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枝分かれ

 この世界がいくらでも枝分かれするという理論がある。今起きていることは偶然の出来事であり、その他の可能性もあり得たということになる。

 自分の暮らす世界に関しては結果論としてしか語れない。自分の生きる世界を選ぶことはできない。そもそも世界を支配し、秩序をつくること自体、相当な困難がある。だから所与の世界で何とか生き延びるしかない。それが人生であり、運命なるものだ。

だから、自分が住む世界以外の別の世界があると想定することは本当に単なる妄想である。それでも考えてみたいことがある。少し違う世界に生きたら何が起こるのかと。それが創作の動機の一つになっている。

下旬

 6月も半分が終わった。やるべきことが終わらないまま、過ごしてしまったことになる。どうも来週はかなり暑い日々になるようだ。煮え切らないというより、湿り切らない梅雨が続くことになる。

 なんとかしなくてはならないと思うほど、何もつかめなくなると感じる。できなくて当たり前と割り切るようにしたい。他人に迷惑をかけない限り、オウンペースで切り抜けたい。

 

歌の力

 古典文学の世界のお約束に和歌は特別というものがある。現況の困難を歌が解決するという話は類型が多く、読解の鍵となる前提条件だ。

 地の文が理を述べるのなら、歌は情の表現であり、古人が何れを尊重していたのかを窺い知れる。

 現代では情的なメッセージは副次的なものであり、ときにはノイズの扱いを受ける。どちらがよいというわけではないが、現代社会の息苦しさの一因が情の軽視にあることは間違いないのではないだろうか。

AIに悩み相談してみた

 人工知能に悩みを相談すると必ず前向きの助言を返してくる。プログラムには相談相手を絶望の淵に沈めてしまえという選択はないようだ。ただ、そういう回答にはときにしらじらしさを感じてしまうのも事実だ。

 その背景にはどうせ人工知能にはこの苦しみを理解できない。過去の相談の履歴やネット上に残る類似の相談例の回答を組み合わせているのに過ぎないと思うからだ。恐らくこれは事実であり、人工知能にとっては相談者の悩みは他の検索と変わらないデータの一つに過ぎないはずだ。

 感嘆符付きで激励されるとそれでも嬉しいのは確かだ。実際にそれを人間に近い発音とイントネーションで読み上げ、ホログラムと連動したら、もっと説得力が増すかもしれない。相手に感情がなくても、こちら側がそれらのデジタル現象を有情なるものとみなすことは人間の能力の範囲にある。

 でも人工知能がたとえ特異点を超えたとしても、心の問題は残るのかもしれない。それこそが人間の存在意義の最後の砦になりそうだ。

知らないことがあるという認識こそ

 若さというものが何であるのかは人によって定義が異なる。もちろん身体的な問題は最もわかりやすい基だ。しかしこれには個人差がある。歳を取るたびに何かを失っていくというものでもないらしい。それでもやはり、統計的に考えれば加齢は様々な限界を低くしていくのは確かだ。

 精神面においては年齢のわりには老いない人もいる。何かに向かってあきらめず追求する姿は若さを感じさせるものがある。私が注目するのはその方面の問題だ。つまり、経験を積んでもまだやれることはあるのではないか。知らないことがあってそれを見つけることが必要ではないかと思えることなのだと思う。自分の無知を認め、それを克服しようと努力できることは若さのなせる業であるといえる。

 自身のことを述べるとやはり、近年は知ったつもりになってそれ以上を追求しないか、様々な言い訳をして困難に立ち向かわないことが増えていると思う。どうせできない、誰かには敵わないというのが口癖になっていることがある。それは本当に老いたということになるのだろう。

 だから、無理にでも思い直すことにしている。「今日はできなかった。しかし、明日からは分からない。できるかもしれない」と。こういう悪あがきをするのも最近の習慣だ。百均で売っていた「やれたことノート」にいいことばかりを書き連ねる都合のよい自己暗示の策を取っている。傍からみれば滑稽でもいい。まだ自分に向上の余地があると信じて疑わない。それが若さというものなのだろう。年齢が少ないときはそんなことは意識する必要がなかったが、最近はなんでも知っているという錯覚を自主的に打ち消さなくてはならない。それが若さを保つ秘訣ということになる。

反実仮想の思考法

最近よく聞く言葉に「世界線」がある。文脈上は別世界の意味があるパラレルワールドのようなものがあることを想定し、もし今いる世界とは別の世界に生きていたとしたらという考え方らしい。実際には起こり得ないが仮に想定してみるという思考法である。

The another world

性質は全く異なるが伝統的な他界観である来世と少し似た発想だ。来世が時間的には縦に繋がるのに対し、パラレルワールドは横にある。その違いはあるのだが、現世との繋がりの中で異世界の存在を想定するのは同じことだ。

世界線を移動することができない以上、異世界の存在はなんらかの救いとなるわけではないように思える。今味わっている苦難は別世界では大きな恩恵になっているのかもしれない。でもその別世界には移動できない。

世界線という考え方を一種のメタ認知と考えることもできる。現状を見渡し、敢えてそれに捉われずに自由に発想する。そこから得られる慰めと現実の受け入れ、そして場合によっては現状打破の端緒の発見がこの考えの魅力だ。そうならば別の世界線を夢想することには意味があることになる。

目的は何だったのか

 日々の暮らしに追われているうちに初心を忘れてしまうのは世の常なのかもしれない。私の場合、研究者になろうという考えがあったわけではなかったのだが、好きな学問を続けられるならばと思ってその道に入り、周囲の人々の影響で研究職もどきに就いた。それが、途中でダメになって今の職に移ったのだが、せめて文学の楽しさを若い世代に伝えたいという思いで始めたはずだ。それがどうも今は数字で測れる成績の向上ばかりを気にして初心を忘れつつある。

