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巨大な都知事候補ポスター掲示板

 都知事選挙のポスター掲示板の大きさには呆れている。数字は30までふっているが、不足することが予測されているため、欄外にも枠がある。それでも足りなくなる可能性があるらしい。

 首長選は政党の選挙ではないが同じ政党から複数立候補するのはやめてほしい。質より量で衆目を集めるのが目的だろう。選挙をビジネスにすることは明らかにおかしい。そのためにかかる経費は都民の税金からなる。今からでも候補を絞るべきだ。

 都知事は注目度が高く、ある意味首相よりも民心を掴みやすく、政治家にとってはうまみのある仕事なのかもしれない。また、選挙に出馬するだけで一定の宣伝効果がある。だからといって金に任せて気軽に立候補するのはいかがだろう。結果的に民主主義の質の低下をもたらしている。子どもたちに都知事選のあり方は残念な事例としか紹介できない。

 都民以外の方が巨大な掲示板を見かけたら是非笑っていただきたい。そして次にこの国の行く末を案じていただきたい。

時刻表どおりホームに着いても乗れない

 時刻表通りにホームについても電車に乗れないことがある。最近は秒単位で時刻合わせをする時計やスマホを時計代わりにしている人が多いので、これはおかしいと思う人が多いだろう。

 ただ鉄道会社の多くは発車時刻を電車の動き出す時間としており、ベルや閉扉はその前に終わっていることが多い。だから、00秒にホームに着いても乗れない可能性があるし、文句も言えないことになる。

 遅れることにはとやかく言うが、時刻表通りでも不満を漏らす人はいる。まずは時刻表より数分前にホームに立つていなければ電車には乗れないと再認識しておこう。

神は自認しない

 昭和の歌謡曲の有名な歌詞もしくは台詞にお客様は神様ですというのがあった。高度経済成長期の商業の場面でもこのフレーズはしばしば援用されていた。日本の接客サービスの良さはあるいはこのマインドセットが影響しているのかもしれない。

 ただし、これはサービスをする側の心得、もしくは目標のようなものであって顧客側が神様を自称したらおかしなことになる。サービスを受ける側の態度が尊大になると様々な弊害が起きる。

 カスタマーハラスメントと言われる迷惑行為は、残念ながら中高年層に多いのだという調査結果が出ている。本来なら若い世代を導くはずの中高年がトラブルの主人公になってしまっているのだ。

 その原因の一つは目まぐるしく発展し変化を遂げた技術についていけてない焦燥にある。昔なら店員が平身低頭で接客していたのにいまはセルフで何でもやらなくてはならない。その説明もないのに若い世代はすぐに順応するが、年配者はそうはいかない。だから、サービスの不十分を感じ、それが怒りにもなる。

 神のごとく特別な態度は実は何もできない焦りでもあるのだ。我々は神を自認してはならない。それをした瞬間から、人間とは通じ合えない孤独な存在になってしまうのだ。

 私はカスハラを起こす世代にある。最近の機械任せの状況は人手不足や、経費節減のための策であることは承知している。しかし、やはり物を売る側の奉仕と、買う側の感謝は忘れてはならないと思う。怒れる老人に眉を潜めているだけでは解決しない。そういうあなたも将来同じようになるかもしれない。奉仕と感謝の精神を再認識する必要がある。

雨漏り

 昨日はすごい雨だった。雨が傘の下から吹き込んで来て、傘を破壊していった。台風の遠い影響というが本当に接近したらどうなるのか、空恐ろしい。

 気になるのが利用駅の雨漏りである。最近ほうぼうの駅で雨漏りを見る。メンテナンスが追いついていないようだ。もしかしたらそういう仕事のできる人が減っているのかもしれない。AIを駆使してもこうした作業というのは今のところ人手によらなくては立ち行かない。

 大雨が降るたびに雨漏りする駅舎に今後の不安を感じている。やるべきことには人材を投下すべきなのに、それがないといつか瓦解する何かがあるはずだ。

リモコンの夢

 子どもの頃、リモコンで走る車や船の模型はとても欲しいものだった。結局、一度も手に入れたことはない。空想の中で操縦して楽しむのが関の山だった。

 それがいまはドローンと呼ばれるプロペラ飛行体かでき、玩具でもかなりの高さまで操縦可能だ。値段も手の出ない額ではない。残念ながら、かつてのように操縦してみたいという欲求はなく、結局まだ触ったことがない。

 リモコンは私にとって子ども時代の夢であった。しかしこの夢の機械でいま厄介な戦争が行われている。ミサイルは究極のリモコン機器だが、他にも無人機による攻撃が実際に行われているという。ウクライナや中東の戦場ではそれらが飛び交い、人のいない攻撃がなされている。

こうなるとリモコンは夢の機械でもなんでもない。恐ろしい兵器であり、凶器だ。大変残念だが、それが現実である。

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悪評の裏側

 商品やサービスに対する評価コメントを見ることができるのは、インターネットサービスの利点の一つだ。新しく買うものに対しては情報がほしい。当事者の説明が一番だが、誇大表現や虚偽が含まれていないとは限らない。利用者の感想を読むことができるのは有益だ。

 ところがこのコメント自体がかなり怪しいこともある。必要以上に賛美したり、逆に根拠もないのに否定的な見解を書き込んだものもある。ある商品のレビューの記事があまりにも多く、大半が高評価なので、注意深く読んでみると明らかに作為的で、中には別の商品のことに違いないものも含まれていた。また、ネガティブなものも定型があり、コピーしていると考えられた。

 グーグルマップのコメントが事実無根で営業妨害、名誉毀損に相当するとして病院の医師等が、グーグルに対して訴えを起こした。虚偽情報を放置している運営会社にも責任があるという訴えだ。どのような判決が出るのか注目したい。

