投稿者: Mitsuhiro

笑いの型

 私たちが他人の話を聞いて感情を動かすのにはなんらかのきっかけが必要らしい。また、それがあればいいという訳でもなく、一定の条件が揃うことが必要になる。エンターテイメントの世界ではそれを巧みに創出して、感動を引き出す。

 漫才を見ているとそれを感じることができる。漫才などの演芸を観にゆく観客は、始めから笑いたいという欲望を抱いている。ただ、それを芸人が満たしてくれることを求めているのである。その期待を満たす者には高い評価があるが、ちょっとした手順の違いで笑いが発動できなければ批難の対象となる。その違いは極めてわずかで、文化的、個人的などさまざまなレベルでの差異を満たしたものだけが評価されることになる。

 感情の発露は極めて個人的なものであり、かけがえのない個のなせるわざとなんとなく思っていたが、実態は違う可能性がある。喜怒哀楽はそれが極めて個人的な体験のように思えるが、実は文化というよりは生物学的な事由により規定されているのかもしれない。私たちが泣くのは悲しいからだけではなく、いくつかの要件を満たす必要があるのだ。

 少なくとも今のところ明らかなのは、笑うためには手順が必要であるということで、それを演じ手側から言えば、型があるということなのだろう。観客を笑わせるためにはその型を巧みに利用する必要がある。

 笑いをどのように引き起こすのかは、昔からの課題であった。日常の中のわずかな非日常的側面の表出がそのきっかけになることは確かだろう。でも、ならば一定の条件をそろえれば笑いにつながるのかと言えば、否としか言いようがない。それが話芸の難しさであり、醍醐味でもあるのだ。

 漫才の繰り広げる典型的な芸態はそれを具象化してくれるものである。型、つまり笑いのツボが完成すれば、多少の不足があっても観客は笑いを発動する。なぜ出てくるだけで笑いが取れる芸人がいるのか、何をやっても受けないこともあるのかはそれに関わっているのかもしれない。

北陸は雪らしい

 北陸は雪らしい。関東のローカル放送では天気予報の範囲が少なくとも二通りある。多くは関東の一都六県を範囲とし、時間によっては山梨、長野、新潟を含めた関東甲信越に拡大される。ただ、映し出される雨雲の分布や降雨降雪予報の地図には富山県も入ることが多いので、コメントはないがだいたいの天気は分かるのである。

 今日は季節風が強く、さらにはこの季節に多い日本海寒帯気団収束帯も発生する可能性もあるという。そうなるとまとまった雪になりやすい。年末の大雪に注意しなくてはならない。

 かつて北陸に住んでいたとき、当時は長岡や後に越後湯沢で新幹線から在来線に乗り換えた。群馬の山を越えた辺りから雪景色となり、越後湯沢駅からはスキーをする人の姿が見えたものだった。関東は乾いた青空で、川端康成でなくともその激変に感情を揺り動かれる。日本の脊梁が冬の空をいかに隔てているのかを痛感するのだ。

 関東にいると雪景色に憧れ、北陸では曇天続きの冬空に鬱々としたこともあった。どちらにも素晴らしい魅力があるとともに耐えがたい痛みもある。どちらかに住むと見えたものが、移住してしばらくすると分からなくなってしまうのだ。

 天気予報で彼の地の映像が偶然映し出されたときに、にわかに過去の感触が噴出する。しかし有効期限はすぐ切れて、日常生活がそれをかき消してしまうのだ。このごろの季節はこの差異を思い出すことが多い。

クリスマスの音楽

 クリスマスにちなむ音楽は実に多い。賛美歌から始まり、毎年新たにクリスマスソングが作られ続けている。日本のようにクリスチャンは少ないのに文化的享受をしている地域も多いと思う。そもそもクリスマス自体が本来のキリスト教の行事ではなく、包摂されたものだという。

 クリスマスにちなむ音楽の多様性は、それだけを一年中流し続けるラジオ局があることからも明らかだ。クラシックからポップスまでネタが尽きることはない。そして一度ヒットすると長年にわたって再生されるという旨みもある。私にとってはホワイトクリスマスやハッピークリスマス、ラストクリスマスと言った曲は英語でも歌える。忘れかけた頃にクリスマスが来て、繰り返し再生されるからだ。

 クリスマスソングに比べると正月を題材にした歌は少ない。民俗的にはクリスマス以上に意味のある一日のはずなのにである。どうも日本人にとって正月は歌唱の題材にはならないらしい。恐らくそこには言語化できていない心性が潜んでいるはずだ。

 逆に言えば、正月を題材とした芸能、芸術は開発の余地があるということになる。クリスマスソングのように正月の歌といえばこの歌だという曲が年々蓄積されていくことがこの先起こるのかもしれない。