 残り僅かになった教員生活を進学実績を向上させることに貢献することで終わることはそれなりに意味がある。でも、もう一人の自分が言う。それでいいのかと。そのために教員になったのかと。

 私は二つの目的を同時にかなえることに挑まなくてはならない。数字で測れる成績向上と、測れない教養というものの伝授を同時に達成することだ。教養の方は私自身が十分にあるのではないから、教えるのは学ぶことの楽しさであり、特に文学を学ぶことの意味についてである。単に試験科目としての国語で高い偏差値を取るのだけが目的なのではない。自分とは異なる誰かの考え方を学ぶことの意味を知ること、それは一つのベクトル上に並ぶのではなく、人それぞれの考え方があり、それぞれに意味があるのだということ。そのうえで自分が生きるための選択はせねばならず、先人の意見に学び、模倣しながらも、最終的には自分なりの生き方を創造しなくてはならないということを伝えなくてはならないのだ。

 日々の生活に追われ、自分の力の衰退に気を取られ嘆いているうちに、本当にやりたかったことを忘れつつある。まだ本当の衰微に到達する前にやるべきことをやっておかねばならない。そのためには若者がやるような無鉄砲な挑戦をこの歳でも試みる必要があるのだ。自分がここまでの人生を歩んできた最初の目的は何だったのか、再考するときになっている。

身体を鍛えておけ

 最近感じるのは脳も体力が必要ということだ。とても矛盾した言い方だが、私たちは体と頭を知らないうちに別のものとして扱う傾向にある。首から下の人間と揶揄する人たちは、本当の知識人ではない。脳もまた体の一部である。それどころか最も身体性の強い機関であるのだ。

 だから、体力がないと能力(脳力)も落ちる。これは最近私が日々痛感することだ。認知症という身体現象以前に、考えることそれ自体が体力のたまものであることをある程度歳を重ねると痛感することになる。

 私が若い世代に言いたいことは勉強はもちろん大切だが、身体も鍛えなくては脳の力を発揮できないということだ。その意味で現代人は大丈夫なのか少々心配なのである。今はいいが将来体力が衰えたとき、できなくなるのは階段を上ることだけではない。考えることそれ自体が衰退すると人生のすべての質が下がってしまうのである。

 スポーツ選手が引退を意識するのは視力の衰えによるものという意見がある。視力の老化はトレーニングでは防ぎにくく、経験による補完が効かなくなるとトップレベルでは戦えないのだという。アスリートの限界は視力にあるが、一般人は脳の力の維持によるものが大きい。それを維持するためにも若いころの身体的な鍛錬が必要だ。そして日々の活動でも身体に関心を持って適度な運動を続けることだろう。唯脳論者ではないが、やはり人生の質を守るためには脳の保全が欠かせない。そのためにももっと身体を鍛えておけ、と後進には伝えたい。

月やあらむ

 時々思い出す古歌に

月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして

 がある。伊勢物語では業平と思しき人物が后がねの女性に恋してしまった悲恋の話の中に印象的に登場する。

 そういう上つ方の話はそれとして、この歌にある月も春も循環するものなのに、おのれは着実に年老いていく様を歌ったのものとして捉え直すと、この歌のもたらす感慨は計り知れない。地球の寿命と、人間一個人の人生とは桁違いに異なるので、その差異に感嘆せざるを得ないのである。

 それでも私たちは人生の中に何らかの節目を作ろうとする。そうすることによって、人生が単調なものではなく、一定の意味を持つものとして理解できるようになるのである。尺度が変わると人生の見方は大きく変わる。

 そのくらいヒトにとつて重要なものは、自分が生きている生活の期間というものなのだろう。日本人の場合、それが80年程度という微妙な期間がさまざまな意味を持つ。

 古歌の趣きにかえって、自分だけが時間の流れの中で疎外感を感じているという世界観に思いを馳せよう。そこに広がる華やかな世界はそれとして、その中で人間のエリート達がいかにも振る舞うのか。そういったことを関心の片隅におきながら考えてみよう。

ルーティンの気楽さ

 ルーティンに入るとかえって楽だと感じることがある。連休明けで元の時間が戻ると相変わらず忙しく息つく暇もないという感じだが、その方が楽だと感じる自分がいる。よいことか分からないがやるべきことが決まっているということはある意味楽である。

 ただ、やりがいを感じられない仕事を続けると徒労感しか生まれない。やり切れたことの達成感はあるが、それ以上を得るのは難しい。私はかつて自分でやるべきことを決めて、成果を後で問われるという仕事をしていた。その頃の感触が残っているので、今のような毎日やるべきことが与えられ、成果がその都度評価されるという(世の中では当たり前の)やり方に馴染めなかった。

 それも長年繰り返すうちに徐々になれてきてしまった。いちいち次に何をやるかを悩まなくていいのは気楽なのだ。たとえ毎日の業務が多忙であっても。

 そこでまた迷いが始まる。これでいいのだろうか、進む道を人任せにして、明日を迷う作業を忘れても構わないのか。私の心の中では大きな「否」の声が聞こえる。ただ、ならばどうするという問いに関して、私の一部が黙り込んでしまうのだ。

 ルーティンワークの気楽さを抜け出して困惑と試行錯誤の道に入ることを勇気を持たなくてはならない。そういう「から」決意をこれからも繰り返すことになりそうだ。