月: 2022年8月

31日

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 8月31日は小学生にとっては特別な日だった。いまはどうかは知らない。宿題提出を明日に控えてまだやっていないものを親に叱られ、泣きべそをかく間もなくなんとか仕上げるように言われる。

 困るのは天気の記録をつける日記のたぐいだ。今はネットで調べれば天気や最高最低気温などの情報が即座に手に入る。余計なおせっかいとして新聞に夏休み期間の天気と温度のような「神」広告を出した企業があった。私はその時点で小学生ではなかったのでうらやましく思ったものだ。

 夏休みの宿題の山は自由課題だ。私の場合は工作をすることが多かった。低学年の時は水族館というおもちゃを作った。お菓子の紙箱のふたを切ってセロファンを貼り、なかに紙で作った魚や海藻を飾る。一回目は褒められたが、次の年も同じものを出したらこれ以外にしなさいと言われた覚えがある。高学年になると木工をやった。ところが31日の午後になってもできない。ある年、どういうわけが父が休みでそれなら手伝うと助け舟を出してくれた。父は比較的器用であり、凝り性なところもあった。

 虫かごやマガジンラックを作るのに明らかに小学生の能力以上のものを作ってしまう。それだけならばいいのに、なぜか金のラッカースプレーを吹き付けて完成とした。個人的にはなぜ金なのかは分からなかったし、やりすぎな気がした。それでもその父の作品を提出したことで叱られずに済んだ。その作品がどのような評価を受けたのかはなぜか記憶にない。

 8月31日になるとなぜか思い出すのだ。

進路予想

台風はどこから来るの?

 台風11号は西に向かっているが日本本土に接近した後の進路予想が難しいようだ。いろいろな予報が出ている。どうも予想しにくいようだ。

 数年前、日本の南海上を西進した台風が、ほぼ折返して東に戻ってきたことがある。こうした迷走が近年多いように感じる。おそらく、海水温の上昇などの影響があるのではないだろうか。

 この台風の関係か数日は涼しくなり、その後また残暑が戻るということだ。今朝は肌寒さを感じるほどだがしばらくは熱中症対策が要りそうだ。

思い込み

 

歴史上の人物の印象はある程度固定化されている。この人はこういう人物だというラベリングがなされている。その方が理解しやすいからだろう。真実とは違っていても。

 人生は多様で複雑であり、とても一言では言い表せない。でも複雑なものをそのまま把握することは難しいので、どうしても角を取る作業がいることになる。取られた部分は決して不要なものではない。あくまで単純化の過程で切り落とされるものなのだ。

 彼はこういう人物だったというとき、それはごく一部の側面を捉え拡大して述べているのだ。もし自分の獲得した人物評を熟慮する時間と能力とがあれば、思い込みに過ぎないのだと気づくはずなのだ。

 歴史上の人物だけではない。周囲の人への人物像もまた、多分に思い込みの産物であることをときに思いださなくてはならない。

秋の気配

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 残暑が厳しいのは変わらないが、それでも日暮れの街を歩くと、方々から虫の音が聞こえてくるのが秋を感じさせる。気が付けば8月も最後の日曜となり、来週からは新学期にもなる。

 時間の区切れというものはしょせん人為的なものであり、実際は不断の流れの一場面に過ぎない。それだと実感ができないので、いまは何時、季節はいつと命名しているだけだろう。いかなる分節をほどこすのか、そこにどのような意味づけをしていくのは文化による。極端に言えば個人の感性によるものともいえる。だから秋を悲愁の季節と考えるか豊穣の歓喜による季節とするのかは人間側の問題だ。

 食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋、芸術の秋、月見、紅葉狩りなどさまざまな秋の捉え方があるが、どれもいかに意味づけするかということになる。ならば、私は私なりに季節を捉えなおしてみようではないか。秋は衰退ではなく復活の季節ということにしたい。陽光は減り、気温は下がるのでマイナスのイメージを持ちやすいが、暑さの支配から逃れ、自分の行動が解放される季節として位置付けてみようと思う。

 こう考えると虫の音が頼もしく聞こえてくる。要するに気の持ちようなのだろう。

考え方を教える

これが理想ですが

 最近、教育の世界で繰り返されるは知識の単なる伝達では意味がない、教えるべきことは個々の情報ではなく、その扱い方だと。つまり、考えることそれ自体の方法を教えるべきだということだ。

 メタ学習の方法を教えることは実は簡単ではない。教員にとって最適な学習方法だと思っても、それがすべての人に適合するとは限らないからだ。できれば生徒一人ひとりの気質やコンピテンシーにあった方法を提案するのがいい。それがいまの教育システムでは難しい。

 難しいからやらないというといつまでも進まない。あえて完全な理想型は求めず、できることから始めたい。考えられるのは小テストなどで誤答の傾向を知り、それに応じたやり方を提案することだ。幸い答案の分析などはコンピューター解析ができようになりつつある。

 国語の教員なので古典の学習を例に取る。文法の問題を間違えることが多い生徒は、基本的な約束が曖昧な可能性がある。主語を判別できない生徒は、述語との対応を軽く見ている可能性がある。それをある程度指摘してそれに対処するための方法を示すことが大切だ。

 そこで私のような世代はプリント課題を与えて補講をしてと考えるのだが、そんな余裕は教員にはない。手持ちの問題集のどの部分を学べばいいのかを示し、それができたかを確認するだけでも効果があるのではないか。やり方は示すが、何をやるかは生徒に任せた方がいい。その方がお互い幸せだろう。