聞いてもらうこと

 自分の話を愛想でも良いので聞いてくれる人がいるというのは意外にも大切な幸福感なのかもしれない。若い頃はそんなことは思わなかった。むしろ自分の本心は外には出さず、適当なことを述べておいてその場を切り抜けることが大半だった。そうですねと言いながら本心は他にあるということが多かったと思う。

 それが次第に様相が変わってきた。前よりも周囲に同意を求める、というより反論も含めた反応を求めることが多くなった気がする。私は私という牙城をしっかりと建設できなくなったのかもしれない。

 親が入所している施設にいる高齢者はそんな事実を証してくれる。たまたま自分の親以外の方とお話をすると非常に喜んでいただけるのだ。多くの場合は意味不明瞭であり、同じことの繰り返しが多いが、それに対して向き合う姿勢を見せただけで非常に喜んでいただける。中には涙を浮かべて感謝されることもあった。いかに話を聞いてもらうことが大事なことなのかを痛感するのだ。

 高齢者だけではない。私たちは対面的コミュニケーションを渇望している。ネット社会で「ともだち」は増えても、実際には孤独感が日々増えてゆく。それが現代社会の一面なのである。

国際紛争の時代

 第2次世界大戦が終わって80年を経過した。日本では軍事費の拡張や核兵器保有の話題が時々出てくるが、現状では批判的であり、軍事大国への道は現実的ではない。過去の戦争の教訓をまだ生かし続けているといえる。少なくとも現時点ではだが。

 ただ、国際的には戦争や内紛が相次ぎ、数え方による差異はあるものの現在進行中のものが60件前後あるらしい。これは戦後最大であり、現在が決して平和な時代ではないことが分かる。

 最近の国際紛争の傾向として、第三国が組織的に介入することが多いことが挙げられる。支援と言う名のもとで兵器の売買で利益を上げたり、国内情勢の不安定さを他国の紛争に注目させることで国民の不満をうやむやにする手法が取られている。その結果、事態は長期化し、それ故に解決の端緒が見つからなくなっている。

 我が国が国際社会で貢献できることはやはり平和の尊さを訴え続けることだろう。さらには紛争解決のための交渉術に長けた人材を育成すること。紛争の根本原因の一つである貧困や格差を解消させるための貢献をすることだろう。かつて参戦し、加害被害の両方を味わった国の責任であり、努力目標であろう。

 そんな夢物語をしていたら隣国から攻め込まれますよという意見があるのも知っている。むしろ最近はこれが市民権を得つつある。徴兵制を知らず、身内に戦死者がいない人たちのまるでバーチャル空間のような思考をいかにしたら説得できるのだろう。

契約学科

 韓国や台湾で既に行われている契約学科を日本でも設置する動きがあると報じられた。これは企業が大学教育に大きく関与することを意味する。自社にとって有益な人材を大学時点で育成し、企業の即戦力としようとするものである。主に理系の分野ではこの件に関して積極的であり、学生にとっては就職しやすくなるという旨みもある。

 人口知能など最新の技術が企業側にある最先端分野では、企業の関与が有益であることは容易に理解できる。少しの差で世界におけるリーダーシップが確保できるのならば、国際社会的にみて不可欠なことのように思われる。

 ただ、気になるのは大学が企業の論理に丸ごと飲み込まれた後の世界だ。本来、大学は利益とは無関係に知的好奇心に従って謎を解明していくための機関であったはずだ。金儲けとか序列とかそういうものとは一線を画した研究ができた場所であるという前提が破られていいのだろうか。

 そんなことを言っているから日本の技術は世界に遅れていくのだ、そんな批判を浴びる可能性を覚悟しつつ、それでもやはり大学の独立をどこかで守らなくてはならないと考える。 

ボイスフィッシング

 昨朝のニュースでボイスフィッシングという言葉を知った。電話の自動音声機能の悪用らしい。恐らくどこからか入手した電話番号のリスト、もしくは無作為に生成した番号に勝手に電話をかけ、相手に声による詐欺を行う。例えば使用中の銀行口座がこのままだと閉鎖されるから、認証作業を行ってほしい。ついてはこの番号に電話してオペレーターと話してほしいと言うのだ。偽オペレーターは相手の口座番号やパスワードを巧みに聞き出し、口座の金を勝手に引き出すのだという。オレオレ詐欺はまだ自分の声で行っていたが、もはや機械の声で人を騙す段階にある。

 報道によればもっと手の込んだ詐欺もあるという。社長なり上司なりの声を合成して、それらしいメッセージを送って相手を騙すのだという。知っている声で頼まれたらもう騙されない方が難しい。スーパーオレオレ詐欺である。人を騙すことで利益を得ようとする悪事は昔からあるが、それに対抗するためには防衛力を高めなくてはならない。ニュースのアナウンサーのコメントによれば相手の提示した連絡先に直接返信しないことが肝要なのだという。面倒だが発信源を自分で調べて、そこに連絡して確認するのが良いのだとか。まったく人を信用するなといっているような嫌な話だ。悪意のある人がこの世に存在している以上はこの面倒な手続きは欠かせない。

