月: 2022年8月

ハードな時代に備えて

岩間の花

 残念ながら日本の将来を悲観的に考える人は多い。これまで得意分野とされていた分野がふるわなくなり、結果として競争力が落ち込んでいる。高齢化や自然災害リスクなど不可避の負の要因が多数存在することも悲観論に拍車をかける。ハードな時代が来ることは避けられそうもない。

 不安な時代には想定外のことが起きやすい。犯罪の数が増えたり凶悪化する可能性がある。犯罪とまではいかなくても精神的な闇にとらわれる人が増えてくるのだろう。現在すでにその傾向を感じるが、より顕著になっていくはずだ。

 そのような時代を改善する方法はないのか。政治や経済に関する分野には叡智を期待したい。危機的状況にあるというコンセンサスは共有されつつある。立場がある人が決断を下しても非難されることは少ないだろう。非難されても国のためになると思うことは提案してほしいのだが。

 もう一つは心の安定をもたらす文化的な側面の発展だ。優しさや思いやりをテーマにしたものも、破れても立ち直るという打たれ強さを示すことも求められるかもしれない。押し付けでは意味がない。そういうものが必要となる時代を見据えて創作するアーティストが現れてほしい。

 難局を乗り越えられるかどうかは共同体の総合力が関係する。そういう時代に生きていることを自覚して自分のやれることを少しずつやっていくしかあるまい。

進化の不思議

 動物の進化という現象は実に不思議だ。環境に適合するために少しずつ身体の形を変えてゆくというのだが何ともしがたい。偶然形を変えたものが生き残って子孫を残したということなのだろう。

 人間が進化の最終形態のように考えるのは科学的ではない。わたしたちもまた日々形を変えており、未来の人類がいまと同じ姿をしている可能性は低い。それかどのようなものなのかは分からない。

 命というのが可変のものということはあらためて覚えておかねばならない。

かわいいは美しい

雀の子のねず鳴きするにをどり来る

 古典を教えてきて気づくことはいくらでもある。誰でも知っていることに「うつくし」という語の意味の変化がある。高校で学んだことを思い出していただきたい。

 『枕草子』に「うつくしきもの」という段がある。清少納言が自身の価値観でうつくしきものを列挙した章段である。そこにあるのは瓜に描いた子どもの顔、鳴き真似すると寄ってくる雀、這い這いしながら近づいてくる幼児が途中でゴミを見つけて大人に見せた姿、など子どもや小さなものへの愛情を示すものである。現代語ではかわいいというべきことばだ。

 古典語の美しいは「きよらなり」や「うるはし」が担当する。前者は清純のイメージがあるのに対し、後者は秀麗の感が強い。そしてどうも清らかさのほうが評価は上であったようだ。

これもよく言われることだが日本人は完成された美よりも未熟、未完成の状態の方を好むという。例えば日本でアイドルと呼ばれるジャンルで成功するためには理知的だと思われてはいけない。たとえ世情に通じていても、初心なふりを通す必要がある。海外の同様の立ち位置の存在には完成された歌唱やダンス、語学力が要求されているのと対照的だ。日本人ももっと歌やダンスを鍛えなくてはという人は多いがそのとおりにすれば少なくともアイドルではなくなる。場合によっては売れなくなってしまうかもしれない。

 かわいいは国際語になっているという人もいる。どこか子どものようなデザインはかえってユニークなのであり、そこに価値が生じている。もしかしたら「うつくしきもの」を嘉する考えが隠れているのかもしれない。

 高校野球がこれほど注目されるのも、宝塚歌劇団はプロの演劇集団なのに、俳優たちは生徒の意識があり卒業があるのも、こうした価値観に関係があるのかもしれない。

言い訳

 最近、このブログで誤字や脱字が増えている。今回はその言い訳をする。我ながらずうずうしい企画だ。

 誤字が増えた第一の原因は私の視力の低下にある。老眼が進んでしまったようでスマートフォンの文字がよく見えない。通勤電車の中で手短に入力する関係で見えなくても勘で決めてしまうことが多い。それが誤字の生まれる要因だ。

