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まだ何もないところへのパス

 サッカーやラグビーの選手の出すパスはまだそこに誰もいないところに向かって出される。だから、相手も取れない。

まだそこにいない相手に

 パスを送る者も受ける者も動きのエネルギーの方向や大きさを予測し調節しながら試合をしているのだ。それが際どいものほど、スーパープレーということになる。

 恐らくこれはスポーツ以外にも当てはまる。まだ起きていない事態に向かってパスを送る。そしてそれを受ける相手はその場所に最短距離で向かう。これが上手くいけば大きな成果が得られる。

スポーツが人生のヒントになるのは、スポーツが人生の一部を切り取って強調したものだからだろう。複雑な要因の枝葉を落とすことでものごとがわかりやすくなることはある。

涼しくなつたら始めようと思っていたこと

 ようやく猛烈な残暑も終わろうとしている。昨日は雨に降られたが、深夜にたどり着いた実家のもより駅の温度計は21℃を表示していた。

 秋になったら始めたいと思っていたことがいくつかある。ひとつは久しぶりのジョギング、もう一つは読書、それも多読、そして短い小説の完成と応募である。そのためにやるべきことはこの夏に少しずつ準備してきた。

 体力づくりの方は至急の課題である。かつてと違い、目標は体力維持であり、自己尊厳の安泰である。だから、これは自己満足でよい。

 インプットのための読書は地道に続けてきたが、秋はその度合いを少し増したい。これも何かを覚えるための勉強ではなく、流れ出す知識より少し多めの内容を補充することでバランスを維持しようという企てだ。

 小説を書くというのはアウトプットの手段である。小説でなくてもいい。考えたことを言語化してみることで自分の存在を確たるものとしたいのである。

 暑さを理由にしてできなかったたことが、少しずつできるようになる。まだ変わりうる己の可能性を信じよう。

方針転換

 私の中で健康を気遣い無理をせず無難に生きるという人生観が揺らぎ始めている。長生きをして何になるのだろう。長生きを最終目的にするのは間違っているのではないかと思うようになった。

 大切なのはいま何ができるかであり、自分のやったことがどれだけ他者の幸福に寄与するかということなのだ。長く生きることはその結果であり目的ではない。

この歳になってようやく気づいた。今やれることを少し背伸びしてでもやるべきなのだ。おそらく理想通りにはできない。ただ、できるかできないかの二択ではなく、どれだけやろうとしたのかが大事だ。結果を出さなければ人は評価しない、そこに名誉や利害関係が絡むと話は一層複雑になる。でも人の評価それ自体が相対的であり流動的なものなのだ。やったけどできませんでしたは、何もやりませんでしたよりはましだ。もちろん他人に迷惑をかけないという条件は守らなくてはなるまいが。

比喩の力で自分を救う

 行き詰った状況の時に突破口になるのが比喩の力である。現状を何かに例えると少しだけ気持ちが整理される。そのときにどのような心理が働いているのだろう。

 ここでは直喩を例に挙げる。「のような」「みたいな」などを使う比喩の方法である。今は大変な状況だがそれは「ジャンプするまえにかがむようなものだ」とか、「夜明けの前の暗闇みたいなものである」といった比喩である。これは自分の中にある悩みとか弱みを一般化することで深刻さを緩和する効果があるのかもしれない。

 ただたとえるものを間違ってしまうと逆効果になる。暗澹たるもの、終末的なものに例えてしまうと現実はそれ以上に深刻化する。自らを励ますためにはそれなりの語彙力が必要だ。明るい色合いの言葉をたくさん持っていることが自分を救う。

脱力してから

いつも張りつめているとできなくなることもある。実力者以上の結果を出そうとするとき、そこには無理が必ずある。無理してでも現状打破しなくてはならないこともあるが、いまはその時てはない。

脱力してから力を出した方が結果的に上手くいくこともあるものだ。急の前の緩は大切だ。8月の終わりは憂鬱になりがちだ。四月病ならぬ九月病も必ずある。それを乗り越えるには敢えて頑張らない選択も必要かと考える。

これは諦めることとは違う。時宜を考えるのだ。

熟考すること

 何かをするときにその意味を深く考えるということは大切だ。意味を考えずにやることはときに大きな失敗を招くばかりか、周囲に多大な損害を与える。それは分かっているが実際には考えずに行動することの方がはるかに多い。

 意味を考えていたら行動に移せない。出遅れれば制せられる。そこで受ける損失を恐れて考えずに行動してしまう。中には習慣化して行動を半ば自動化していることも多い。訳を考えずに行動することは仕事をこなすスキルともみなされている。

 でもやはり、時々立ち止まることが必要なのだ。無批判に他人の言われるがままに過ごせば、いつか悪意のあるものに操られるかもしれない。そのような前例は歴史の中でいくつもある。沈思熟考のときを設ける必要がある。

