投稿者: Mitsuhiro

短歌の解釈

 短歌は短詩形のため盛り込まれる情報量が少ない。さらに歌自体が暗唱しやすく、記憶に残りやすいため、様々な享受の仕方が生まれる可能性がある。それがこの文学の特徴であり、可能性でもある。

 いわゆる歌物語というジャンルは一首の歌の成立事情を短いストーリーにしたものである。中には古歌を扱うものがある。実際の歌が作られた状況とは必ずしも一致しているとは限らない。歌を作った人は(もしくは集団は)必ずいたはずだが、その記憶が途絶えて歌だけが残り、後世の人が新たに歌の生まれたエピソードを考えて作るということがある。これが歌物語の本質なのかもしれない。

 現代でもそのようなことはある。ある作品が読者によってどのように読まれるのかは様々であり、それが事実であるかどうか怪しくなっていることもある。また新たな解釈がオリジナルの成立事情を覆い隠すことさえある。和歌だけではなく、流行歌もそのように解釈される。

 ならば、逆に歌は自由に解釈できる文学と考えて新たな可能性を考えることもできる。文学的世界は決して作者だけが作るものではない。読者もまた、その世界形成の一員であるということになる。この視点はこれまで多くの研究者によって唱えられているが、高度情報社会においては作品世界の共有と改変のスピードが飛躍的に早まった。新たな文学のありかたを考えるべきなのだろう。

伝統的価値観

 古典作品を読んでいるときぶつかるのが現在との価値観の違いだ。文法や単語の意味が分かってもこれが分からないとしっくり来ない。

 たとえば極楽往生を目指す僧侶の話ではなぜ死が幸福に繋がるのかが分からない。そしてただ死ぬだけでは往生できない。様々な手続が必要なことも分かりにくい。

 前世の因縁をいちいち持ち出すことも理解を越えるはずだ。何かにつけて運命だという考え方は現代人には不思議である。消極的な生き方のように思えることもあるだろう。

 身分制度が当たり前の人間観も納得しにくい。血筋がいいだけで全人格的尊敬を゙受け、身分が低いと下品と分類される。これもかなり理不尽である。

 古典を読むときに現代の価値観では理解できないことが多い。一度過去の価値観を知り、それに基づいて世界を見直す必要がある。古典教育の目的の一つはここにあるはずだ。何も暗号読解のように古典を解読することばかりに集中すべきではない。

宇宙で人生を描く

 松本零士さんが逝去されたと報じられた。心よりお悔やみ申し上げます。私の世代は松本作品から多大なる影響を受けている。

 宇宙戦艦ヤマトは企画作品であったようで、松本零士の世界そのものではないという。ただ、人物設定や容姿についてはほぼ個人の提案が通っていたという。銀河鉄道999や宇宙海賊キャプテンハーロックなどは母性愛や友情、さらには文明批判の要素があって興味深いものだった。もっともそのメッセージは子どもには分かりにくいところもあり、宇宙を舞台としながらも、実は日常の人間ドラマを描いているのである。

 初期の作品などはさらに生活感が強く感じる。その生活臭をSFの殻を被せて客観視できるようにしたのが松本零士作品の魅力であろう。また読み直してみたくなった。

条件付きミニマム

 ミニマム生活をしている人の話を聞くと、結局余裕のある人だということが分かる。捨て去ったのものはレンタルや公共物で済ますというが、それにはコストがかかる。非常時には相場が吊り上がるがそれも見越している。つまりは手元資金があり余裕のある人たちの選択なのだ。

 残念ながら私にはそれがない。いざというときにはいまの蓄えが担保となっている。これは残念ながら現実だ。少しこの考えを変えていこうと思う。

 ただ何でも捨ててしまうミニマリストの考えは受け入れられない。どんなに無駄なものでも本人にとって大切なものは持って置くべきだ。それが他人には無価値なものであったとしても。

 私はそこで恣意的な物質放棄を始めることにした。世の中の価値観ではなくあくまで自分の物差しでいらないものを処分する。条件付きミニマムで整理をしていこう。

解答時間

 想定する解答の時間を超える出題をすることがますます増えていきそうな気がする。つまり出題者は満点を取ることを始めから想定せず、どうしたら効率よく得点できるのかを試す。問題を絞って解答するのである。

 この方法は問題点が多い。熟読熟考するのではなく、いわばヤマをかけることで高得点を取ることを公認しているようなものだ。臨機応変の対応と情報処理の能力を問うといえば聞こえがいい。私には浅薄な思考を推奨する方法としかとれない。

