投稿者: Mitsuhiro

ヘルメット

 自転車に乗る際のヘルメットが義務化されている。ただ、現状ではヘルメット未着用の人が多い。

 この件については努力義務と言う扱いで法的な拘束力が弱い。義務化という言葉との落差がある。注意はされるが罰はないということだ。

 さらに品薄も原因という。自転車店の中には在庫切れで予約待ちだという。通販には格安のものがあるが果して安全性は保てているのか。

 ヘルメット着用による事故発生時の被害の軽減については証拠があるという。気軽に利用できるような仕組みが必要だ。

斜面

 駅から見える線路脇の斜面は時々気になる。恐らく相応の手当がなされ、崩れることがないように加工されているはずだ。その上には多くの住宅もあるから、地盤はしっかりしているのだろう。

 この急斜面に多くの植物が生息している。葛の類は逞しい。他の草花も垂直を保てるものはない。ただし、この厳しい条件を満たせば、競争相手は少なく、日光を独占できる。急斜面であればあるほど、ライバルは限られる。

 そんな生き物のドラマに毎日接しているのにもかかわらず、大抵は意識に上がらない。流れる景色の一つにしかならない。考えてみれば不思議だ。

 

ドクダミ

 ドクダミについては何度か書いたことがある。見た目は鮮やかな白で十字に開いた花弁が印象的だ。俳句では十薬として大切な季語になる。

 一方で強烈な臭いはこの花の特徴である。様々な成分を含むために虫が寄生しにくく、それで生き延びている。繁殖力も旺盛で、一度定着すると駆逐するのはかなり困難だ。

 毒を矯めるという名の通り、薬効もある。亡くなった叔母はどくだみ茶の信者で訪問するたびに飲まされた。飲み干すのはかなりの苦役だった。

 どこにでも生えるので特別な植物ではないが、私にとっては様々な思い出に結びつく植物だ。

ほめられたい

 昔は人に褒められたいと思う気持ちが強かった。いまはなぜか褒められると残念な気持ちになる。褒められるくらいのことしかできていないのだと考えてしまう。

 かなりひねくれているのは承知の上だが、人と違うことで成功したいという気持ちが高まっている。だから、自分の価値は簡単に分からないものになりたいなどと考え始めるのだ。

 これは独善という言葉の言い換えのようなものかもしれない。ただ、もし許されるならば唯一無二を目指したい。簡単に褒められることはないような。人様に迷惑はかけまい。安易には流れるまい。

ナンバリングとラベリング

 レポートの書き方の手法にナンバリングとラベリングというものがある。外来語で書くとことごとしいが、要するに番号づけと要点を先に述べるということだ。これはかなり前から作文教育で使われてきた。またディベートなどの口頭発表においても定番の技術だ。

 わかりやすく伝えるための誰でもできる方法で、特に作文が苦手な人におすすめしたいやり方なのだが、教えても定着しなかった。ところがその状況が変わりつつある。

 現在、この手法を活用しているのはAIによる文章生成プログラムだ。質問に対して答えの要素を内容ごとに箇条書きしてくる。さらにそれぞれの文章のはじめにトピックセンテンスが置かれ、読者にとって理解しやすい。すべてが同じ型なので味わいはないが、答えを知るという目的には叶っている。

 作文が苦手な人にはこのコンピューターが生成した文章を示すと、ナンバリングやラベリングのよさを実感してもらえるだろう。

 実はこうした文章には欠点もある。ナンバリングする際のまとめ方が思ったより整然とはいかない。同じことを何度も述べてしまったり、別の要素にしたほうがよいものを無理に結びつけたりする。この矛盾が分かりやすくなるのだ。AIの作る文章でもしばしば見られる。

 作文の指導にAIを使い、良い手本にも悪い手本にもなってもらう。これならばいいのではないか。

学習効果と効率は違う

 教育現場においてICTをどのように使うのかはまだ答えが出ていない。使わない訳にはいかないという世情の流れに、教育界が流されると陥穽に陥る。

 学習する過程において、とりわけ初等中等教育においてはやはり自分の脳細胞を活性化する活動の方がいい。効率や完成度を犠牲にしても自分で考えさせることを重視するべきなのだ。それができて情報機器の活用ができる。

