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日光浴

Hello, sunshine.

 シニア世代に欠かせないものとして日光浴があるらしい。脳の機能低下は加齢の現象の一つとして仕方がないことだが、その予防、もしくは緩慢化のための方策として日光を浴びるということがあるそうなのだ。

 私はいまは通勤のために朝に日光を浴びる生活をしている。でも、すぐに電車に乗ってしまうので、実際に日光浴をしている時間は限られている。職場に着いてしまえば照明の中で生活している。

 退職した後はどうなるのだろう。しばらくはバイトをして食いつなぐつもりだが、それもできなくなれば悠々自適と言う名の中途半端な生活が始まる。先輩はサンデー毎日だと笑っていたが、笑えるうちはまだいい。私の場合は仕事をしない人生は耐えられないだろう。金になるか否かは別にして何かをやり続けたい。この辺はおそらく醜態を晒すことになること必定である。

 さて、その中で日光を浴びる生活はいつまで続けられるのだろう。自分の身体は特に丈夫でもないし。年齢相応の諸問題を抱えている。だから、いつかは立てなくなるだろう。問題は脳の老化だ。脳は感情の制御に関与するので厄介だ。いつまで正気を保てるのか。実はこれが一番の問題である。

私には長寿願望はない。ただ、晩年に他人に迷惑をかけたくないという思いは強い。自分の親のことを考えると、医師とは無関係に他者に迷惑をかけてしまうのが人間の性らしい。それをなんとか最小限にしたい。そのためにも日光浴はしていこうと考えている。

価値の再確認

こんないい時計でなくても

 新しいものが好きなのは変わりがない。どう批判されようと高機能や独自のギミックには惹かれる。使うことがないにしてもそういうものを持っているというだけで満足感を覚える。そういう人は多いだろう。私もそうだ。

 しかし、悔しいが何でも揃えてはいられない。経済的にも保管場所も、そして私自身の能力の余裕も。それらがすべて足りなくなっている。

 こういうときは発想の転換をして納得することにしよう。敢えて昔の商品に価値を見出していこうという作戦だ。使い古しているものの価値を再発見するのである。ただ見つけるだけではなく言葉にしていくことが大事だ。魅力的な説明を考える。

 例えば私は一万円に満たないソーラー電波腕時計を使っている。もう10年近くほとんど毎日使っている。目立った機能はない。この機種としてはほぼ最低スペックだ。表面がプラスチックなので細かい傷がつきやすい。これは磨き粉を使うと消えることが分かったので一旦は消したがまた付きはじめている。

 こういう中古の時計を再評価したい。まず壊れないことは何よりもいい。機能が少ないということは壊れる可能性が低いということだ。電池交換もせず動き続けているのは素晴らしい。時刻補正もする。なぜか月に一度か二度しか電波を拾わないが、時刻合わせはそれで十分だ。表面の傷はそれがもたらす使用感がいい雰囲気を醸し出している。自分の成長を見守っているかのようだ。耐えられなくなったら磨き粉で拭けばいい。あっさりと傷は消える。柔らかいのもいいものだ。スマートウオッチのようにメールの着信通知は来ない。バイタルチェックもできない。それは余計なことに気を取られる心配がないということだ。

 こんなふうに考えてみればいま使っている時計も満更でもない気がしてくる。アップルとかグーグルの時計など何になろう。物の価値は見方次第だ。いくらでも変わる。

誰が縛っているのか

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 中国では言論統制がなされているとはよく報じられる。特定のニュースが意図的に報じられないとか、ネット検索ができない用語があるといかいうことだ。しかし、このインターネットが普及し、人々の国際的な往来が活発なグローバル社会においてその程度で統制などできるのか。いつも疑問に思っている。

 習近平国家主席の異例の長期政権の中で、言論統制が進行しているといわれる。しかし、日本を含めて海外に渡航する中国人は多い。また高学歴かつ、高度な技術力をもった人材も多数存在している。かれらが統制や検閲の存在を知らないはずはなく、実際に海外で目にしたことが中国の国内での知識と相違することなどすぐに分かるはずだ。それなのになぜ統制が効いているのだろう。

