもしかしたら使うときにだけ借りる方がいいのかもしれないと考えている。

 レンタルとかシェアとかサブスクリプションとか物の所有の方法が変わりつつある。何が最もいい方法なのかをその都度考えることが必要なようだ。

 ビデオレンタルは次第に実店舗さえ不要になりつつある。クルマも営業所なしで借りられるサービスが登場している。次は何が現れるのだろう。そして、それにどう対処すべきなのか。

平常心

 冷静にならなくてはと思いつつも、最近の私はかなり脆い状況にある。いろいろなプレッシャーに苛まれてうまくいかないことが多すぎるのだ。

 平常心を取り戻すための方法は確かに試したことがある。その成功例を思い出そうとしている。ただ、それがまた焦りにならないようにせねばと思う。

挿し木

 生徒諸君が受ける模擬試験の古文に柳の挿し木の話があった。難しさを売りにしている試験なので恐らく出来はそれほどよくないだろう。ただ、思うに文法や単語の知識以前に、柳が挿し木で増えることをどれだけ知っているのだろうかということが気になった。

 古典文学に限らないが、過去の文章を理解する上で必要なのは文化的な背景の理解であろう。植物を育てる経験をほとんど持っていない若者たちに挿し木の話は理解しにくい。価値観の違う時代のことが分かるためには手続きがいる。

 挿し木にまつわる問題を見て感じたのは文化の伝達は記号だけでは完成しないということだ。それにまつわる経験や価値観の伝承があって初めて達成されるのかもしれない。

Photo by Nick Bondarev on Pexels.com

分かりやすさ

 分かりやすさを追求することには功罪がある。分からなければ伝わらないのだからなるべく分かりやすくするというのは間違っていない。

 ただ、分かりやすさには落とし穴もある。分かりやすくするためにそれを作った人の意見や解釈がかなり入り込んでいるということだ。

 物事は複雑で難解だ。それにいちいち挑んでいく気持ちは失ってはならないのだろう。

コーヒー

 毎日嗜んでいる嗜好品であるコーヒーはどうして飽きることがないのか。様々な薬効も指摘されているが、おそらく良くないこともあるに違いない。期待しているのはそういうことではない。

 人によって向き合い方は違うはずだ。私の場合は精神安定のための時間を確保するための道具なのだと考えている。だからすぐに飲み干せるアイスや砂糖を入れて口当たりを良くしたものは私の目的からは外れる。冷めるまで時間がかかる苦い飲み物でなければならない。

 先日、コーヒーを飲む間は異世界の人と会えるという小説を読んだ。そこまではできないとしてもこの飲み物は一種の現実逃避の機会を与えてくれている。

小異を捨てて

 最近の世界の情勢は分断の連続だという人がいる。アメリカの政治的な不安定さが象徴的だが、民族やイデオロギーの対立によって人の心が分かれていく傾向は世界の各地でみられる。己の属する集団を守ろうとするのは生物としての宿命ではあるが、人類にはそれを超える叡智を得ることができる可能性が与えられている。

 コロナウイルスが世界中を満遍なく襲っていることは、強烈なアイロニーのようにも感じる。いくら分裂しても人類はそれほど変わらない。種としては同じであり、運命共同体なのであると。共通の敵を仕立てて融和を図るというのは古来からの権力者が使う常套手段だ。歴史の中にはこの方法で大きく変わった局面がいくつかある。今回の場合はウイルスが相手なのだから、共闘することは一向に遠慮はいらない。

 それなのに世界の分断は一向に収束には向かわない。小異をすてて大同につくという古人の教えを実行に移せないのはなぜなのだろう。自分も含めて、私たちは考えていてもできないことが多い。実行することは別次元なのだろう。どうすれば実現できるのか。面倒だがまずこれを考えるという方法から始めなくてはならない。段階が必要なのだろう。