 コンピューターの操作方法を教えなくてはならないというのは私たちの世代の基準だ。今のインターフェースは昔より遥かに分かりやすく、それほど知識はいらない。そんなことはあとからでも間に合う。大切なのは自分で問題解決の糸口を見つける試行錯誤の経験値を高めることだ。

 情報の整理や記録に関しては早くから始めてもいい。これはノートをつけることの延長にある行為だからだ。またなくてはならないのは思考のツールとして情報機器を使うことだ。これは大学生になってからでいい。順番を示すことが教育関係者の責務になっている。

無意識の選択

 新緑の季節である。万緑といってもいい。緑に励まされ、力をもらえる気がする。ここ数日心身のバイオリズムが下降している私にとって、この光景は何よりもありがたい。

 草原に目を凝らすとすすきの穂が残っている。この植物は強いので枯れても形が残ることが多い。しかし、それに気づく人は少ない。私も最近発見したのであり、しかもすぐに忘れる。風薫る季節とすすきの亡骸は結びつかない。そういうものはたとえ視界に入っても認知の枠からは除外される。

 私はよくものを見ているようで、実は見たいものを見ている。現実そのままを見ることは難しく、ある程度の枠組みの中に入ったものを捉え、そうでないものを取り除いているのだ。写真に撮った風景の印象が変わることがあるのはそのためだろう。

 今は風景に癒しを求め、そこから得られる何かを期待している。考えてみれば歳時記の季語と言うのものはそうした見たいもの感じたいもののリストなのかもしれない。

気温上昇

 今日は昨日と比較して最高気温が8度上昇するという。さらに明後日は真夏日になるかもしれないとの予報もあり、体調管理が欠かせない。毎年この時期に体調を崩しやすい私にとっては要注意だ。

 このところ肌寒さを感じる陽気が続いてきた。それが一気に夏本番を感じさえる天気に急変する。気温上昇の原因は日本上空にあった寒気が移動したことであるという。体調を崩すのは急激な変化が起きるときであり、真夏よりもむしろこういう時期の方が危険だ。

 今年はマスクをつけない夏にしたい。いろいろな屋外行事にも参加したい。そのためには体調管理が肝要だ。

伝統的な結びつき

 グローバルに人材の移動が起きる時代において、日本の優位を保つことは結構難しい。ギャラを倍出すけれどうちに来ない? と言われた有能な人が、いやあ私は日本人ですから、日本のために働きます。などと答えるのは理想としか言いようがない。

 まして我が国は愛国心には如何ともし難い軛がある。勝てない世界大戦に国民を駆り立て、多大なる犠牲者を出した歴史をもっているからだ。国を愛せよということに極めて敏感になっている。

 だから、日本のために何かをしたいなどと言ったら変わり者扱いされる可能性もある。というよりそういう発想自体が出てこない風土がある。海外の方には最も理解しにくい日本人の現実だ。

 優秀なスキルをもっている人ならは、国益と私益のバランスが分からないはずはないと思うが、それも幻想だ。自分が不利益になるのに国のために尽くすなどと考える思考回路はない。

 ならば、この国はどうすればいいのだろう。やはり健全な愛国心を育てることを再考するしかあるまい。国家というより、自分が属する共同体のために尽力することの貴さを考える機会を設けるべきだ。その意味で町内会とか青年会のような組織は実は有意義なものであったことになる。

 伝統的な人々の紐帯は因襲的になると弊害があるが本来は意味のあるものであった。そういうことを見直す機会は必要ではないだろうか。

交響楽

 シンフォニーをホールで聴く贅沢さは何よりも素晴らしい。指揮者が最初の音を指示するまでの緊張感、重なり合う楽器が織りなすハーモニー、底から浮かび上がる様々な感情、そのどれもが尊い。

 もちろん、高級な音響機器を使えばかなり現実に近い音楽再生ができるなだろう。ただ、音楽家と観客たちが作り出す独特の空間は再現し得ない。

 時々は音楽を直接聞きに行かなくてはならないと強く思うのである。