 熟考する力を問う方法はないのか。また問題解決の方法自体を試す問題はできないのか。それを考えるべきだろう。

殿戦

 ものごとの最後を完璧に終わらせるのは意外と難しい。どこかに失敗はつきものだ。殿(しんがり)は何かと傷が多い。

 私はそろそろ次の人生を模索したいと考えている。引退ではなく発展だとはどこかで聞いたフレーズだが、私もそうでありたい。まずは次なる収入の口を探すことが先決だが、同時に新生活への最適化を目指す必要もある。

 とりあえずは身体が動く限りは今の経験が活かせる職を探そう。コネクションも大切だが、自己開拓もしたい。そしてできれば起業が理想だ。そうはうまくいかないのは分かっているので、雇われの身となることに躊躇はない。

 殿の将としてはまずは名誉を守ること、そして次に生き残ることに全力を尽くすことだろう。何ごとにも呑気な私であるが、そろそろ大切な時期に入る。スリルを楽しむことにしよう。

漢字の練習

 手書きの生活がなくなると漢字が書けなくなりやすい。私は学校で教える立場なので手書きで文字を書く生活が続いているが、それでもこのブログをはじめとしてキーボード入力の方が増えている。だから例えば板書をしながら文字を忘れてしまい生徒に笑われる(心の中で)という経験を何度もしている。

 漢字のリテラシーを保持することに関してはやはり手書きする生活を守らなくてはならないと思う。このブログをお読みくださる方はおそらくかなりの文章を読むことには抵抗がない方だろう。私のような生硬な文章を読んでくださる方は残念ながらそう多くはない。文字ばかりの画面を見て、しかも常体のぶっきらぼうな文章を読み通せる人が少なくなっているのは残念ながら事実だ。こうした日本語の文章表現において欠かせないのが漢字の知識であり、読めればいいなどと高を括っていると次第に書けなくなり、書けなくなると読めなくなっていく。

 いまさら漢字の問題集を広げる必要はない。何かメモするとき漢字で書くようにすればいいだけだ。分からないときはスマホや電子辞書で調べてもいい。でも、手書きで書くことを最終段階に持ってくると忘れない。字を忘れないことは日本人にとっては実はとても大切なことであることは脳科学の方面でも様々に言われている。健康対策にもいいのかもしれない。

みんなで支える

 日本のアドバンテージを考えるとみんなで支えるという考え方に親和性が高いということではないか。現代人はかなり利己的だが、それでも仲間に対する思いやりには長けている。これは人種とか地域性とかではなく仲間と認めたものに対する気持ちだ。

 これは同時に仲間でないものを斥ける排他性と表裏一体である。中根千枝氏の先駆的研究が指摘する通り、他所者に対する冷たさは日本人のもう一つの側面だ。この事実を忘れてはならない。我々は仲間としないものにはかなり手厳しい。理論的に反目しているならばよいが理由なく相手を認めないことも普通に行われる。

 民族論者ではないがこうした国民性を活かすことも考えるべきことだろう。仲間に対する優しさと仲間でないものに対する冷淡さはいかにして活用すべきだろうか。様々な答えが考えられる。

 結果としてみんなのために貢献できる国民性は地球市民としては益となる。つまりは地球市民という概念を獲得することが日本人の強みになる可能性があると感じている。遠い目標だが、達成不可能ではなさそうな気がする。それが日本人のポテンシャルだろう。

和食

 よく和食は健康にいいと言われる。概ね正解のようだが、それだけでもないらしい。最近は高齢者も積極的に肉を摂るべきであり、和食だけでは健康年齢を伸ばせないと言われている。西洋的な食事だけならばよくないが、和食だけでもよろしくないということなのだ。

 思えば和食とは日本の文化の反映だ。日本文化は時代とともに海外の良いものを取り入れ、独自にアレンジしてきた。平安時代の食事と現在のそれは全く異なる。だから、時代の要請に基づいて新しい調理方法や素材を用いることは和食の伝統にもなりうるのだ。これこそが和食であり、それ以外にはないという考え方はJapanese Styleの本質ではない。懐の深さこそが日本文化なのだから。

 だから、いわゆる和食にこだわり、海外の食生活を忌避したり、逆に和食の欠点を論いその本質を考えないのは的を射ていないということになる。これからどんな和食が誕生するのかそれが楽しみである。







早咲き

 隣市の公園に行ったところ、咲き始めた桜を見つけた。早咲きの種類らしい。カワヅザクラかその亜種のようだった。

 その樹の下には何人もの人たちが足を止め、枝先を見つめていた。言葉を交わす人もいる。まだ寒い日が続いているが、間もなくそれも終わりであろう。ソメイヨシノの咲く頃にはこの樹のことは忘れているだろう。

 早咲きの桜に何か心躍る一時であった。