 為政者による技術的な情報統制には限界がある。処罰を重くしたところでいずれは破綻する。なのにそれがいつまでも進行しているのは、縛っているのが政府ではなく、国民自身だからなのだろう。つまり、自分自身のアンテナをへし折り、聞こえないふりをすることで海外の影響を食い止めているのだろう。その下地は教育にあるのかもしれないし、政府の意向にそって生活をするものが社会的成功をおさめ、反するものの陰惨な結末をいくつも目にし、耳にしているからかもしれない。縛っているのは自分自身なのではないか。

 中国のことを想像で言ったが、これは日本人にも言えることだ。言論の統制などないと思っているが、さまざまな不文律はあると言われている。これが注意深く意識から外される。自由に発言しているかのように見えて、その枠組みのなかで思考し行動する。はみ出すことを自主規制しているのかもしれない。

 言論の統制というものは意外にも簡単に達成できることになる。何が原因で人は口を閉ざすのか。目の前の異常事態を見逃すのか、政府の圧力という単純な判断では本質は見えない。

You can’t miss it.

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 外国人の入国者が急増しているようだ。水際対策を緩和したことで日本はお安くお得な観光地になった。何度も書くが外国人の立場になれば今がチャンスだ。自国のインフレの影響が生活を苦しめる前に日本で憂さ晴らしをしておこう。

 そんなわけで外国人に道案内をする機会も増えるかもしれない。最も最近は英語ができる日本人は増えているので大丈夫だと思うが、私はちょっとおぼつかない。いや大分不安だ。英語は長い間学んできたが、話す方は特にできない。いろいろな人に聞いてみると、会話力は実際に話す機会がないとつかないという。いくら本で学習しても実際に話す機会がなければ習得はできないというのだ。逆に書けなくても文法が分からなくてもとにかく話せるという人はいる。確かに日本語の文法を理解して日本語を話している人などごく少数だ。

 道案内をした後の決まり文句がYou can’t miss it.であることは知っている。そこまで案内ができるだろうか。自分のミスの方が心配になっている。

母親役

 人のことは分かるが自分のことは分からないということはよくある。私の場合、自分の年齢についてかなりごまかしている。本当は体のあちらこちらにガタが来ているのに、それほど変わっていないかのようにふるまい、実際に自分の年齢に関する自覚が足りないことがある。

 そんな甘い認識が時々破られる。例えば自分と同い年という人の姿を見たとき、その老け具合に驚くのだ。自分はそうではあるまいなどと思っても、むしろその人の方が健康的であったりする。若いころアイドル的な存在だった女優が、老け顔になり母親役などをやっているのをみたときはショックは大きい。確か自分より若かったはずなのに立派なおばさんではないか。などと思うが自分はその上のおじさんであることを棚に上げてしまう。

 容貌が衰えるのは仕方がない。加齢とはそういうものも含む。ただ、若いころの美意識とは異なる別の美しさがあることにようやく気付いてきている。

点の風景

May I have the time?

 仮に時間を往来できるものとして過去のある時点に突然移動したとしたらどう思うだろう。かなりの寝不足のまま乗り込んだ長距離移動の電車内で妄想を始めている。

 面倒な想定を重ねることを避けるために、移動した時点で自分自身は移動することはできず、移動先の人やモノとの交渉はできないのものとする。そういう小説を読んだ気がするが、それとは違ってあくまで無作為にタイムスリップすることにする。

 飛んでいった先の風景はどう見えるだろう。過去の世界はどうだろう。例えば昭和の高度成長期の街の風景はたくましくもかなり危ういものに映るはずだ。その先の展開を知っている者にとって過去の風景に飛び込むのは覚悟がいる。懐かしい風俗、流行の言葉、今はなき道具など心惹かれるものであふれているはずだが。携帯、スマホのない時代はもう一度見てみたい気もする。

 未来に飛んだ場合はどうだろう。もしかしたら自分の死後の世界かも知れない。驚くべき光景が展開されている。手持ちの価値観では許されない行動、似ているが意味の違う言葉、不思議な人間関係など様々想像してしまう。未来は経験したことがないので、よいふうにも悪いふうにも妄想の幅が振れる。そしてきっと最後に思う。この世界に私はいないのだと。

 未来はやめよう。行くなら過去だ。それも大昔がいい。世界史で学んだことを実見するのはどうだろう。そういうのは大抵乱暴だから、何もない日常に飛ぶのがいい。止めたいのは最近の過去だ。やり直したいのにやり直せない。こんな地獄はない。