 実は私の携帯電話にもこの類と考えられるメッセージが定期的に届く。私は知り合い以外の電話は基本的に受信しない。iPhoneには留守番電話を文字起こししてくれる機能があるのでそれで内容を判断している。そもそも資産など何もない私に口座が何のと持ちかけてくることが無駄な努力であり、私にとっては馬鹿にされているかのように感じて不快でならない。読者の皆さんにおかれては金蔵をだまし取られないようにしていただきたい。

ズートピア

 先日、ズートピア2を観てきた。前作も映画館で観たが、それから9年も経過していたとは驚きである。ディズニー映画らしい分かりやすさと、ある意味予定調和の安心できるストーリーは大衆受けするものである。日本アニメとの違いはこのグローバルな後味にあると痛感した。

 原作もそうだが、この可愛らしいアニメーションの世界は多分に暗喩に富んでいる。現在のアメリカ合衆国で進む分断に対する提唱とするならばかなりラディカルなメッセージが込められている。前作では肉食動物と草食動物の対立がテーマであったが、今回は哺乳類と爬虫類という対比がなされている。ズートピアという理想的国家には実は様々な格差があり、それを認めることが難しい状況にある。個々人が幸福を追求する競争社会において多様性がどのように受け入れられていくのかは現実社会の抱える問題点そのものだ。アメリカという移民によって建国された国家が根源的に抱える問題である。

 日本においてこうしたダイバーシティに関する知見は少しずつ定着しつつある。でも、いざ有事になると分からない。日本には差別なんてありませんよ。そんなふうに思い込んでいることが実はもっとも深い問題なのだろう。

 

同じ風景を見ても

 同じ風景を見てもそこから何を感知するのかは個人差がある。まったく同じ対象から感じ取るものは違うのだ。このことを多くの人は感覚的には知りながら、実際には思い違いしている気がする。

 事実なり現象なりそういう具象的なものは絶対的なものと考えられやすい。でも、ある現実をどのように解釈するのかは個人差がある。この事実を私たちはしばしば忘れる。個人の間の争いはまさにここを源泉とする。それが集団の、国家の、イデオロギー間の格差として現出することになる。

 ただ、以前よりもこうした問題は分かりやすくなった。私が子どもの頃は自分の属する集団の秩序が絶対化され、それに従わないものを排除することは当然のことと考えられていた。常識という黄金ワードがすべてに優先するかのような錯覚をしていたのである。それが、もしかしたら自分たちの思い込みに過ぎないという相対化がなされたのが現代の高度情報社会の成果だと言える。

 これは良いことのように思えるが、実はそんなに単純ではない。自分の信じる基準が実は相対的なものであり、物差しとして役に立たないかもしれないという疑念は、自らの立ち位置を極めて曖昧にしてしまったのである。あなたの感想でしよ、と言われると尻込みしてしまう自分が出来してしまったのである。

 物差しを失った人間にとって、頼みの綱になるのは何か。多くの人にとって、それは既成の物差しをわが物にすることだろう。そのときにその尺度に対する批判精神が働けばよいのだが、大抵の場合、無批判に受容されてしまう。世の中がそんなふうに動いているのだから、私もそれに従うべきなのだと。

 するとその先にあるのは時勢に流される意志なき個人だ。自分にも自集団にも責任を取らない人間たちの結束なき群衆が幅をきかすことになる。それを自由と呼ぶのか無秩序と呼ぶのかは立場によって分岐するが、いずれにしても御しがたい事態に至ることは間違いない。

パンダ外交の終わり

 日本の動物園からジャイアントパンダがいなくなりそうだ。もともとパンダは中国からの貸与という形で飼育され、レンタル代を払っている。様々な試算があるが、1頭当たり年間1億円以上が中国側に支払われている。飼育料も数千万円なのだが、経済効果がそれを上回るためにかつては上野公園、和歌山、神戸の動物園で飼育されていた。最後に残った上野動物園のパンダも返還されることとなり、いま最後の姿を見ようと結構な人が集っているようだ。

熊猫

 この動物は1972年の日中国交正常化を記念して贈られたものであり、その後ワシントン条件によってレンタルと言う形に移行している。希少動物の展示という段階を越えて、政治的な道具として機能してきたものである。その愛くるしい風貌から、いつも人気の動物であり、さまざまなデザイン化が施されキャラクターアイコンとして定着している。

 昨今の日中関係の不安定化や国交正常化時点とはまったく異なる両国の立場の変化によって、パンダは日本には居られなくなったのである。この動物にはまったく罪はない。あれこれ騒いだのは人間のほうなのだから。日本側が送ったカモシカはどうなっているのか分からない。再びパンダが日本に来るのかは分からないが、それが政治の具でない形でならばよいと思う。