見るだけ学習の落とし穴

 最近漢字が書けない生徒が増えた。いわゆる学力とは無関係に総体的に漢字力が落ちている。これは印象でしかないので調査が必要だが、先日ある会合でいわゆる進学校の先生方と話をしたときも同じ話になった。もっと言えば読むことはできても書けないというのだ。簡単な字であっても書かせるとおかしなことになるという。

 この原因はほぼ断言できる。字を書く機会が激減していることにあるのだろう。子供世代まで現在はスクリーン上で字を読み、書くときもコンピュータを使うということが多い。すると、文字を書く機会がないのである。漢字のような複雑な形をしているものは繰り返し自分で再現しなければ覚えられない。曖昧な記憶でもコンピュータの自動候補選択のおかげで済んでしまうが、詳細は分からなくなる。

 最近の子どもたちの学習で最もよく見られるのは赤いシートで文字を隠して用語を覚えるという方法である。それに対応した問題集がシート付で売られている。生徒諸君はこれを使って見事に英単語や歴史用語を覚えている。ただ、この方法は短期記憶しか形成しないようだ。テスト前の直前学習には向いているが、有効期限付きの記憶となり知識として蓄積されにくい。私たちがやるべきなのはやはり手を動かして要点を書きながらまとめるというパソコン普及以前の学習法のようなのだ。

 これは漢字や英単語、歴史や科学用語などの語彙のレベルの問題にとどまらない。思考を行う際に自分の言葉への変換というプロセスが欠けてしまっているため、複雑な考察ができにくい。分からなくなったらすぐに検索して他人の考察をつぎはぎするので、提出されたレポートは一見出来上がっているように見えるが、統一感がなく筆者の立場や主張が欠けているものが多い。それも手書きでメモを取り、自分の頭脳で再構成するという段階が抜けているからだろう。

 データの検索や分析は機械の助けを借りても、それを使って思考する段階ではやはり筆記用具を使った方法の方がはるかに効率的だ。この方法を使い分けなくてはならない。基礎的な学習段階では要点を手書きでまとめる力の育成に注力したほうがいい。教員の仕事はこの使い分けを教えることにある。

 そのためにはテストの形を変えて評価の方法を変えなくてはなるまい。用語を記憶するのではなく、要するにこれは何を言いたいのかを自分の言葉でまとめさせる解答を求めるのがよい。教員の立場でこの理想に想定される反論を考えるならば、理想的だが採点が大変であり、客観的評価が難しいということがある。記号で選べ、アが正解、の方がはるかに簡単だがこれでは「見るだけ学習」の打開にはならない。答えを自分の言葉で考えさせ、それを表現させるためには、思い切って問題数を減らし、記述させた答えを評価するための観点を確立させたうえで時間をかけて採点するしかあるまい。

変わらぬ場所

 毎年同じ日に同じ場所を訪ねると懐かしさとともにいろいろ思うことがある。無常観といえばそれまでだが、話はもう少し複雑だ。

 日常的な生活空間は常に印象が更新されるので、その変化に気づくことは少ない。建物が建築されたり、取り壊されたりするとその瞬間は変化を感じるが、すぐに時間の流れの渦に飲み込まれ印象が薄くなる。自分自身も常に変化しているのにそれに気づくことはできない。今日の私と昨日の私は細胞レベルでは別の存在だ。それが1年前とか10年前とか期間を長くとればかなり変わってしまう。ベクトルを未来に向けても同じだ。1年後、10年後の自分は今の自分とは異なるはずだ。もっともその時に生きているかどうかは誰もわからない。

 こういうことを思い出すのは、同じ時期に同じ場所に旅をしたときだ。同じ風景に同じ空気に触れたとき、自分は変わったのにと思う。実際はその風景も変化している。その変化よりも己の変化の自覚の方が大きいからなのだろう。自分の変化を知ることは辛くもあり、厳しいことも多い。ただそれを知ることで救われることもある。その意味で日常を抜け出すことには意味がある。

励まし力

 かつて軽登山が趣味だった頃、よく言われたのは疲れたときには他人を励ませ、するとその相手は励まされ、自分自身も力が出るものだと。それは登山をする人には常識のようだ。

 他者を励ますことで自分まで癒やされるのはなぜだろうか。自分は疲れていないぞと虚勢をはって相手へのマウントを取り、気分的優位に立つから、という解答は合っていない気がする。そういうことではない。

 恐らく他者を激励することの行動のうちに、自分を鼓舞する内容が含まれているのだ。あるいは他者を励ます行動そのものが何らかのいい影響をもたらすのかもしれない。

 励ますために使う言葉にヒントがあるのかもしれない。人を励ます言葉を見つけた人は自分自身も励ますことができる、それが大事なことなのだろう。