 くだらないことを考えていたら乗り換え駅だ。少し眠気も冷めた。車内の人は相変わらずスマホに操られている。私も駄文を書くのにスクリーンを擦り続けている。他の時代から来た人が混ざっていたら伺いたい。私たち変でしょう? と。

13℃

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 今日の東京の最高気温は13℃だった。数日前まで29℃あったことを考えればすでに別の季節であることは確かだ。しかも今日は雨が降っていた。

 いいこともある。雨の中を大通りを歩いていたら、信号のない横断歩道で両側の車がすぐに止まってくれた。さすがに寒い中を歩く者を無視できなかったのであろう。運転するものに優しさを思い出させた冷たい雨であった。

 明日は小回復するとのこと。すでに夏の思い出は褪せ始めている。いまは先に進むしかあるまい。

人間としての評価

魅力的な人間とは

 よく言われることだがいわゆる知能指数だけでは人間は計れない。学校の試験のような出題者が予め想定する解答がある問題ならば知能がものをいうが、答えのない問題に関してはそれだけでは対応できない。

 最近、学校に行く意味がないという人がいる。一斉教育をしている日本の学校は無意味だという。学力が高い生徒にとっては退屈な授業であり、低い生徒にも逆の意味で無意味だという。

 確かに従来の講義形式の授業であればわざわざ学校で自分にあっていない授業を受けるより、自分にあった問題集を解く方がよほど有益だ。しかし、この考え方は測定可能な学力だけしか考えていない。

 学びには、自己を制御したり、周囲と調和したりする行動も含まれる。自他を学びに向かわせ、利益を共有する力がいるのだ。これを身につけるのは集団の中に身を置く必要がある。

 学校は知識だけではなく、感情や協同の涵養の場にしなくてはならない。知識の伝達ではなく、伝達される知識に意味があり、それを活用するためには一人ではできないことをしなくてはならない、ということに気づかせること。それが学校の存在意義だろう。

 そのためにはまずテストの点数だけで生徒や学生を評価してはならない。もう少し広範の人間性を視野に入れるべきだ。

記憶の怪しさ

 有名なエピソードに「ショッピングモールの迷子」というものがあるらしい。これは人の記憶が如何に危ういものであるかを物語るものだ。

 成人の被験者に家族から聞いたエピソードとして4つの話を聞かせる。実はそのうちの一つのショッピングモールで迷子になったことがあるというのは実験者が勝手に加えたもので、事実ではない。ところが、4つのエピソードをすべて本当の思い出だと思い込んだ人が全体の4分の1に及んだという。

 記憶は過去だけではなく、現在や未来にも影響を及ぼす。記憶として残っていることが行動の規範になることもあるからだ。しかし、ショッピングモールで迷子になったことがない人が、その経験をもとに何を考えたり行動したりすることがあるということになる。この程度のことなら罪はないが、これをたくみに利用すれば他人の記憶を操作できることにもつながる。

 この実験が知られてから、裁判で過去の記憶を証拠として扱うことが慎重になったという。虚偽記憶とか過誤記憶などと分類される様になったのである。人の記憶はかくして曖昧で移ろいやすい。

 そうはいっても、私たちは記憶の中で生きている。もし、一切の記憶がなくなれば世の中は大変ワイルドになる。安心して歩くこともできない。記憶は私たちが生きる支えだ。

 ならば、この曖昧な世界をどう生きてゆけばいいのだろう。まずは自分の記憶を絶対的だと思わないことだ。他人の記憶も同じだ。その脆くも頼らざるを得ないものをなるべく出し合って、折り合いをつけていくしかないのだろう。これは人が生きることの基本なのかもしれない。

大気の入れ替わり

 気象学的には正しくないのかもしれないが、今日空気が入れ替わるようだ。正確には寒気が到来して、季節が進むのだという。

 この時期になると仕事は一段と忙しくなる。いろいろなことに結果が求められ、その多くは達成できずに悩むことになる。そして、それに妥協しながら冬を迎えていく。そういうことを何年も繰り返している。

 短期的には挫折の連続だが、中長期的には確実に何かを達成できているはずだ。そうでなければ今の自分はないはずなのに、つい今日の失敗ばかりが気になってしまう。

 季節が変わるのはあるいは大切なことなのかもしれない。時間の進行が意識できるし、確実に次の場面に進行したと自覚できる。うろたえることなく前を向くことにしよう。