 この方法で大切なのは繰り返し行うことだ。それを行うことで次第に学習習慣はできていくのだろう。もちろん何を言っても無視されることもあるだろうが。

 そして、この方法の大前提として学ぶことは一本道ではないということを強調しておく必要はある。すぐに理解してしまうこともあれば、なかなかうまくいかないこともある。それは個性であり、持ち味でもある。速く点数が取れればいいというわけでもない。短期記憶の処理で終わってしまったり、その分野だけの知識として応用ができないのなら将来的な学習の意味は薄い。ゆっくりしっかり学んでいこうと繰り返したい。

 学び方を教えることは中等教育の教員の責務ではないか。新学期はこれをもう一度思い出したい。

さるすべり

百日紅

最近、よくサルスベリの花を見る。猿も滑ってしまうほどの幹の様子がその名の由来だという。夏から秋にかけて赤や紫の花が咲く。小さな小花が群生し、次々に開花することから百日紅とも呼ばれる。

サルスベリのことを意識するようになったのはここ数年のことだ。それまでは名前は知っていたし、図鑑の映像は見たことがあった。気づいてみるとあちこちに植えられていた。

赤や紫のあざやかないろあいは異国を感じさせる。

好きではないが

I don’t like it, but…

 好きではないがやらなくてはならないことがある。生きているからにはそんなことの連続だ。組織の一員の場合は、特にそういう機会が増える。やらねばならないことが、自らの価値観から遠いとき、いかに振る舞えばいいのだろう。

 倫理的な問題になる場合は、思い切って止めることを選択肢に入れるべきだ。組織から離れることも必要になる。生活がかかっている場合は容易ではないが。

 それほどはない場合、これが大半の事例だろう。その場合は調整するしかない。その手段としては相手を変えるか、自分を変えるか、その両方かだ。指示するものにそのやり方は間違っていると指摘して、納得してもらえばやらなくてもよくなるかもしれない。少なくとも何らかの改良がなされる可能性がある。だが、残念ながら相手が動かない場合は自分の方を変えるしかない。これは仕事だからとか、報酬を得ることが目的だからとか、こんなやり方は続くはずはないから、とりあえず乗ってみるとか、そういう言い訳を作るのだ。嬉しくないがこれがとりあえず取れる手だろう。

 理想的なのは相手の改良案を引き出し、それに自己参加の意識を持つことかもしれない。それであまり好きではないやり方でも自分の意見が反映されたと思える。モチベーションを保つにもよい。

 大切なのは大きな目的に反しないか吟味することだ。喫緊の課題には妥協してもその先の何かは譲らないという考え方が肝要ということになる。

古典教育に演劇を

古典劇ではありません

 漠然と考えていることを文字にしてみる。今日は(も)自分のための記事になる。

 古典文学を教えるとき、なぜ教える方は面白いと考えるのに習う方はつまらないと思うのだろうか。その一つの原因は作品の背景に関する知識の差にある。知識というと古典常識なるまた学習者を小馬鹿にしたような言い方が思い浮かぶ。常識と言い張る人ほど非常識なものだ。言いたいのは作品からイメージできる情報、情趣の差だ。これは古文を味わう上で大きく影響する。

 古典を読む際に単なる暗号解読にならないようにしなくてはならない。作品をわがこととして読めるように考えるべきだ。それには演劇的な手法も有効だ。推量の助動詞の使い分けをどれだけ実感を伴って行えるのか。それは古語を使って役を演じる中で獲得できる可能性がある。

 私はショートコントで古典を指導する方法を模索したい。できてきたらご紹介していこう。

別の道

行き方はいろいろ生き方もさまざま

 不景気になりつつあるだろうか。世情に寛容さが失われつつあるのを感じる。こんなことを書くと印象で判断するべきではない証拠を示せと言われそうだ。なんでも証拠がないと動かないのも今の風潮だと言える。

 山の登り方には何通りもあるように、何も最短ルートを行くのがよいとは限らない。危険だから全員迂回するようにというのも何か間違っている。極端な例だが、このように選択肢をある程度絞って、その中から選ばなくてはならないというのが現代の日常だ。

 それに息苦しさを感じると洒落ではないが生き苦しくなる。その人なりのやり方があっていい。それが一見非効率であったとしても。

 他人に迷惑をかけるのは論外だが、そうでないならば様々なやり方を認めてもよい。それが自分の特権としてあるだけではわがままに過ぎない。他人のやり方を寛容することに世の中を変える鍵があるのだろう。

後半戦の決意

かっこよく走る

 まず、定時退社を目指す。これは逃げではなく切り詰めである。少し前までは、頑張れば得られるものもあった。残念ながら最近は無理が効かない。だから何事も短期決戦だ。やれることを先にやり、それ以上は望まない。これが最近の最適解だ。悔しいが、粘りは効かない。

 年度の後半という意味において何をすべきか、そして何を止めるかを明らかにしたい。これはかなり切実な切り詰めでもあるが身のほどを考えた決断でもある。表現の方法は様々なあるものの要するに何をすればいいのかを納得するための自己啓発である。

 次に結果に関心を持つことだ。短時間勝負ならばその成果が問われる。この評価には耐えなくてはならない。何をやったのか、それが全体の何に寄与するのかは說明する必要がある。このあたりはシビアでありたい。

 長くやって得られることは多い。これまでのやり方はこれだ。失敗しながらも仕事を覚えていく方法だ。しかし、いまはその余裕が持てない。だから、今できる最大のパフォーマンスを目指すがそれ以上は求めない。そういうやり方を目指そうということだ。

 私にはコペルニクス的転回であるがこの歳になって貢献できることはやるべきことを余裕をもってこなすこと以外にない。