 こうしたデマや嘘の情報のことが話題になるたびに人間の情報処理能力の限界を感じる。野生の時代、情報を正確に把握することは死活問題だったはずだ。いまはこの頃に比べて情報収集の力は格段に上がった。しかし、それを判断、処理する能力はさほど上がっていないということなのであろう。

人の識別

 人物を区分するときの類型とでもいうべきものがある。大雑把に言うと日本人の顔はだいたい似たような顔立ちであり、おそらく外国人から見ればあまり見分けがつかないのではないか。私たちが白人や黒人を実はそれほど区別できないのと同じように。

 しかし、同じ日本人でも親疎によって解像度に違いがある。親しい間柄ならば、詳細な差異も見逃さない。僅かな特徴を人格と結びつけて理解できる。逆に疎い関係ならば、分節は荒削りになる。男女、大体の年齢、メガネの有無くらいしか識別しない。

 こう考えると人間関係というのは細かな違いにどれだけ気がつけるのかということになる。私は人の顔は覚えられるが名前が覚えられない。見覚えがあるが名前はなんだったのかと思うことがしばしばある。思い出せなくて申し訳ないということが多いのは困ったことだ。

 人が人を識別するというのはこういうことなのだろう。それがいわゆる顔認証システムのようなものができるともう人間関係はどうでも良くなる。識別の方法は詳しく知らないのだが、要するに顔の形やパーツの配置を数値化して情報として扱うのだろう。この人はABCD型、あの人はABDE型のように。そんなに単純ではないだろうが。こうなると顔を覚えるという意味が全く違うものになる。どんなときでも人物特定するし、とっくの昔に関係が途切れていても誰だかたちどころに分かる。

 人が人を覚えることの意味を考えなくてはならない。そして適度に忘れていく意味を思うべきだ。永遠に忘れられないということは時と場合によっては実に厄介なものである気がする。

騙されやすい日本人

 情報に騙されやすい傾向があるという報道があった。日本人がアメリカや韓国の人々と比較してメディアに対する不信感が低いという調査結果である。

 高度情報化社会という言葉はすでに陳腐となり、使う人も少ないが情報が社会を動かす中心にあることは紛れもない事実だ。ただ、その情報には良し悪しがある。良い情報は生活を豊かになしうるが、悪い情報は日常を破壊する。そしてその区別は極めて困難であり、全く同じ顔をしているから都合が悪い。

 アメリカの人々が情報への懐疑性が高いのは常に偽情報にさらされている自覚があるからだろう。単純な詐欺情報だけではなく人工知能を駆使した巧妙なものもかなりの頻度で現れている。大統領候補者のディープフェイクで、イメージダウンを謀る方法などいまは専門家でなくても可能だという。情報には嘘があって当たり前という現実に晒されていれば考え方は変わっていく。

 日本でもその状況は全く変わらない。やはり偽情報は横溢しているし、そこには悪意も堆積している。それを見抜くこと、あるいはやり過ごすことにかけてまだ慣れていないということなのだろう。

 情報を受け入れるときには必ず異説の存在を確認する。嘘の情報なのかをその情報源に遡って考え過信しないという余裕が求められている。

 私のブログはその意味では信じるに足りない。ただ、自分の意見以外を示すときは出典をリンクするようにはしたい。自らのメディアリテラシーを保つためにも。

シニア都市計画

 街の造り方がこれからは変わっていくはずだ。高齢者が増えればいまの構造は都合が悪い。段差、傾斜は極力少なくしなくてはならないし、文字表示は大きくはっきりさせる必要がある。これは少しずつ確実に起きていくだろう。

 交通機関もバスや相乗りタクシーのシステムを実態に合わせたものにしていかなくてはならない。こういうことは地方都市で実践されているから、その先例を検討すべきだ。

 高齢者を家に閉じ込めず、街に出させ消費者にさせることが、この国の課題となる。まずはそれで経済を回し、並行して少子化対策をしていく必要がある。高齢者をこどもの養育や学童クラブの指導者として活用するのもいい。働ける高齢者をいかに活用するか。街のハードとソフトのデザインを進めていかなくてはならない。

刻々と変わる関係

 中高生のみなさんにとっては4月は激変のときで、5月にその疲れが出やすいといった流れだろうか。交友関係が個別的なこの世代にとってはある個人との隔絶が人生の重大な局面のように思いがちである。

 でも、実際の人生というのは常に変化しており、交友関係もその時々で移り変わっていく。現在の親友が数年後も同じであるか否かは誰にもわからないし、分かったとしてもその度合は刻々と変わってとどまることがない。つまり、中高生のときは人間関係を静的に捉えがちであるが、実は動的なものなのである。この認識が獲得できるには人間的成長が必要である。獲得以前の世代であるからこそ悩みも迷いも尽きないのである。

 他人の評価も実は動的なものである。いま冴えない垢抜けない友人が将来もそうだとは限らない。私の経験でも生徒時代は地味で取り立てて能力もないと見下していた友人が、大出世をした例を知っている。今の人間関係が将来にわたって継続するはずはないのだ。

 私たちは他者を理解するときに図式的に単純化する傾向がある。それができれば自分の立ち位置も決まり安心ができる。しかし、先述した通り事態は単純ではない。若い世代の皆さんに言いたい。世の中はそんなに単純ではない。常に変化し続ける。だからどんなに変わっても生き続けられる最低限のスキルと身につけることを忘れずにいてほしい、そして、いまは孤立していると感じても、実は将来は仲間の中心にいるかも知れない。とりあえず前に進もう、と。