 まだある。いわゆる予測変換という便利な方法は時間短縮のためには役に立つ。ところが私のようなひねくれたことを書く者はコンピューター氏の予想を外れる語を使いがちだ。それをよく見ずに確定すると見事に変な日本語になる。

 まだある。私の注意力低下という如何ともし難い現象だ。これが根源にありそうだ。残念だが認めざるを得ない。

 私のできることは、気がついたときに直すことだけだ。時々過去の記事を読み直し、誤字や文意不通の箇所を書き直している。だから私のブログは過去記事が平気で変わっている。その方が誠実だろうから。というのが私の言い訳である。

森英恵さん逝く

 日本の代表的なファッションデザイナーの森英恵さんが逝去されたというニュースがながれた。ファッションにはあまり興味はないがそれでもハナエモリブランドは知っている。蝶のデザインの模様は印象的だった。偉大な先人の功績を讃えたい。

 実はわたしにとって森英恵のブランドは、表参道にショップができたことが縁の始まりだった。といっても小学生にとってはやたらと入りにくい服屋で値段が高すぎるのでいつも外からみるばかりだった。もっとも当時の表参道には海外のブランドショップが並んでいていたために、その中では親しみを持てるものであったと記憶している。

 新聞記事によれば、森英恵氏がデザイナーになったきっかけは海外で日本の衣服が安価な量販品として扱われていたのをみて心を痛めたことにあるという。すこし前の我が国が中国や東南アジアの製品を見下していたのと同じだ。日本製品に付加価値をもたらしたのはデザインであったという。

 印象的な蝶の模様もオペラの蝶々夫人に代表される可憐だが運命に逆らえない弱い存在からの脱却を秘めるものであったかもしれない。日本の伝統美が現代にも通用することを示してくれた。後進のデザイナーの目標にもなっていたと考える。

 価値を創出する人がこれからの時代にはとても大切になってくる。服飾品デザインはその象徴であるが、それ以外でもさまざま場面でデザインは大切になってくるのだろう。

暑さ続き

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もう何日か分からなくなってしまったが暑い日々が続いている。このような夏休みはかってあっただろうか、子どもの頃は真夏日が非常事態のようなあつかいだったように記憶している。

 こういう記憶というのは時間とともに誇張されていくものだからあてにはならないが少なくとも32℃はこの世の異変と感じていた。それが最近は普通になっている。

 猛暑の冬は大雪になるなどと言われるが果たして最近も通用する話なのだろうか。気象の常識は通用しないように思えてくる。

メニューはございません

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 外食のデジタル化でもっとも顧客にとって顕著なのは注文の仕方である。かつてからそういう店はあったが急速に増えているのがタブレットを客に操作させる方法だ。初めてそういう店に入ったときには大いに驚いたが、いまはかなりの頻度で出会う。

 その手の店の中にもいわゆる紙のメニューを置いている所と全く置いていない所とがある。置いていない店はウエイトレスは席の案内くらいしかしない。後はタブレットでお願いしますと言って去っていく。もっと進んだ?店はタブレットさえ置いていない。自分のスマホかなにかでそれを読み取って店のWEBにアクセスし、そこから注文してくれというのだ。こうなるともうテーブルの上にはQRコードが印刷された紙切れ一枚しかない。

 デジタル化はもちろん重要だ。特に人手不足かつ収益性の低い外食産業においては必要だろう。ただ、なにかが切り捨てられた気がする。それは熟練されたサービスであり、安心感であり、安らぎのようなものだろう。もちろんうまい料理が食べられればいいのであり、それが安ければなおいい。そのための手段として接客のデジタル化は不可欠なのだろう。それが嫌ならば、接客に長けた社員を多数雇用する店を選ぶべきだ。残念ながら、そういう店はどんどんなくなっていくし、あってもかなりお高い店となる。サービスはタダではないのだ。

 では、これからの外食産業はどうなっていくのか。まず、安価を維持するために徹底的な合理化を進めていく路線がある。これは今の主流だ。セントラルキッチンようなところで調理された半製品を冷凍や真空包装で各店舗に届け、調理場では最低限の光熱費で最終調理をする。特別な技能はいらないので、安価な報酬で調理師を雇えばよい。ウエイター・ウエイトレスは高校生か、高齢者を雇用してすぐに交代させる。必要最低限しか雇わない。バイトの単価が上がらない前に解雇する短期契約でつなぐ。接客はほとんど機械化しているので、そこそこ愛想がよければいい。片づけ、食器洗いは最低限にして多くは機械化する。いまでもその気はあるが、自動洗浄のレベルではよくても、心情的にはもう少し洗ってほしいという食器が来ることがある。しかし、この種の店では今後もそれは改善されず、質的向上はまずないだろう。

 もう一つの路線はやたらと高級化していくことだ。安価なチェーン店と同じことをしていてはとても勝てない。そこで店員はいずれも志の高い正社員をそろえ、最高級の接客をする。食器の質、洗浄の度合いなども洗練される。もちろん料理はその都度、シェフが作る。季節によって少しずつ味が異なるのは、シェフのさじ加減がかわるからだ。顧客はとても幸せな気分になれる。チェーン店で同じ名前のメニューを頼むと一桁安い値段で食べられることはわかっていても。

 極端に書いたが、格差が広がる日本社会の未来として十分にありうることだ。外食産業はそれが分かりやすいが、こうした違いは各所に現れるだろう。IT化は人々を全体的に豊かにするという人もいるが、少なくとも過渡期においては格差を助長することになる。

 私たちは振り回されないことが肝心だ。便利なものは使い、便利でも気分に合わない者はあえて使わないという判断をしていかなくてはならない。デジタル化が世の中を素晴らしいものにするという単純な論理に乗らないことだ。

走ってみた

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 相変わらず猛暑が続くが、今日は意を決めてジョギングをしてみた。とっても近くの公園の周回コースを回っただけである。ここは近くに自動販売機もあるし、ほかのランナーもいるから安心だ。少し柔らかめの舗装にしてあるのもいい。

 暑いから走れないというものもあるが、それ以前に体重が増えすぎたのかもしれない。体が重かった。時々また走ってみようと思う。運動不足はいろいろな点でよろしくない。

歌枕

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 サントリー美術館で開催中の「歌枕 あなたの知らない心の風景」という展覧会を見てきた。歌枕は和歌の世界でいう名所のことであるが、よく知られているように実際にその地に訪れることはなくてもその風景を歌の中に詠みこんでしまうというものである。そこから歌を素材とした絵画が生まれ、さらには様々な工芸品が生まれた。

 桜といえば吉野、紅葉といえば竜田というように歌枕には固定的なイメージがある。吉野にも紅葉はあるし、夏の茂みもある。しかし、そういうことは捨てられて桜の山として注目される。歌枕としての地名は場所の名前ではなく、当時の美的観念からその地に見出されてきたイメージのまとまりを意味する。もちろん核となる風景はあるのだが、そこに集まってきた印象の積み重ねが形式化して歌の素材として定着すると歌枕になっていく。

 この展示では歌枕を絵画化した屏風や絵巻物が多く並べられている。これらの作品は一度和歌の素材として実景から濃縮されたイメージが、一度和歌として利用され、今度はその作品の世界から風景が想像されて、視覚の世界に再現されたものといえる。いってみれば風景の美的エッセンスが何度か濾しとられているようなものであろう。

 だから歌枕の絵は実景とはかけ離れていても当たり前なのだ。それは美意識によって切り取られたものであり、それがさらに観念的に再構成されて屏風絵のようなものに再び視覚化されていく。その繰り返しの中で洗練度はさらに増していった。わが国の近世絵画に厳密な意味での写実がはないのだと思う。そこには理想的な美のエッセンスを描こうとする営みがあった。

 でもこれが西洋絵画に多大なる影響を与えたのは周知のとおりだ。実物の映像を複製するのではなく、自分が見たまま感じたままの映像を具現化することの重要性への気づきが近代絵画の発展に貢献したのであろう。

 よく言われていることだが、こうしたものの捉え方が和歌やその派生形である俳句を核として生まれ成長してきたことはもっと注目すべきだろう。短詩形に思いを詰め込むために何を捨象して、何を取り出すのか。その中で醸成されてきたさまざまな約束事のなかで押しつぶされないようにどのような工夫をしてきたかといったことは日本の文化を考える上での大きなヒントになる。さらに現況を打破するための哲学ともなりうるかもしれない。